2017年4月26日

ディテールを嫌悪するまなざし

松尾大社(京都市西京区嵐山宮町)

Kiyohara VK50R(クリックで拡大)
写真は清原光学のソフトフォーカスレンズ VK50R で撮影した松尾大社の山吹である。ピンホール写真もそうだが、なぜ人はこのような不鮮明な写真を、わざわざ撮るのだろうか。写真術の黎明は1827年、フランス人ジョゼフ・ニセフォール・ニエプスの発明に始まる。ルイ・ジャック・マンデ・ダゲールは1839年、ダゲレオタイプを フランス学士院で発表、これを写真術の始まりと解釈する人もいる。その僅か半世紀余りの後、カーボンやゴム、オイル、ブロモイルなどの印画法が流行りだした。絵画における印象派の影響を受け、写真家たちは「芸術的」なタッチを付け加えるため、ソフトフォーカスの画像が一世風靡する。これは皮肉なことに、写真映像の際立った特徴、すなわち明解性を排除してしまったのである。その背景のひとつにディテールを嫌悪するまなざしがある。ヴォルフガング・ウルリヒ著『不鮮明の歴史』(ブリュッケ)によると、ディテール描写への嫌悪は、影響力を増した自然科学への嫌悪でもあったという。また芸術の価値は「自然の形態や働きを単に描写するのではなく、心に働きかける芸術家の想像力によってしか成し遂げられない」という考え方であった。ディテールの忠実な再現は、機械的で味気ない複写だと断じられてしまったのである。芸術はディテールを克服して初めて誕生するという、いわゆるピクトリアリズム(絵画主義)が19世紀後半から20世紀初頭にかけて謳歌した。これを『写真と社会』(お茶の水書房)の著者、ジゼル・フロイントは芸術的衰退と切り捨てている。つまり「写真が絵画に似て見えれば見えるほど、無教養な大衆はそれが<芸術的>だと思ったのである」と手厳しい。アルフレッド・スティーグリッツがストレート写真に回帰したように、ピクトリアリズムは急速に衰退した。その背景の一例としてパリのユジューヌ・アジェの作品が大きく評価されたことを挙げることができるだろう。しかしおよそ100年を経た21世紀の今日、オルタナティブ写真という新たな呼び方で、ピクトリアリズムの手法が再評価されている。さらにその逆とも言える、デジタル画像処理によってエンハンスされた「芸術っぽい」写真がネット上に溢れている。

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