2018年8月19日

読んで分からぬ仏教経典なら輪蔵を一回転

清凉寺(京都市右京区嵯峨釈迦堂藤ノ木町)

嵯峨釈迦堂前で市バスを降りた。清涼寺である。山門をくぐり斜め右に進むと、読経が風に乗って聞こえてきた。実は生の声ではなく CD で、一切経堂からだった。扉が開け放たれた正面中央に、中国南北朝時代梁の居士、傅大士(ふだいし)の木像が鎮座している。そしてその左に長男の普建、右に次男の普成の像が安置されている。傅大士が立てたふたつの指が、私には V サインに見える。まるで「任せといて」とほほ笑んでいるようだ。外気に晒されてきたせいだろうか、色鮮やかだったに違いない塗料が剥げ落ちている。中に入ると回転式の経蔵があった。入口にあった説明板によると、釈迦が説いた一切の経典が納められてるという。唐紙製の明板本 5408 巻の大部が格納されていて、この輪蔵を一回転させると、すべてを読んだことになるという。このアイデアは、たとえ文字の読めない人であっても、気軽に仏の教えに出会えるようにと、傅大士が考えたものだという。仏教経典は庶民にはやはり難解だ。浄土三部経のひとつ『仏説観無量寿経』を紐解いてみよう。
正座西向 諦観於日 正座し西に向いて日を諦観すべし
令心堅住 専想不移 心をして堅住ならしめ想いを専らにして移らざれば
見日欲没 状如懸鼓 日の没せんと欲して状懸鼓の如くなるを見よ
既見日已 閉目開目 すでに日を見おわらば目を閉ずるも開くも
皆令明了      みな明了ならしめよ
是為日想 名曰初観 これを日想とし名付けて初観という
六角形の輪蔵
これは瞑想によって浄土を観る十三の方法の最初の部分である。正座して沈んでゆく太陽が懸鼓(けんく)、つまり天空にかかった、太鼓のようであるように観なさいと説いている。仏教経典は漢訳のそれがそのまま使われている。正直言って聴いていてもよく分からない。このように漢文を読み下したものでも、文語体だと浅学の身にはやはり分かりずらい。分からないなら、いっそのこと輪蔵を回して読んだことにしたほうが気楽である。100 円を納め、体重をかけながら両手でグイと押してみた。すると巨大な書架が静かに回転し始めた。写真(左)をご覧になれば分かると思うが、この経蔵は六角形である。清涼寺の本山である東京芝公園の増上寺の輪蔵は八角形だが、ネット上には六角と説明したものが散見されるようだ。眺める角度によっては3面のみが見えるので、向こう側も3面、従って六角形と誤認する可能性がないわけではない。しかしこれは間違った判断である。今は書き換えられているものの、かつて東京都指定文化財目録には「六角形輪蔵」と記述されていたそうだ。また昭和45年(1970)11月10日付けの『浄土宗新聞』の記事「増上寺経蔵復元工事が完成」には「木造六角の輪蔵」と書かれていたという。これらを元に描かれた記事が、実物に接しないままコピー&ペーストされて連鎖拡散、誤解の一因になったのかもしれない。一切経堂を辞した私は、すぐ隣にある弥勒宝塔石仏に再会した。高さ約2メートルの二面石仏の裏は多宝塔だが、表は釈迦如来という説もある。しかしその風合いを観察すると、弥勒菩薩説に軍配を上げたい。風雪に輪郭がが曖昧になりつつあるが、いつ見ても美しいと思う。

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