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Marion Post Wolcott, Ky, 1940 |
朝日新聞社に入社したのは 1966 年だったが、当時、女性の写真部員はゼロだった。フリーランスの女性報道写真家の名も記憶にない。時に危険な現場にも足を運ばなければならないドキュメンタリー写真の世界が、女性に対し高い壁を作っていたのかもしれない。今でこそ報道写真への女性の進出は目覚ましいものがあるが、かつては男の職業と見られていたのである。アメリカでは大恐慌時代に「出稼ぎ労働者の母」(1936年)を撮影したドロシア・ラング(1895-1965)や、モンタナ州のフォート・ペック・ダムの写真でライフ誌創刊号(1936年11月23日号)を飾ったマーガレット・バーク=ホワイト(1904-1971)など、早くからドキュメンタリー写真に女性写真家が進出している。ラングの写真は、恐慌と旱魃で困窮を極めた農村の惨状およびその復興を記録するために、農業安定局が組織した FSA プロジェクトに加わって撮ったものである。ジャック・デラーノ、ウォーカー・エヴァンズ、セオドア・ヤング、ラッセル・リー、カール・マイダンス、ゴードン・パークスなど、錚錚たるメンバーを擁していた。しかしもう一人の女性写真家だった
マリオン・ポスト・ウォルコット(1910-1990)は、日本では意外と知られていないかもしれない。ウォルコットは1910年6月7日にニュージャージー州モントクレアで生まれた。学校がないときにはグリニッジ・ヴィレッジで過ごし、芸術家やミュージシャンと親交を持った。教職実習生としてサチューセッツの小さな町で働くことになったが、ここで彼女は大恐慌の現実と貧困にあえぐ人々の問題を知ることになる。ニュー・ソーシャル・リサーチ・スクール、ニューヨーク大学を卒業、児童心理学を学ぶため、オーストリアのウィーン大学に留学した。1932年にニューヨークに戻り、写真撮影に没頭探求する。
It gives me pleasure to give this note of introduction to Marion Post because I know her work well. She is a young photographer of considerable experience who has made a number of very good photographs on social themes in the South and elsewhere…I feel that if you have any place for a conscientious and talented photographer,you will do well to give her an opportunity. (Letter from Paul Strand to Roy Stryker, June 20, 1938)
ウォルコットの才能を見出し、FSA プロジェクトに推薦したのはポール・ストランド(1890–1976)だった。ストランドは1938 年、経済学者で写真家でもあった FSA プロジェクトのディレクター、ロイ・ストライカー(1893-1975)に「私はマリオン・ポストの作品をよく知っている。 彼女はかなりの経験を持つ若い写真家で、南部やその他の地域の社会テーマについて非常に良い写真を数多く撮っている。彼女に機会を与え欲しい」と上掲のような
紹介状を送っている。大判 4x5 インチのスピードグラフィックと二眼レフのローライフレックスを手にした写真が残っているが、FSA プロジェクトでは 35 ミリの小型カメラ、おそらくライカを使用したようだ。当時としては珍しいカラー写真を撮っているが、コダックが1935年に発売したコダクロームで、テスト撮影を依頼されたものだった。写真左はフロリダ州ベルグレイドの出稼ぎ労働者用仮設住宅地区で撮影されたもので、ジュークジョイントはジュークボックスが置いてある、沿道沿いの居酒屋あるいは売春宿のことである。背を向けた男が手にしている銃が治安の悪さを暗示している。ウォルコットの代表的作のひとつは、農業安定局の
「ひまわり農場」の記録である。深南部のミシシッピデルタの土地を購入して創設した農場である。彼女の写真は貧困の政治的側面を深く抉っているが、冷徹なようで、その視線に暖かみを感ずる。ウィーン大学時代にナチスが台頭、その残虐行為を知り、身の安全のため逃げるようにして帰国、後に反ファシスト運動に関わった体験が背景にあったからだろう。1938年から1942年にかけて FSA プロジェクトのために撮影した写真は 9,000 点以上と膨大だ。ちなみにドロシア・ラングは約 4,000 点だった。
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