1798年の反乱鎮圧の後、イギリスはアイルランドの完全な植民地化を完成させる道を急ぐことになる。1801年にはアイルランド議会が廃止され、アイルランドは連合法のもとグレートブリテンおよびアイルランド連合王国の構成国となり、完全に英国に併合された。併合により幾分かのカトリック教徒の地位向上政策などが行われたが、経済・貿易の中心がロンドンへと移行したためアイルランド経済は更に停滞した。1840年代にはジャガイモ飢饉が発生、飢餓や移民などにより1840年のピーク時には800万人を数えた人口は1911年に440万人にまで減少した。そして第一次世界大戦後の1922年アイルランド独立戦争が発生した。英愛条約(通称ロンドン条約)による講和によって南部・西部アイルランドの26地方がイギリス・アイルランド連合王国から分離し、新たにアイルランド自由国を建国した。1937年には名称をアイルランド(エール)と変え今に至るが、一般的にはアイルランド共和国と呼称されている。アイルランド島の残余部、プロテスタントが人口の過半数を占めていた北アイルランド6県は1922年の独立以後もイギリス統治下にとどまった。アイルランドの分割は、1919年から1921年のアイルランド独立戦争後に起こった。
マイケル・コリンズが運動家として最もよく知られている。英愛条約の交渉が進行中であったため、北アイルランドのユニオニストは、アイルランド全体がイギリスから分離するのではないかと恐れ、その結果、アイルランドが分離した場合、イギリス政府に対して戦争を仕掛けると脅した。この暴力の脅威に応えて、イギリスはユニオニストの住民にアルスターを提供した。ユニオニストにとって唯一の問題は、アルスターはアイルランドの他の地域と同様に、カトリック教徒が大多数を占めていたことである。こうしてアルスターの9つの郡のうち、ドニゴール、キャバン、モナハンの3つが除外され、残りの6つの郡でプロテスタントが多数派、つまり偽りの多数派となった。アルスターにプロテスタントが多く住んでいるのは、もちろん1600年代初頭のアルスター植民地化に遡る。宗派に基づいて作られた6つの郡からなる国家は、北アイルランドとして消滅し、初代首相はハロルド・クレイガヴォン子爵であった。彼は演説で、北アイルランドは「プロテスタントの人々のためのプロテスタント政府」であると述べた。もちろんこの国家はプロテスタント多数派と同じ権利を持たなアイルランドのカトリック教徒にとっては冷たい国であった。
上層部と地方自治体の両方で広範な宗教差別が常態化しており、ゲリマンダー制度による選挙操作、能力ではなく宗教的理由で仕事が与えられ、多くの企業や政府機関はカトリック教徒を雇用することについて「うちの職場にはカトリック教徒は一人もいらない」と公然と自慢していた。ゲリマンダーは、多数派のカトリック教徒が地方自治体を支配できないようにするため、1895年にデリーで導入され、1974年まで使用されていた。1967年から1972年の公民権運動は、北アイルランド国家の宗派主義的な性質の直接的な結果として起こった。何十年にもわたる宗教的不寛容に耐えてきたアイルランドのカトリック教徒は、イギリス政府が北アイルランドの状況を改善するためにほとんど何もしてこなかったため、自分たちの窮状を世界に訴えるために平和的な街頭デモを行った。もちろん、すべてのプロテスタントが宗派主義者だったわけではないが、権力と金を持つ者は、何としてもそれを手放そうとしなかった。ストームントとイギリスへの圧力が高まる中、アイルランドの歴史の流れを変えることになる2つの出来事がデリーのボグサイドで起こった。1969年8月12日のボグサイドの戦いと、1972年1月30日の血の日曜日である。下記リンク先はユニバーシティ・カレッジ・ロンドン(UCL)のヘザー・ジョーンズ教授による、歴史雑誌 HistoryExtra の記事「アイルランド分割小史」です。
A brief history of the partition of Ireland | The HistoryExtra Magazine | United Kingdom


0 件のコメント:
コメントを投稿