2021年4月28日

新型コロナワクチン接種副反応に対する不安

Pfizer-BioNTech Covid-19 Vaccine
ファイザー社製 Covid-19 感染症ワクチン

ファイザー社製コロナワクチンの「接種券」と「予約開始のお知らせ」が届いた。近所のクリニックに予約したが、ワクチンをが届くのは6月以降のようだ。私は十数年まえに心筋梗塞を患い、以降三カ月ごとに総合病院の循環器内科で外来診察、血をサラサラにする薬などを処方してもらっている。気になるのはワクチン接種の際の服用薬による副反応である。電話で問い合わせたところ、医師とは話せず、看護師によると「接種はご自分で判断してください」というつれない返事。病院側としては、副反応に関する明確なデータがないので、接種するなとは言えないし、接種しても大丈夫とは断言できないということだろう。医学的知識がないのに自己判断は無理、自分なりに調べてみた。厚生労働省の「ファイザー社の新型コロナワクチンについて」によると、受けることができない人は(1)明らかに発熱している人(2)重い急性疾患にかかっている人(3)本ワクチンの成分に対し重度の過敏症の既往歴のある人など。そして注意が必要な人は次の通りだという。

  • 抗凝固療法を受けている人、血小板減少症または凝固障害(血友病など)のある人
  • 過去に免疫不全の診断を受けた人、近親者に先天性免疫不全症の方がいる人
  • 心臓、腎臓、肝臓、血液疾患や発育障害などの基礎疾患のある人
  • 過去に予防接種を受け接種2日以内に発熱や全身性の発疹などのアレルギーが疑われる症状がでた人
  • 過去にけいれんを起こしたことがある人
  • 本ワクチンの成分に対して、アレルギーが起こるおそれがある人

血をサラサラにする薬を毎朝服用しているので、私も要注意かと心配になった。そこで京都市新型コロナワクチン接種コールセンターの専門的な相談窓口(075-424-5490)に電話したが、回線がビジーで通じそうにもない。次に厚生労働省新型ワクチンコールセンター(0120-761-770)に電話してみた。すんなり繋がり、医師ではないが、担当者と話すことができた。そこで訊かれたのは血をサラサラにする薬の種類だった。

画像をクリックすると拡大表示します(出典:厚生労働省)

処方箋を改めて見ると、私が服用しているの「タケルダ配合薬:アスピリン・ランソプラゾール」で、これは抗凝固薬ではなく、抗血小板薬である。これなら副反応ゼロとは断言できないものの、通常通り接種を受けても構わないようだ。続けて京都市からもメールが届いた。「この抗血小板薬といわれるお薬であれば、通常通り接種を受けていただけるとされています。この情報につきましては、厚労省のページでも説明されています。

https://www.mhlw.go.jp/content/000738777.pdf

ただし、こうした血をサラサラにする薬を飲まれている方は、出血すると止まりにくいことがあるため、予診票にも記入いただくようにお願いいたします。接種後の出血について、接種会場で注意をしてもらえるよう、問診時にご相談ください」という返事だった。さて、どうしようか。

PDF  ファイザー社製新型コロナワクチン接種についての説明書 | 厚生労働省 (PDFファイル 790KB)

2021年4月27日

アフリカ系アメリカ人カウボーイ秘史

African American Cowboy
African American Cowboy 1800s

スミソニアン誌電子版2017年2月13日付けの記事「知られざるアフリカ系アメリカ人カウボーイの歴史」によると、カウボーイの4人に1人はアフリカ系アメリカ人だったという。アフリカ系アメリカ人のカウボーイを描いた数少ない作品としては、ピューリッツァー賞を受賞したラリー・マクマートリー(1936–2021)の小説を原作とした、1989年のテレビ映画『ロンサム・ダブ』がある。名優ダニー・グローヴァー(1946-)が元奴隷からカウボーイになったジョシュ・ディーツを演じた。黒人カウボーイは、19世紀に奴隷から派生したもので、農場や牛の世話をするための安価な土地を探していた白人入植者によってもたらされのである。カウボーイの存在は15世紀にまで遡る。奴隷が主人と一緒に現在のテキサスに渡ってきたのは、19世紀の1800年代になってからであった。テキサスは、スペイン領、メキシコ領を経て、最終的に米連邦の一部となった。メキシコ人は1820年代には奴隷制度を禁止していたが、白人入植者は報復の恐れもなく奴隷を連れてきた。入植者たちが南北戦争に参戦している間、奴隷たちは土地を維持し、牛の世話をしていた。

Nat Love
Nat Love in his autobiography (1854–1921)

奴隷解放宣言により、元奴隷たちには労働に対する報酬が求められるようになった。エレベーターの運転や配達人など、数少ない職業の選択肢があったが、開拓地に行ってカウボーイになることを選んだ人も多かった。カウボーイの需要がピークに達したのは、牧場主が北方で自分の牛を提供し始めた時だった。

Smithsonian Folkways SFW40224

鉄道が整備されていなかったため、牛はカンザス、コロラド、ミズーリなどの州に物理的に輸送されなければならなかったのである。アフリカ系アメリカ人のカウボーイたちは、馬に乗ったまま荒々しい地形でこれらの群れを寄せ集めるスキルを持っていた。そして土地を守っている先住民族から侵略者と思われこともあったようだ。しかし彼らは、白人のカウボーイたちとお互いに心を通わせていた。奴隷生活の後、厳しい現実に直面した後には、仲間意識が必要だったのである。元奴隷でカウボーイになったナット・ラブ(1854-1921)は、自叙伝『ナット・ラブの人生と冒険』 の中で「彼らは恵まれない仲間に毛布や最後の食料を分け与える準備が常にできていて、カウボーイの生活で絶えず起こる多くの困難な状況において、常にお互いに助け合っていました」と述べている。なお、アフリカ系アメリカ人のシンガー&ソングライター、ドム・フレモンス(1982-)が2018年にCDアルバム『ブラックカウボーイ』をリリースしている。西部開拓時代の黄金期の音楽、文化、そして複雑な歴史に敬意を表した作品。この種のものとしては初めてとなる音楽アルバムで、フレモンズはアメリカ人のアイデンティティの重要な部分を探り、再分析している。紹介されている歌と詩は、リスナーを旧西部のトレイルからレールへの明るい旅へと誘う。アメリカ合衆国の建設に貢献した何千人ものアフリカ系アメリカ人の開拓者たちの足跡を辿っている。

SmithsonianThe Lesser-Known History of African-American Cowboys | Smithsonian Magazine

2021年4月25日

ステレオ写真は幕末時代からあった

磯邸から見た桜島
磯邸から見た桜島(鹿児島市「尚古集成館」所蔵)
島津忠義(1840–1897)

ステレオ写真(立体写真)は、両眼視差に基づく二眼式の表示方法だが、その原理は写真術の発明以前から知られていた。1832年にイギリスの物理学者、チャ―ルズ・ホイートストーン卿(1802–1875)によって発明されたステレオスコープは、フランスの光学機器商デュポスクが商品化、1851年のロンドン万国博覧会で公開された。ステレオ写真の撮影には、僅かにアングルが違うふたつのレンズがついたカメラが使われた。できあがった10センチ四方程度の小さな2枚の写真をステレオスコープで見ると、画像が重なり合い、立体的に見えるという仕掛けだった。ステレオ写真はサイズが小さく安価だったため、1860年代には爆発的ブームになった。このブームは写真趣味の一分野として定着、少なくとも1世紀にわたって継続したのである。若い世代にとって 3D 映像は新しい技術と思われがちだが、実はステレオ写真の歴史は日本でも古く、幕末時代に遡る。上掲した桜島のステレオ写真は薩摩藩十二代、最後の藩主だった島津忠義(1840–1897)が撮影したもので、写真集『読者所蔵「古い写真」館』(朝日新聞社1986年)にも掲載されている。

朝日新聞社1986年

日本に銀板写真カメラが渡来したのは1848(嘉永元)年で、上野俊之丞(1790-1851)がオランダから輸入したものだった。そして日本人が日本人の撮影に最初に成功したのは1857(安政四)年、市来四郎など薩摩藩の若い研究者たちが撮影した藩主島津斉彬(1809–1858)の肖像写真だった。斉彬は藩の科学者たちを主導して銀板写真技術の研究を推進させたが、藩主を継いだ島津忠義も無類の写真好きであった。維新のとき、27歳という男盛りだったが、後見として仕切る父、久光(1817–1887)の影にあった悶々の日々を送った彼には、写真機を持って各地探訪が最大の憂さ晴らしだったのだろう。最後の藩主となったが、フランスから輸入された暗箱カメラやステレオカメラ、慶応末にはイギリス留学の藩士から送られてきた暗箱カメラを愛用していた。幕末から明治時代にかけて彼が写した島津家の人々や、鹿児島をはじめ各地の風景写真が残されているが、その中にステレオカメラによる立体写真が多く含まれてることは、案外知られてないかもしれない。ステレオ写真が多いのは、この時代に一世風靡したという背景にあったからだろう。

PDF  The History of Stereo Photograph by The Chicago Stereo Camera Club (PDF File 261KB)

2021年4月20日

世界ピンホール写真の日は4月25日(日)です

WPPD

毎年4月の最終日曜日は、世界ピンホール写真の日(Worldwide Pinhole Photography Day)で、今年は4月25日(日)です。新型コロナウィルス感染症 COVID-19 を防ぐため、戸外では人混みを避けての撮影に心がけましょう。外出自粛要請がある地域では、室内でのスチルライフ(静物)撮影をお勧めします。この日に制作されたピンホール写真を、下記ウェブサイトにアップロードすると、特設ギャラリーに掲載されます。

WPPD 2021年世界ピンホール写真デー(WPPD)ウェブサイトへようこそ!

2021年4月18日

アフリカ系アメリカ人二重リンチ事件から100年

Scott and Violet Arthur family
シカゴのポーク・ストリート・デポに到着したアーサー一家(1920年)

1877年から1950年までの間に行われたアメリカの人種的恐怖のリンチで、何千人ものアフリカ系アメリカ人が殺された。そして政治的、経済的、社会的に有色人種が疎外され、南部からのアフリカ系アメリカ人難民の大移動に拍車がかかった。リンチと人種的恐怖の時代は、生存者、家族、そしてコミュニティ全体に深いトラウマと心の傷を与えた。1893年、テキサス州パリスで、17歳の黒人ヘンリー・スミスが3歳の白人少女を殺害した容疑で逮捕された。2月1日、州内から1万人の白人が集まり、ヘンリーをカーニバルの山車に乗せて町を練り歩き、1時間近く残酷な拷問した後、生きたまま焼き殺した。さらに1920年、パリスの白人経営の農場で、アーヴィングとハーマン・アーサー兄弟がリンチされた。7月6日、3,000人の暴徒が彼らをフェアグラウンドの旗竿に縛り付け、拷問した後、焼き殺した。この事件は正義を求める地域や国の火種を拡大し、増幅させるものだった。家族は町の一部の白人に襲われ、北部への逃亡を余儀なくされ、シカゴに移住した。

アーサー家の子孫たち(シカゴトリビューン紙)

ふたりの息子が生きたまま焼かれた2ヵ月後の1920年8月30日、シカゴのポーク・ストリート・デポに到着したスコットとヴァイオレット・アーサー夫妻の写真は「大移動」の象徴となったのである。着飾った一家とボロボロのスーツケースは、1900年代にアフリカ系アメリカ人が南部の危険から逃れるために北部や西部に移動したことを象徴している。パリスではアーサー兄弟の遺産がいまだに大きく残っている。この町はアメリカの多くの町と同様に、人種差別の過去を受け入れていない。この歴史上の決定的な瞬間を、表に出して和解するよりも、埋めてしまう方が簡単だったのだ。しかし小さなグループが、この茶番劇を認め、アーサー家に謝罪し、町を前進させる時が来たと考えた。彼らはリンチ100周年を記念して昨年、地域の戦没者慰霊碑に集まり、アーサー兄弟の子孫20人以上も参加した。南部の綿花畑から遠く離れた中西部で、アーサー家の子孫は冨と繁栄を得ることができた。そして一家を引き裂き、存続を脅かしたリンチの重荷から解放されたのである。一連の事件に関し興味あるかたは下記リンク先のシカゴトリビューン紙の記事「南部に回帰:100年前にシカゴに逃れてきた一家の二重リンチ事件を振り返る」(英文)をお読みください。

news  A family revisits a double lynching that forced them to flee to Chicago 100 years ago

2021年4月17日

羽飾りを拒否した英国の女性たち

woman behind the gun
Emily Williamson

アルゼンチン生まれで英国の作家 W・H・ハドスン(1841–1922)は『鳥たちをめぐる冒険』(講談社学術文庫)の中で、美しい野鳥の殺戮に力を貸しているのは「殺された鳥の飾り羽や残骸で自分の頭を飾りたがる、おそろしき女性の一連隊だ」と嘆いている。このファッションは次第にヨーロッパに広まり、後には植民地アメリカにも広まっていった。1850年には、世界各地で何十万羽もの鳥を殺すという大規模な商売が行われるようになった。 中でも白鷺は、最も優雅な羽を持つ繁殖期の鳥の格好の標的となった。 成鳥は殺し、雛は灼熱の太陽の下に放置した。 時には傷ついた鳥から羽毛を抜き取り、そのまま放置して餓死させることもあった。 東海岸やエバーグレーズでは、サギなどの渡り鳥が大量に屠殺されていた。鳴禽類も人気があり、鳥を丸ごと剥製にしてヴィクトリア朝の女性たちの帽子に飾っていた。アジサシやカモメの羽毛もよく使われ、1万羽以上の繁殖コロニーが丸ごと殺された。女性の帽子のための羽毛の野蛮な取引に対抗するために立ち上がったのがエミリー・ウィリアムソン(1855–1936)だった。1889年にがマンチェスター郊外のディズベリーにある自宅で友人たちをお茶に招待し、羽毛を身につけないという誓約書に署名してもらう。

The Feather'd Fair in a Fright by John Collet (1725-1780) Courtesy of the British Museum

1891年、マンチェスター郊外ディズベリーのエミリー・ウィリアムソンのグループと、ロンドン南部クロイドンのエリザ・フィリップス(1823–1916)の「毛皮と羽毛の会」が合併し「鳥類保護協会」が誕生したが、設立当初の会員はすべて女性だった。羽飾りと毛皮という女性の「おしゃれ」に対し、女性たちが批判したのである。10月に協会の報告会があり、W・H・ハドスンの「ミサゴあるいは白鷺と羽根飾り」などのパンフレットが配布された。そして1904年11月3日、王立憲章により法人化、王立鳥類保護協会(The Royal Society for the Protection of Birds)となった。1921年、30年に及ぶキャンペーンの末、「羽毛法」が成立し、外来種の鳥の皮の取引が廃止された。かくして危機に瀕していた鳥類は回復に向かったのである。

PDF  RSPB Centre for Conservation Science by Chris Gomersall (PDF File 3.06MB)

2021年4月16日

レニ・リーフェンシュタールの映画『オリンピア』はナチスのプロパガンダ作品だった

映画『オリンピア』より
Leni Riefenstahl (1935)

ドイツのレニ・リーフェンシュタール(1902-2003)が、1936年のベルリンオリンピックを描いた映画『オリンピア』で、国家の象徴としての力強い身体が見事に表現されている。傑作であると同時に、巧妙なプロパガンダ作品でもある。古代のゲームのルーツが、社会の理想として提示されている。リーフェンシュタールは芝居がかった松明の儀式を、ナチス政権の完璧なプロパガンダツールに変えてしまったのである。彼女の映画や本は今でも参考になるが、この映画監督は今でも非常に物議をかもしている人物です。この映画のインスピレーションは、もうひとつのカルト映画であるヴィルヘルム・プラーガー(1876-1955)の "Wege zu Kraft und Schönheit"(強さと美しさへの道)から得ている。リーフェンシュタールはこの映画では俳優として、『オリンピア』では監督として、この2つの作品に参加している。この2つの映画の映像表現には、ひじょうに顕著な共通点がある。前者は現代のボディカルチャーのプロモーションフィルムであった。新しい健康教団の起源は、様々な神話に遡ります。ここでのドイツ人は、不健康で非倫理的な生活を送るムササビのようなブルジョアとして登場した。この映画は、視聴者が健康な体に健康な心を育むことを目的としています。バランスのとれた体格の良い個人だけが、国を救うことができるというものだった。

YouTube   Olympia: German documentary film written, directed and produced by Leni Riefenstahl

2021年4月13日

パナソニック Let's Note 導入記異聞

CF-RZ8QDEQR
Panasonic Let's note 10.1" RZ8 CF-RZ8QDEQR

気が付いたらモバイル PC デバイスを5台も所持している。Windows ノート、Chromebook、それに大小3台のタブレット。ノートパソコンは万が一親機がクラッシュした際に繋ぎに使おうと思っていたものだ。しかしちょっと力不足。これは出荷状態に戻して知り合いに譲渡するつもり。代わりに購入したのがパナソニックのレッツノート RZ8シリーズ 10.1型 CF-RZ8QDEQR だった。選択理由はいろいろあるが、入院した京大病院の看護師さんたちが使っていて、なかなかスタイリッシュだなと思ったのがきっかけだった。パナソニックの直販サイトに掲載されていたインターフェースが決定打となった。

右側面

これは右側面だが、左側面にセキュリティスロット、ヘッドセット端子、USB3.0 Type-A ポートなどが装備されている。USB ポートがたくさんあるのが好ましいし、注目すべきはやはり SD メモリカードスロットがある点だ。microSD カードスロットがあっても、普通サイズのカードスロットは意外と見かけない。デジタルカメラの多くがこの種のカードを使う仕様になったいるので、このスロットの存在は有難い。USB ポートにアダプタを挿すという方法もあるが、面倒だからである。HDMI と アナログRGB(VGA)の外部出力用端子がふたつもあるが、それこそ親機がクラッシュしたときに、そのディスプレーを流用して大画面で操作できるのは大きい。いろいろ長所を列挙したが、導入中、いささか戸惑ったことがある。

Ms Office

このパソコンにはマイクロソフト Office がバンドルされている。プロダクトキーがプリントされたカードが同梱されていたので、認証を試みたが、何度やってもうまくゆかない。デスクトップ上の Word などのショットカットをクリックしたら「ライセンス認証ウィザード」というダイアログボックスが表示された。まずインターネット経由でで行う(推奨)という項目をチェック。ところが「指定したプロダクトキーで行ったライセンス認証の回数が、ライセンス条項で上限に達しているため認証できません」という意味のつれない返事が返ってきた。そこで残ったの手段として電話による認証作業をすることにした。そこで表示されたのが上掲のダイアログボックスである。フリーダイヤルに繋ぎ「インストールID」をプッシュ入力し「確認ID」を教えて貰った。次に音声ガイドに従って6桁数字を8個のブロックに入れる。スピードはゆっくりだが、間違えないよう慎重に数字をタイプした。否応なしに緊張したが、これで認証が無事終了、Office を使えるようになった。

PDF  パナソニック Let's note RZ6 vPro 対応モデルの主な仕様の表示とダウンロード(PDF 166KB)

2021年4月4日

無線 LAN 接続不具合の Chromebook C101PA が蘇生した

ASUS Chromebook Flip C100PA
PR-400MI

昨年購入した ASUS の Chromebook 10.1インチ C101PA が突然 Wi-Fi 接続しなくなってしまった。再起動したり、いろいろやったのだが、駄目だった。NTT 西日本の「ひかり電話対応ホームゲートウェイ PR-400MI」に無線 LAN カードを挿しているのだが、Windows デバイス、プリンター、ネットワーク・オーディオ・プレーヤーには問題なく接続する。ところが Chromebook だけが駄目なのである。近所の電波はなぜか認識するのだが、どうやら相性が悪いらしい。Powerwash して出荷状態に戻したがこれも駄目。いわば頓死寸前、お手上げ状態になってしまった。そこで Facebook の「Chromebook ユーザーグループ in Japan」に SOS を出したところ「C101PA を使っていました。Wi-Fi のチャンネルが 12 以上だと接続できません。なので自宅の Wi-Fi は 6 か 8 に固定して使っていました。近所の Wi-Fi が入るなら設定変更をおすすめします」という助言をいただいた。そこで Microsoft のアプチケーション Wi-Fi Analyzer で調べてみたろころ、チャンネルが 13 になっていた。そこでネット検索して見つけた「PR-400MI 無線 LAN 設定の確認」という記事を参考に、ホームゲートウェイに挿してあった無線 LAN カードの設定をしてみた。

Wi-Fi
自動無線 LAN 設定を外しチャンネル8に固定した

まずブラウザを起動してアドレス入力バーに IP アドレス http://192.168.1.1/ と入力する。するとひかり電話対応ホームゲートウェイ接続する為の認証画面が表示された。ユーザー名とパスワードは導入時のメモが残っていたのでセキュリティをクリア、無線 LAN 設定の画面が表示された。使用チャネルが自動になっていたので、これを 8 に変更した。設定を保存し Chromebook を起動したところ、アクセスポイントの識別名である我が家の無線ネットワーク名(SSID)が表示された。そこで事前共有キー(PSK)を入力したところ Google のパスワードを求められた。ログインしたところ出荷状態で真っ白だった画面が、保存してあったランチャー画面に切り替わった。頓死寸前だった Chromebook が蘇生したのである。今回は C101PA が対応しているチャンネルが 2~11 であるにも関わらず、無線 LAN カードが 13 チャンネルになっていたためというトラブルだった。問題解決への道程のなかで、Wi-Fi 接続についていろいろ学ぶことができた。

PDF  ひかり電話対応ホームゲートウェイ取扱説明書の表示とダウンロード(PDFファイル 2.37MB)