![]() |
| 野島康三 |
野島康三は1889年(明治22年)2月12日、埼玉県浦和宿(現在のさいたま市浦和区)に生まれた。慶應義塾大学在学中に写真に興味を抱 、東京写真f研究会などで作品の発表を始め、頭角をあらわした。そして戦前の1929年(昭和4年)に、国画会に「裸婦」などを出品する。岸田劉生、梅原龍三郎、万鉄五郎、富本健吉らの後援者だった。また、美術コレクターでもあり、1919年に東京神田神保町に「兜屋画廊」を開廊し、各種展覧会(旧フュウザン会、日本創作版画協会の作家など)を開催(同画廊閉廊後は自邸にて)するとともに、美術家たちへの資金的な援助も行った。彼は1919~20年に彼自身が経営していた画廊「兜屋畫堂」でこうした画家たちの作品を展示した、また彼の自宅においても、岸田劉生、梅原龍三郎、萬鉄五郎、中川一政など美術史上重要な個展を開催した。野島と日本固有の表現の確立を志したこうした画家たちは、ジャンルを超えて一つの時代精神を共有したと言うことが出来る。優れた写真家であった野島康三は、同時に、1910年代後半から30年代に草土社、二科会、春陽会などの画家たち、雑誌「白樺」系の作家たちと親交を結び、彼らに深い共感を寄せるとともにその活動を資金的に援助した芸術の擁護者でもあった。
1932年に中山岩太、木村伊兵衛とともに雑誌『光画』創刊。1939年には国画会に福原信三とともに写真部創設などの活動を行う。日本近代写真の確立期に卓越した作品を残した写真家であった。彼が制作した対象の本質を見据えたような肖像、静物、裸婦などの写真作品は高い緊張感と深い精神性に溢れ、戦前の日本の写真が獲得した最高の到達点を示すものであった。
ともすれば情緒的で絵画的効果を目指した大正初期の「芸術写真」の動向の中で、重厚な存在感を漂わせるピグメント印画による野島の写真作品は、写真独自の芸術性を体現するものとして高い評価を受けた。その後も野島は、プロムオイル印画による裸婦の連作や、より近代的技法であるゼラチン・シルバー印画による肖像写真において、当時勃興していたモダニズムの時代の空気を伝える清新な写真作品を制作した。
また野島は、1932~33年に日本近代写真史における記念碑的出版物である写真雑誌「光画」を発行し、日本のモダニズム写真運動であった「新興写真」の活動に大きな影響を与えた。京都国立近代美術館は1991年9月10日~10月13日、野島康三の写真作品104点と、彼が親密に交流した画家たちの油彩画40点を同時に展示した「野島康三とその周辺」を開催した。 この展覧会は、日本の写真史や近代美術史を再構築しその業績を批判的に継承しようとする近年の研究に、少なからぬ刺激を与えるものだった。
京都国立近代美術館で1991年に開催された「野島康三とその周辺—日本近代写真と絵画の一断面—」に出品された作品104点は、展覧会終了後、ニューヨーク大学付属美術館グレー・アート・ギャラリーでも「写真家野島康三」展として開催きれ、アメリカの写真研究者の間で大きな話題となった。野島康三は1964年(昭和39年)8月14日、神奈川県葉山町一色の自宅で死去、75歳だった。
野島康三(1889-1964)ある写真家が見た日本近代 | 京都市左京区岡崎公園の京都国立近代美術館





0 件のコメント:
コメントを投稿