2026年10月28日

音楽雑話(8)無国家地域クルディスタンの音楽の伝承

クルディスタンはトルコ、シリア、イラク、イランにまたがる約7万5,000平方マイルの山岳地帯に約4,000万人のクルド人が暮らす、世界最大の無国家地域である。クルド人はインド・イラン語族に属するクルド語のいくつかの異なる方言を話し、数千年にわたりクルディスタン地域に居住してきた。第一次世界大戦後、西側連合国はオスマン帝国を分割する際に、クルディスタンの独立計画を盛り込んだ。しかし、トルコの圧力と、この地域に対する一般的な理解不足により、この計画は1923年のローザンヌ条約で破棄された。クルド人はそれ以来、自らの文化とアイデンティティを守るために闘い続けている。クルド人は、言語、服装、音楽の禁止といった差別や、数十年にわたる虐殺と民族浄化に耐えてきた。これらの行為は今日でもなお活発に行われている。特に、1980年代後半にクルド人民兵組織ペシュメルガがサダム・フセイン政権に対して武装蜂起した際、独裁者は化学兵器を用いてクルド人の村ハラブジャを爆撃し、推定5,000人の民間人を殺害、1万人以上を負傷させた。さらに最近では、クルド人勢力である PKK、YPG、YPJ が、米国や西側諸国からの支援が不安定な状況にもかかわらず、ISとの戦いの最前線に立っている。

Muhammad Arif Jazrawi
ムハンマド・アリフ・ジャズラウィ(1912-1986)

注目すべきは、クルド人は平等な権利に関して中東地域全体で見ても特異な存在でありJIN, JIYAN, AZADÎ(女性・生命・自由)というスローガンを考案したのはクルド女性防衛部隊であったということである。このスローガンはその後、特にイランにおける女性の権利運動に受け継がれている。クルディスタン民謡で最もよく見られるテーマは、愛、亡命、そして抵抗である。歴史的に、デングベジュ(語り部・吟遊詩人)は歌と物語を通して地元の歴史や祖先の物語を語る担い手であり、今もそうである。人間の声は伝統的なクルド音楽において最も重要な楽器と考えられており、何十年にもわたる政府の検閲にもかかわらず、歌手の違法なカセットや CD がクルディスタン全土に出回っていた。正式な旋法体系はないが、クルド音楽はペルシャのダストガーやオスマン帝国、アラビアのマカーム旋法体系と多くの要素を共有しており、部分的なフラットマイクロトーンを多用している。声楽と楽器の両方の装飾はメリスマが強く、主音は複数の音にまたがって揺れ動く。ダンスのリズムは近隣の文化と多くの共通点があり、シンコペーションの効いた4/4拍子のほか、9/8拍子(2223)や、クルド人、アルメニア人、トルコ人が共有する10/8拍子(3223)のクルクナのリズムのダンスも存在する。クルド人は、ウードやさまざまなフィドルなど、この地域特有の伝統的な楽器のほか、ギターやキーボードなどの現代的な楽器も使用する。

Yalda Abbasi
ヤルダ・アッバースィー(1987-)

クルディスタン全域で依然として非常に人気のある伝統的なクルド楽器が多数あり、より現代的な場面で使用されると「クルドらしさ」を強く主張することがよくある。クルドの打楽器は、儀式と民俗の両方の伝統に根ざしており、特にクルドのダフが主流である。ダフは、内部に多数のリングがある大きなフレームドラムである。その他の主要な打楽器には、東地中海のほとんどの地域で一般的なダルブカ(ゴブレットドラム、別名ドゥンベクとダホル(マレットとスイッチで演奏する大きなドラム、別名トゥパンとダヴル)がある。伝統的な管楽器には、端から吹く羊飼いの笛であるブルール(別名カヴァル)、柔らかいダブルリードのメイ(アルメニアのドゥドゥクに似ている)などがある。そして、西はヨーロッパのバルカン半島から東は中国まで広く分布する、音色の大きいダブルリードのズルナ。主な弦楽器としては、イラン東部のクルディスタンで主に演奏される、独特の上向きの指ストローク奏法を持つ短いネックの2コースのリュートであるテンブール、シリア西部のクルディスタンで主に演奏される長いネックの3コースのサズがある。下記リンク先は旧オスマン帝国、アルメニアのバトマン郡出身の歌手、カラペテ・ハチョ (1900-2005) によるデングベジュの貴重な録音です。

SoundCloud  Karapete Xaco Lawike Metini kürtçe müzik kurd kurdi kurdish kurtce kürtce | pir ciwan

2026年10月27日

短縮 URL サービスの危険性

Dangers of URL Shortening Services

短縮 URL サービスが至るところで見られる。bit.ly 、ow.ly、t.co、t.me、tinyurl.com といったツールは、オンラインの世界では今ではすっかりお馴染みの存在となっている。あまりにも馴染み深いので、ほとんどのユーザーは何も考えずにクリックしてしまう。短縮 URL をクリックすると、リンクを作成したユーザーが指定した宛先アドレスにほぼ直接アクセスできる。ほぼ、だが、完全にそうではない。実際の経路は、短縮 URL サービスを経由して少し迂回する。サービスの効率が高ければ高いほど、所要時間は短縮され、終点への移行もスムーズになる。もちろん、この遅延は人間にとっては些細なことのように感じられるだろう。人間はどちらかというと動作が遅いものだから。しかし電子システムにとっては、あらゆる種類の活動を行うには十分な時間である。なぜ短縮 URL なのか? 主な理由はスペースの問題である。長いリンクを短くすることで、画面占有率を下げ、文字数制限もクリアできる。しかし、それだけではありません。短縮 URL の作成者は、必ずしもユーザーへの配慮からではなく、独自の目的を追求している可能性がある。インターネット上のリンクがなぜあんなに長くて見づらいのか、不思議に思ったことはありませんか?それはたいてい、リンクにクリックの追跡のための様々なパラメータ、いわゆる UTM タグがエンコードされているからである。通常、これらのタグは、ユーザーがリンクをクリックした場所を特定し、広告キャンペーンの効果やブロガーページへの掲載状況などを評価するために使用されます。これはもちろんユーザーの利便性のためではなく、デジタルマーケティングの目的で行われる。ほとんどの場合、これは比較的無害なトラッキング方法であり、必ずしもリンクをクリックしたユーザーからデータを収集するわけではありません。多くの場合、マーケッターはトラフィックの発生源にのみ関心があります。しかし、この追加の「パッケージ」は見た目が悪く、URLが非常に長くなることが多いため、短縮 URL サービスがよく利用される。プライバシーの観点からさらに厄介なのは、短縮 URL サービスが単にユーザーを目的のアドレスにリダイレクトするだけにとどまらない点である。これらのサービスは、リンクをクリックしたユーザーに関する様々な統計情報を収集する傾向があり、結果として、埋め込まれた UTM タ グを通じて短縮 URL の作成者だけでなく、短縮 URL サービスの所有者にもデータが渡ってしまうのである。もちろん、インターネットの世界では誰もが何らかの統計情報を収集しているが、短縮 URL を利用することで、ユーザーに関するデータを保持する仲介者がさらに増えることになる。短縮 URL はプライバシーを侵害するだけでなく、デバイスやデータのセキュリティを脅かす可能性もある。繰り返しになるが、リンクをクリックする前に必ず内容をよく確認することだ。しかし短縮 URL には問題がある。リンクをクリックした先がどこなのか、確実には分からないのでである。サイバー犯罪者が短縮 URL を使用する場合、リンク先を確認するようアドバイスしても意味がない。リンクをクリックして初めてリンク先がどこなのかが分かるからである。

How to Troubleshoot Short Link

攻撃者がブラウザのゼロクリック脆弱性を悪用した場合、悪意のあるサイトにアクセスした瞬間に感染してしまう可能性があるからである。サイバー犯罪者は、必要に応じてリンク短縮ツールを使ってターゲットアドレスを変更することもできる。例えば、攻撃者が数百万件のメールアドレスのデータベースを購入し、それを使って何らかのリンクを含むフィッシングメールを送信したとします。しかし、攻撃者にとって問題なのは、作成したフィッシングサイトがすぐに発見され、ブロックされてしまったことである。別のアドレスに再ホストすることは問題ないが、その場合、すべてのフィッシングメールを再送信しなければならない。解決策は「シミング」サービスを利用することであり、これによりユーザーがアクセスするURLを素早く変更することが可能になる。そしてここでいう「シミング」の役割は、短縮 URL サービスが担うことができ、中には元々悪意を持って作成されたものもある。この手法では、フィッシングメールにシミングサービスへのリンクが追加され、被害者はそのリンクをクリックすると、フィッシング業者が現在使用しているアドレスのサイトにリダイレクトされる。多くの場合、追跡をさらに困難にするために、複数のリダイレクトが使用される。また、宛先のフィッシングサイトがブロックされた場合、サイバー犯罪者は単に新しいアドレスでサイトをホストし、シミング内のリンクを変更することで、攻撃を継続する。多くの場合、大量利用を目的とした短縮 URL は、ソーシャルネットワークの投稿やウェブページに掲載される。しかし、個人宛てにメッセンジャーやメールで送られてきた場合は、さらにリスクが高まる。攻撃者は、ユーザーに関する情報を既に持っている場合、このようなリンクを使って、個人情報があらかじめ入力されたフィッシングサイトに誘導する可能性がある。例えば、有効なユーザー名とパスワードの入力を求める銀行サイトのコピー、あるいは銀行カード番号があらかじめ入力された決済サービスの「決済ゲートウェイ」に誘導され、セキュリティコードの入力を求められるといったケースである。さらに、こうしたリンクは、特にL短縮 URL サービスが高度な機能を提供している場合、個人情報の暴露やその他の追跡行為に悪用される可能性がある。では、どう対処すればよいのでしょうか?短縮 URL は絶対にクリックしないようにアドバイスすることもできるが、ほとんどの場合、短縮 URL サービスは正当な目的で使用されており、非常に一般的になっているため、完全に避けることは現実的ではない。とはいえ、ダイレクトメッセージやメールで送られてくる短縮 URL には特に注意を払うことをお勧めする。また GetLinkInfo や UnshortenIt などの短縮 URL チェックツールにリンクをコピー&ペーストして、クリックする前に内容を確認することもできる。下記リンク先はドメインネームシステム(DNS)の監視および管理プラットフォーム CaptainDNS の「URL短縮サービス:bit.lyやt.ly、そして同種のサービスがフィッシング攻撃の主要な手段となった理由」です。

WWW URL Shorteners: Why bit.ly, t.ly & Their Peers Have Become Phishing's Weapon of Choice

2026年10月25日

大徳寺高桐院の灯篭は細川ガラシャの墓石なのだろうか

小林清親『古今誠画 浮世画類考之内 慶長五年之頃 細川忠興室』1885(明治18)年

細川幽斎の長子忠興が建立した大徳寺塔頭高桐院は紅葉の名所で知られる。書院の奥に茶室松向軒(しょうこうけん)がある。忠興は江戸時代初期の武人として有名だが、三斎と号したように利休七哲に数えられる茶人でもあった。茶室の天井から小さな裸電球がぶら下がっている。その明かりを頼りに天井に目を注ぐ。実に質素なたたずまいだ。こういうのを利休風建築というのだろう。利休好みという言葉がある。ワビとかサビというのは、唐変木の私にとって理解できない気風だ。古寺にしても、風雪が変貌させた土や草の色はあまり好きではない。むしろ、金ピカだったり派手な朱色だたりしていたほうが嬉しい。伽藍が暗示する浄土はそんな世界ではないだろうか。備前焼きより清水焼きのほうが好きな私だ。高桐院は細川家の菩提寺でもある。西庭の一角に三斎の墓所がある。その墓石はガラシャ夫人のものだという。南庭の春日灯篭は、その墓石を模したものだという。

「奥方さま、では、お覚悟を。直ちにわれらこれより御供申しあげまする。しかしながら、このお傍に果てるのは余りにも恐れ多きこと故、われらは玄関にて御供させて頂きまする」「自害は許しませぬ。天主のみもとに行くは、わたくし一人にとどめますように。では、早う、少斎どの。頼みまする」「奥方ごめん!」閃くと見た少斎(小笠原秀清)の長刀が、一瞬のうちに玉子の胸を刺しつらぬいた。真紅の血がさっと飛び散り、玉子の上体がぐらりと前に傾いたかと思うと、そのまま玉子は床に打ち伏した。(三浦綾子『ガラシャ夫人』主婦の友社 1975年)
笠の後ろが三分の一欠けた春日灯篭
高桐院(京都市北区紫野大徳寺町)

家臣に首を切らせたという異説もある。ガラシャが自らの意志で散ったのは1600年8月25日(慶長5年7月17日)、辞世の句は「散りぬべき時知りてこそ世の中の花も花なれ人も人なれ」だった。遺骨は大阪の崇禅寺の境内に埋葬されたという。10月、夫である忠興はオルガンチノ神父と相談して盛大なキリスト教式葬儀を行った。忠興が高桐院を建立したのがその翌年になる。この塔頭建立とガラシャとの関係はどうなっているのだろうか。暗雲からわずかにこぼれた光の束は、鬱蒼とした樹木のフィルターでさらにその力を弱めている。小さな門をくぐると、そこは廟になっていた。正面に石灯篭が見える。観光で訪れたのだろう、ふたりの女性の声が弾んでいる。これが忠興とガラシャの墓石なのだそうだ。千利休が秘蔵していた灯篭で「天下一」の称があったという。秀吉と忠興のふたりに請われて困った利休は、わざと笠の三分の一を欠き、キズ物と称してその懇請を断ったという。

キリシタン大名高山右近追放、ガラシャ受洗、キリスト教禁教令、三木パウロ殉教、秀吉の全国統一、家康江戸入城、そして長崎における二十六聖人の殉教と続く。1596年(慶長元)、千利休は秀吉によって自殺に追いやられている。利休の遺志によって灯篭「天下一」は細川忠興の手に渡った。5年後に建立したこの寺の庭に置いたのは間違いないだろう。しかし、この灯篭をもってすぐにガラシャの墓石にしたかどうかは歴史書は寡黙だ。夫人の死後、忠興は83歳で死ぬまで、45年も生きながらえた。かれは亡き夫人を偲んで、生涯再婚はしなかったという。その間に、自らと、そしてガラシャの墓石にこの石灯篭を転嫁させたのだろうか。明智光秀の謀反によってその玉子は一転「逆賊の娘」になってしまった。その玉子がなぜガラシャになったか、得も知れぬ興味が湧いてきたのに思わず身震いした。戦国時代を駆け抜けたキリシタンとはいったい何だったのだろうか。私は夢を見始めたようだ。あの灯篭はほんとにガラシャの墓石なのだろうか。この禅林は細川家の菩提寺だ。デウスに帰依したガラシャの痕跡はここにあるだろうか。細川家の紋は残っている。しかしここには十字架はない。ただあるのは利休好み、三斎好みの灯篭があるだけだ。キリスト教式の葬儀を行ったにも関わらず、その痕跡をこの庭に残さなかったのは何故だろうか。それがキリシタン史を紐解くひとつの鍵ではないだろうか。今日、宗教が現実世界に投下してる影響力は数知れなくある。宗教はひとつの方向性を持っているのが常だが、信心がない人間には理解できない。

christian  小倉城ものがたり第2話 | 小倉藩初代藩主細川忠興の誇り高き才媛の妻・細川ガラシャの悲しい生涯

2026年10月24日

鯨魚取り海や死にする山や死にする死ぬれこそ海は潮干て山は枯れすれ

Moby Dick

これまで私が触れた何冊かの本、例えばジェイムズ・ジョイス『ダブリン市民』、ギルバート・ホワイト『セルボーンの博物誌』、W・H・ハドスン『はるかな国とおい国』などに共通していること、それは正直言って読み疲れるということである。少し読んでは放り出し、また忘れたころに読み進める。ヘンリー・D・ソロー『森の生活』もそうだが、ハーマン・メルヴィル『白鯨』(モビィ・ディック)がその極めつきではないだろうか。とにかく通読するだけでも厄介で、私は何度も挫折、数カ月を費やしてやっとのことで読み終えたのだった。物語のクライマックス、エイハブ船長と白鯨モビィ・ディックの闘いにたどり着くまでの道程が長いのである。著者メルヴィル(1819-1891)は実際に捕鯨を体験している。したがって見方を変えれば、ここに書かれている当時の鯨学、捕鯨業の実態、あるいは船員の生活など、貴重な記録文学と言える。18世紀~19世紀半の欧米諸国による捕鯨は鯨油を採ることが主目的だった。そして浦賀へ来航したペリーの艦隊の黒船が、江戸幕府に開港を迫ったのは、アメリカの捕鯨船団が燃料や食料補給のために寄港したかったからだという。

C・W・ニコル『勇魚(上・下)』(文春文庫)1992年

作家の C・W・ニコルさんが2020年4月3日、直腸がんのため長野市の病院で死去した。著書『勇魚(いさな)』を思い出し、読み返してみたが、これは一気に読破することができた。舞台は和歌山県太地、今でも捕鯨の町である。幕末。おりしも井伊直弼、吉田松陰、坂本龍馬などが世界に目を転じ始めたころだった。エイハブ船長は白鯨によって片足を失ったが、この小説の主人公、甚助は鯨に片腕を奪われている。失意のどん底にあった彼に声を掛けたのが紀州藩士、松平定頼だった。定頼は黒船の出現を知り、海防の必要性を幕府に説き、甚助を密偵に仕立てる。紆余曲折の末、ジョン万次郎に出会った甚助はジム・スカイの名で海外に雄飛する。波乱に飛んだ歴史物語だが、作者のニコルさんはよくここまで調べたものだと感心する。ウェールズ出身で、1995年に日本に帰化したが、一年間太地に暮らした経験があるという。その体験ゆえに書けたのだろうが、訳者あとがきにもあるが、私も鯨を勇魚(いさな)と呼ぶことは知らなかった。勇ましい魚という意味である。鯨は魚類ではなく哺乳類だが、中国語では鯨魚と表記する。万葉集に「鯨魚取海哉死為流山哉死為流死許曽海者潮干而山者枯為礼」(第16巻第3852番)という歌がある。鯨魚(いさな)取り海や死にする山や死にする死ぬれこそ海は潮干て山は枯れすれ。つまり「海は死ぬだろうか、山は死ぬだろうか。死ぬからこそ海は潮が干し上がるし、山は草木が枯れる」という摂理を詠んでいるのである。

太地を初めて訪れた松平定頼は獲れた鯨の解体作業に立ち会う。太地角右衛門(網捕り式捕鯨の考案者)は漁師たちが鯨の霊に祈ったことに対し「わたしどもとて死の悲しみは感じますが、しかしその悲しみの一方に、海からあのような恵みを受けるよろこびもあり、わたしどもはなにひとつむだにいたしませぬ。肉、油、骨、髭、すべてを使います」と定頼に答える。さらに臓物も食べると答えながら「正直申して、わたしは肉のほうが、わけても尾に近い脂ののった肉が好きです」と説明する。これは鯨の尾の身、すなわち尾の背側の部分の脂が霜降りになった部位を指す。一昨年の暮れ大阪道頓堀の『たこ梅』でサエズリ(ヒゲクジラの舌)の煮込みを食べた話を書いた。これも絶品だが、尾の身の刺身はさらに素晴らしい。私はアメリカの海洋哺乳類保護団体のメンバーと会ったことがある。鯨の肉は物凄く美味しいよと話したら、彼らが目を丸くしていたのを思い出した。国際捕鯨委員会(IWC)からの脱退を表明したことで、2019年、1988年以来、30年ぶりに商業捕鯨を再開した。南極海での捕鯨を停止することは歓迎するが、鯨肉の供給に問題が出そうである。しかし鯨肉はもはや食道楽のための高級食材であり、もはや日本人の蛋白源ではないことを改めて再認識すべきだろう。表題は万葉集万葉集・巻16-3852「鯨魚取海哉死為流山哉死為流死許曽海者潮干而山者枯為礼」(いさなとりうみやしにするやまやしにするしぬれこそうみはしほひてやまはかれすれ)で「鯨魚(いさな)取り海は死ぬだろうか、山は死ぬだろうか。死ぬからこそ海は干上がり、山は枯れる」という意味である。

PDF  大崎晃「ニューイングランドにおける19世紀後半期アメリカ式捕鯨の衰退と産業革命」東京地学協会

2026年10月21日

ソーシャルメディアの弊害(36)精神的および感情的な健康に多くの悪影響を及ぼす可能性

Darkside of Socialmedia
Dark Side of the Social Media

ソーシャルメディアは、私たちが繋がり、コミュニケーションを取り、情報を消費する方法を間違いなく変革した。現代生活の一般的な側面であり、世界の総利用者数が約56億人〜57億人規模に達している。人口の約65%(約3人に2人)以上が何らかのソーシャルメディアを利用している計算になる。ソーシャルメディアには多くの利点がある一方で、際限なくスクロールし続けることは、私たちの精神的および感情的な健康に多くの悪影響を及ぼす可能性がある。最も顕著な悪影響の一つは、非現実的な期待や他人との比較を助長することである。ソーシャルメディアプラットフォームは、他人の完璧に見える生活を紹介する、厳選されたハイライト集のような役割を果たしている。このような情報に常に触れていると、不十分さ、羨望、自尊心の低下といった感情につながる可能性がある。研究によると、ソーシャルメディアの利用と身体イメージへの不満の増加には強い相関関係があり、特に若者の間で顕著です。ソーシャルメディアの利用が増えると、身体イメージへの懸念や摂食障害の症状が悪化するという研究結果もあります。さらに、ソーシャルメディアへのアクセスが増えたことで、過去10年間だけでも青少年のうつ病が急増している。完璧なオンライン上のペルソナを維持しようとするプレッシャーは圧倒的で、不安やうつ病、そして多くの場合、不十分さという感情につながる。さらに、ソーシャルメディアの中毒性は、絶え間ない注意散漫と集中力の低下という悪循環を生み出す。絶え間なく届く通知や更新情報はドーパミンの放出を促し、スマートフォンをチェックせずにはいられなくなる。マイクロソフトの調査によると、人間の平均的な集中力は金魚よりも短い8秒にまで低下しており、ソーシャルメディアはその一因となっている。これは、作業に集中する能力を阻害し、生産性や学業成績の低下につながる。その結果、集中力が散漫になり、深く有意義な作業に取り組むことが難しくなるのである。

Smart Phone
Smartphones Are to Blame

サイバーいじめやオンラインハラスメントも深刻な問題である。インターネットの匿名性は、個人が有害な行為に走ることを助長し、被害者に精神的苦痛や自殺願望さえ引き起こす可能性があある。10代の若者の40%以上がサイバーいじめを経験していると報告もある。絶え間ない否定的な情報やオンライン上の悪意ある言葉への曝露は、敵対的な環境を作り出し、精神的な健康と幸福に悪影響を及ぼす。かつては1日に数時間に限られていたものが、今では24時間体制で存在しているのである。誤情報やフェイクニュースの拡散は、もう一つの大きな課題である。ソーシャルメディアのアルゴリズムによって生み出されるエコーチェンバーは、既存の偏見や信念を強化し、真実と虚偽を見分けることを困難にする。米 MIT の研究によると、ソーシャルメディア上では、偽ニュースは真実のニュースよりもはるかに速く、広範囲に拡散することが分かった。これは政治的分極化、社会不安、そして信頼できる情報源への信頼の全般的な低下につながる可能性がある。こうした誤情報の結果として、社会不安や、情報に基づいた市民的議論の崩壊が生じる可能性がある。言い換えれば、ネガティブな情報はより早く吸収され、より強い影響力を持つということなのである。完璧なオンラインイメージを維持しなければならないという絶え間ないプレッシャーや、取り残されることへの恐怖(FOMO)は、不安や抑うつの感情を引き起こす可能性がある。画面から発せられるブルーライトは睡眠パターンを乱し、不眠症や睡眠の質の低下につながる可能性がある。ソーシャルメディアの過剰な使用は、現実の人間関係に悪影響を及ぼし、孤立感や孤独感につながる可能性がある。自尊心の低下:絶え間ない社会的比較や、厳選されたコンテンツへの接触は、自尊心や身体イメージに悪影響を与える可能性がある。しかし、ソーシャルメディアは必ずしもネガティブな情報源である必要はない。その有害な影響を軽減するために、より健全な習慣を身につけることができるのである。下記リンク先はハンブルグの『ディー・ツァイト』紙の記事「ソーシャルネットワークに関する欧州連合全域共通の規則が間もなく制定されるのだろうか? 13歳まではソーシャルメディアの利用を禁止し、15歳までは利用を制限する――これが欧州連合のウルズラ・フォン・デア・ライエン委員長が求めていることだ」です。

European Union  Von der Leyen plant Social-Media-Verbot für unter 13-Jährige | Der Die Zeit in Hamburg

2026年10月19日

映画『パーフェクトワールド』とハロウィン

Halloween
箒に跨った満月の魔女
A Perfect World (1993) loupe

ハロウィンは古代ケルト人の祭が起源で、秋の収穫を祝い、悪霊などを追い出す宗教的行事だったという。本来キリスト教とは関係ないが、11月1日に行われるキリスト教の万聖節「All Hallows」の前夜祭として紐付いたようである。日本でもカボチャのカービングや仮装行列が行われるようになったが、クリスマスと同様、宗教行事とは程遠い。ハロウィンというと私はずいぶん昔に観たクリント・イーストウッド監督作品の映画『パーフェクトワールド』(1993年)を思い出す。ケビン・コスナー演ずる脱獄囚ブッチ・ヘインズが、逃走途中に民家へ押し入り、8歳の少年フィリップ・ペリーを人質にアラスカに向けて逃亡する物語である。途中、フィリップは雑貨店でハロウィンの仮装用お面などに目を輝かす。エホバの証人の信者である彼の家庭では、母親が宗教に厳しく、キリスト教の友だちが開くパーティにも参加できず、ハロウィンの仮装も許されなかった。米国では近くの家々を訪れ「Trick or treat(お菓子をくれなきゃいたずらするぞ)」と唱えてお菓子をもらったりするそうだ。それがフィリップにとって羨ましくてしょうがなかったのである。クリント・イーストウッド演ずる刑事レッド・ガーネットはブッチを追い詰め、人質を解放するように求める。それに対しブッチは「母親がフィリップをハロウィンに行かせろ」という降伏条件を出す。この下りで思わず涙腺が緩んだことを憶えている。そし現場に到着したフィリップの母親がその要求を受け入れ、ブッチはフィリップを解放したのだった。

YouTube  A Perfect World - Theatrical Trailer 1993(映画『パーフェクトワールド』劇場公開用トレーラ)

2026年10月17日

世界史遠望(26)アフリカ系アメリカ人の権利と自由の法的保護を確立した公民権運動

Selma March
アラバマ州セルマの行進で「VOTE」と額に書いたアフリカ系アメリカ人の男性(1965年3月7日)

20世紀半ば、アフリカ系アメリカ人の平等な権利と人種隔離・排除の撤廃を求める全国的な運動がアメリカ各地で勃興した。この運動は様々な形態をとり、参加者たちは座り込み、ボイコット、抗議デモ、フリーダム・ライド、政府関係者への立法働きかけなど、幅広い手段を用いて要求を訴えた。彼らは多くの方面で反対に直面して爆破や暴行、逮捕、暗殺の犠牲となった。主な出来事としては以下のようなものがある。

ブラウン対教育委員会事件
全米黒人地位向上協会の法律擁護教育基金は、サーグッド・マーシャルの指導の下、数十年にわたり教育における人種隔離と闘ってきた。この長い闘いは、米国最高裁判所がブラウン対教育委員会事件を審理したことで頂点に達した。この事件は学校における人種隔離に関する5つの別々の訴訟をまとめたもので、マーシャルが最高裁での弁論を主導した。1954年5月17日、米国最高裁は「分離された教育施設は本質的に不平等である」と全員一致で判決を下し、公立学校における人種隔離を法的に終結させ、1889年のプレッシー対ファーガソン事件で確立された「分離すれども平等」の原則を覆した。
ローザ・パークスの逮捕
1955年12月1日、公民権運動家のローザ・パークスは、アラバマ州モンゴメリーのバスで白人乗客に席を譲ることを拒否したため逮捕された。この逮捕は、米国公民権運動における重要な出来事であるモンゴメリー・バス・ボイコットにつながり、パークスの長きにわたる活動家としてのキャリアにおける決定的な瞬間となった。モンゴメリー・バス・ボイコットでは、モンゴメリーの若き牧師、マーティン・ルーサー・キング・ジュニア博士が頭角を現した。
リトルロックの学校統合危機
ブラウン対教育委員会裁判の最高裁判決後、多くの州の州および地方当局は学校統合に抵抗した。1957年9月、9人のアフリカ系アメリカ人の生徒がアーカンソー州リトルロックのセントラル高校に入学しようとした。州知事は州兵に高校を包囲するよう命じ、黒人の生徒たちは嫌がらせを受け、校舎に入ることを阻まれた。ドワイト・アイゼンハワー大統領はアーカンソー州兵を国有化し、生徒を保護し、連邦裁判所の分離撤廃命令を執行するために米軍を派遣した。
バーミングハム運動
1963年春、マーティン・ルーサー・キング・ジュニア牧師率いる南部キリスト教指導者会議は、アラバマ州バーミングハムで、市の残忍な人種隔離政策に抗議するため、大規模な座り込みとデモ行進運動を開始した。多くの抗議者と指導者が投獄され、キング牧師は獄中で、非暴力抵抗の哲学を説明する長文の公開書簡を執筆した。この書簡は「バーミングハム刑務所からの手紙」として知られるようになり、広く再出版され、市民的不服従の原則を擁護する古典的な著作として高く評価されている。
The Great March on Washington
約25万人がワシントン記念塔からリンカーン記念堂まで行進した(1963年8月28日)
数十万人がワシントンD.C.に集結
1963年8月28日、米国史上最大規模の非暴力公民権デモ「雇用と自由のためのワシントン大行進」を行った。この行進は数ヶ月で組織され、ベテラン戦略家のバイヤード・ラスティンが調整役を務め、実質的な変革の緊急性を訴えることを目的としていた。行進のプログラムには、「現議会による包括的かつ効果的な公民権法制」から始まり、教育、住宅、雇用などにおける差別撤廃などが含まれていた。指導者や組織者は議員やジョン・F・ケネディ大統領と面会し行進はリンカーン記念堂で音楽と演説で締めくくられた。演説の中には、マーティン・ルーサー・キング・ジュニア牧師の「私には夢がある」も含まれていた。
アラバマ州セルマ公民権行進
1965年3月7日、25歳の活動家リーダー、ジョン・ルイスが率いる公民権行進が、行進隊が市内のエドマンド・ペタス橋を渡ろうとした際に、州警察官と保安官代理に襲撃された。行進隊が殴打され、催涙ガスを浴びせられ、警察の馬に踏みつけられる様子が報道されると、全国で怒りが広がり、活動家、宗教指導者、一般市民がセルマに押し寄せ、支援を行った。3月9日、マーティン・ルーサー・キング・ジュニア博士が率いる2番目の行進隊が橋に近づき、そこで祈りを捧げ、教会に戻った。3月21日、今度は連邦化された州兵に守られながら、数千人の行進隊が橋を渡り、モンゴメリーに向かった。
1964年の公民権法と1965年の投票権法
南北戦争後の再建期以降で最も重要な2つの公民権法が、わずか2年の間に相次いで可決された。この2つの法律は、人種、肌の色、宗教、性別、出身国に基づく差別を違法とした。公共施設、公教育、雇用における差別を禁止し、人種に基づく投票制限も禁じた。このような包括的な法律は、公民権運動の長年の目標であり、ジム・クロウ時代の多くの法律や慣習に終止符を打つものとなった。

1960年代末までに、公民権運動は法律と社会慣習に劇的な変化をもたらし、アフリカ系アメリカ人の権利と自由に対する法的保護を確立した。これは、その後数十年にわたりアメリカ社会を形作るものとなった。下記リンク先はジョン・F・ケネディ大統領図書館の「現代公民権運動とケネディ政権」です。

Kennedy MuseumThe Modern Civil Rights Movement and Kennedy Administration | John F. Kennedy Library

2026年10月15日

宗教考現学(15)上座部仏教の伝統を2300年もの間支えてきたスリランカ

Ruwanweliseya Stupa at Anuradhapura
ルワンウェリサヤ仏塔(中部州アヌラーダプラ)

仏教は紀元前5世紀、現在のネパール南部出身の釈迦族の王子、シッダールタ・ゴータマによって創始された。彼は長年の苦行の後、インドのブッダガヤにある菩提樹の下で悟り(涅槃)を開いた。彼の教えはパーリ聖典にまとめられ、四諦(苦しみの現実、その原因、苦しみの滅尽、そして滅尽への道)と八正道(倫理的かつ瞑想的な実践のための実践的な枠組み)について説かれている。彼の死後、仏教はインド全土、そして最終的には大陸全体に広まった。重要な年は紀元前247年である。カリンガ戦争の惨禍の後、仏教に改宗したインドのアショーカ王は、アジア各地に仏教の教えを広めるために使節団を派遣した。彼の息子マヒンダ(僧侶)はスリランカに渡り、アヌラーダプラの北にあるミヒンタレーの丘でデヴァナンピヤ・ティッサ王に説法を行った。王は即座に改宗した。この出来事は、スリランカ仏教発祥の地であるミヒンタレーで記念されており、2300年経った今でも巡礼地として親しまれている。

Buddha's Tooth Temple
ダラダー・マーリガーワ寺院(中部州キャンディ)

アショーカ王の娘サンガミッタは、釈迦が悟りを開いた菩提樹の挿し木を携えて後に続いた。その挿し木がアヌラーダプラのシュリー・マハー・ボーディとなり、今日でもなお生き続け、崇敬されている。これは地球上で最も古い記録に残る樹木である。仏教はスリランカの国教となり、植民地時代、内戦、そして2022年の経済危機を経てもなお、支配的な宗教であり続けている。シンハラ民族のアイデンティティと仏教の宗教的アイデンティティは深く結びついており、時に政治的に困難な結果をもたらすこともある。スリランカの仏教徒は「三宝」(ティラタナ)を中心に信仰生活を送っている。三宝とは、仏陀(歴史上のシッダールタ・ゴータマ)、ダルマ(仏陀の教え)、そしてサンガ(僧侶の共である。スリランカの僧侶は、サフラン色の袈裟をまとい、頭を剃り、律蔵(ヴィナヤ・ピタカ)と呼ばれる戒律を守っている。律蔵には、食事(正午前のみ、供物のみ)から睡眠(許可された部屋のみ)、女性との接触(一切禁止)まで、あらゆる事柄を規定する約227の規則が定められている。

Cave Temples
ダンブッラ石窟寺院(中部州マータレー)

僧侶たちはこれらの規則を守る代わりに、在家信者からの食料、袈裟、医薬品などの寄付によって生活を支えられている。僧侶と在家信者の関係は相互的なものである。僧侶は宗教教育や儀式を行い、人生の重要な出来事に立ち会います。在家信者は物質的な支援を提供します。この相互関係が、上座部仏教の伝統を2300年もの間支えてきた。スリランカの人口構成は、仏教徒が70%、ヒンドゥー教徒が12%、イスラム教徒が10%、キリスト教徒が7%となっている。この島には宗教間の共存の長い伝統があり、特に南部のカタラガマをはじめとする多くの聖地は、仏教徒、ヒンドゥー教徒、イスラム教徒によって同時に共有されている。シギリヤ、ポロンナルワ、アヌラーダプラには、いずれもヒンドゥー教の影響が見られる。仏教寺院群の中にヴィシュヌ神を祀る祠があったり、宗教が融合した図像が用いられていたり、共通の儀式暦が使われていたりといった例が見られる。他の宗教に見られるような、宗教の明確な分離は、スリランカの歴史には見られない。しかし、仏教徒のシンハラ人多数派とヒンドゥー教徒のタミル人少数派との間の緊張関係は、現代スリランカ政治において繰り返し見られるテーマであり、内戦(1983年~2009年)はその最も激しい表れであった。

Poya Day
満月ポヤの日(コロンボ郊外ケラニア)

こうした背景を理解することで、ジャフナ(タミル北部)、文化三角地帯、さらには仏歯寺(その政治史は民族的アイデンティティと切り離せない)といった地域への訪問がより豊かなものとなるだろう。スリランカの仏教は博物館の展示物ではなく、生きた実践であり、訪問者はそれにふさわしい振る舞いをすることが求められる。基本的なルールは島全体で共通している。肩と膝を覆い、寺院の壇上に上がる前に靴と帽子を脱ぎ、仏像に背を向けて写真を撮ることは決してしないことである。これは単なる規則違反ではなく、非常に失礼な行為とみなされる。仏塔や祠は時計回りに巡礼し、伝統的な敬意の方向である右肩を崇拝の対象に向ける。仏教を考古学的遺跡としてではなく、生きた伝統として体験できる最高の機会は、ポヤ(満月)の日である。この日、寺院は白い服を着た信者たちで埋め尽くされ、夕方のプージャ(礼拝)が行われる。

仏陀  テーラワーダ(上座部)仏教とは? 経典と瞑想および本来の仏教について | 仏教ウェブ入門講座

2026年10月14日

音楽雑話(7)スコットランド移民によってもたされたケープ・ブレトンのフィドル音楽

ケープ・ブレトン(カナダ東部大西洋岸ノバスコシア州にある島)のフィドル音楽は、ケルト音楽のイディオムに属する地域的なヴァイオリンのスタイルである。ケープ・ブレトンのフィドル音楽で主流となっているスタイルは、ハイランド・クリアランス、すなわち住民の強制立ち退きとそれに伴う歴史的動乱の際に、スコットランド移民によって北アメリカにもたらされた。これらのスコットランド移民は主にハイランドとルイス・ハリス島をはじめ、ノース・ウイスト島、ンベキュラ島、サウス・ウイスト島、バラ島など、大小あわせて100以上の島々のゲール語圏出身だった。スコットランドではこの時代以降フィドルは変化したが、スコットランドのフィドル音楽の伝統はケープブレトンでよりよく保存されていると広く考えられている。アイルランド風フィドルにも同様の伝統がある。

2026年8月に開催されたケープ・ブレトン・フィドル・フェスティバル

だがこの地域におけるスコットランド人の存在の結果として、そのスタイルは見過ごされている。1920年代から70年代にかけて、ケープブレトンのフィドル演奏スタイルは衰退した。この音楽に関連するダンス・スタイルとしては、ケープブレトン・ステップダンス、ケープ・ブレトン・スクエアダンス(アイオナスタイルとインヴァネススタイル)、そしてハイランドダンスなどが挙げられる。ケープ・ブレトンのフィドル演奏はアクセントが効いており、力強いアップボウが特長である。他の音楽起源(アイルランド、カナダ、フランス系カナダなど)の曲も、ケープ・ブレトンの演奏者が演奏すると違った響きになる。ダウンビートの拍子は、フィドル奏者の踵で床を叩くことで刻まれる。

The Heart of Cape Breton

パターンは、リールでは踵とつま先、ストラースペイでは踵が中心となる。1世紀前はヴァイオリンと足踏みオルガンが一般的な楽器だったが、現在ではピアノがリズム伴奏として主流となっているケープ・ブレトンのフィドル音楽は、スコットランド・ゲール語のイントネーション、特にプイルト・ア・ベウル(口笛音楽)やストラースペイの影響を受けている。装飾音は、グレート・ハイランド・バグパイプで用いられるものから取り入れられている。これらの装飾音(カット、別名トレブル、ドローン、ダブリング)が、ケープ・ブレトンのフィドルの独特の雰囲気を醸し出している。

Biggest Fiddle
2005年に建立された世界最大のフィドル

ケープ・ブレトンのフィドル音楽で一般的に演奏される曲は、ジグ、リール、クロッグ(ホーン・パイプ)、マーチ、ストラスペイ、スローエアなどである。このスタイルのフィドル音楽に関連する曲の多くは、バグパイプ、ピアノ、ギターなどの他の楽器でもよく演奏される。ハーモニカ、ティンホイッスル、マンドリン、バンジョーで演奏されることも珍しくない。現代のケープ・ブレトンの演奏家たちは、スコットランドやアイルランドの伝統音楽、そして現代音楽など、幅広い楽曲から影響を受けている。古くからある楽曲集も、よく利用されている。

YouTube  Cape Breton Fiddle : The Rankin Family - The Limehill Set (4:28) Posted by UISTMAN59

2026年10月13日

セイラム魔女裁判の謎

Folkways Records – FH 5211
Early New England Ballads Collected and Sung by John Allison

これはフォークウェイズレコードが1962年にリリースした、フォーク歌手ジョン・アリソンの "Witches and War-Whoops"(魔女と鬨の声)のジャケット写真で、アメリカ合衆国マサチューセッツ州セイラム村(現在のダンバース)で、1692年3月1日に始まったセイラム魔女裁判をテーマにした LP アルバムである。いささかショッキングなイラストだが、村人が魔女として告発され、その絞首刑の様子が描かれている。この裁判についてウィキペディア日本語版は「植民地時代アメリカにおける集団パニックの最も深刻な事例の一つである。孤立主義、宗教過激主義、虚偽の告発、正当なプロセスの遂行が孕む危険性について、鮮明な警鐘を呼び掛ける題材として、政治的文脈や大衆文学に用いられている。多くの歴史家はセイラム魔女裁判はその後のアメリカの裁判制度に対して非常に強い影響力を及ぼしたと考えている。

Smiling-Witch

歴史家のジョージ・リンカーン・バーは「セイラムの魔女裁判は、神権政治を崩壊させたと評しており、無実とされる人々が次々と告発されて裁判にかけられたその経緯は、集団心理の暴走の例としても引用されることが多い」と説明している。さらにインターネットを徘徊しているうちに、マサチューセッツ州ウォータータウンの歴史家のマリリン・ローチのことを知った。マサチューセッツ州ウェストボローのフィフティ・プラス・アドヴォケート紙の記事 "A Salem witch trial mystery remains"(セイラムの魔女裁判は謎が残る)によると「マサチューセッツ州の歴史作家マリリン・ローチは、セイラム魔女裁判について誰よりも知っているかもしれない。27年間にわたる綿密な調査、執筆、再執筆を経てこのテーマに関する彼女の最初の著書『セイラム魔女裁判』が2002年に出版された。そして2014年には『セイラムの6人の女たち』を上梓した」という。ローチによれば、魔女と疑われた164人が法廷制度に関与し、52人が裁判を受け、30人が有罪となった。30人中19人はセイラムの大観衆の前で絞首刑に処された。

Examination of a Witch
Tompkins H. Matteson (1813–1884) The Examination of a Witch, 1852

ローチは30人中19人の告発について「当時、荷車いっぱいの木材がバラバラになるのを誰かが目撃したり、目に見えない存在を感じたりしたかもしれない。告発者(魔法にかかった人、あるいは苦しんでいる人)は、魔女とされる他の人たちを告発した。「告発された人の中には家族のいない年配の女性もいたが、家族を持つ男性や女性もいた」「セイラムの想定される魔女と現代の魔女やウィッカンとの間には何の関係もありません」「彼らは誰も自分を魔女だとは思っていませんでした」云々。ローチは、1697年に裁判に対する謝罪として、マサチューセッツ州の一般大衆の間で一定期間の断食が行われたと指摘した。「その後、人々はパニックを悪魔の妄想だとみなしました。1711年、数回の請願の後、有罪判決を受けた者のうち22人の有罪評決が取り消されたが、有罪判決を受けた全員の名前が請願書に記載されていたわけではない。

Smiling-Witch

そして「1712年に裁判の結果被害を受けた人々に賠償金が支払われた」とローチは語っている。魔女裁判は、アメリカ史の中で奇妙で悲しい足跡を残している。「2001年にジェーン・スウィフト知事は残った名前を復元する法案を可決した。残念ながら、それはハロウィンの日に行われました」とローチ。彼女の研究は続いている。ローチは今、魔女裁判に参加した6人の男についての本を書いている。残念なことに、解明できていない情報がひとつある。絞首刑執行人は誰だったのだろうかという、極めて素朴な疑問である。「絞首刑の前に報酬が支払われたに違いない。請求書が見つからないんです。でも、彼がタバコを吸っていたことは知っています。1692年にサミュエル・ウォードウェルが絞首刑になったとき、彼は最後の言葉を言おうとしたときに、絞首刑の煙で喉を詰まらせた。首吊り師の名前が見つかればいいのですが」と嘆息しているようだ。下記リンク先の PDF ファイルはノースカロライナ大学の「セイラム魔女裁判の謎を解き明かす」です。

university  Solving the Mystery of the Salem Witch Trials Overview | University of North Carolina

2026年10月12日

森林再生活動をサポートする検索エンジン Ecosia を試用する

Ecosia

Ecosia(エコシア)はドイツの首都ベルリンの Ecosia GmbH(エコシア有限会社)が提供する検索エンジンで、80%以上の利益を植林・森林再生活動を行う非営利団体に寄付している。自身をソーシャル・ビジネスでありカーボンネガティブ(英語版)と考えており、Ecosia は財政の透明性を主張し定期的に財政レポートを公開している。ユーザーのプライバシーを保護し、アメリカの B Lab(英語版)に認証されたベネフィットコーポレーションである。創立当初は Yahoo! 検索の検索結果と、Bing、Wikipedia の技術を組み合わせて検索結果を表示していた。広告に関しては Ecosia と Yahoo! の利益共有の合意の一部として Yahoo! によって提供されていた。現在 Ecosia の検索結果は Bing によって提供されており、Bing から得た検索結果を Ecosia 自身のアルゴリズムによって強化している。Ecosia は現在スマートフォン(アンドロイド、iOS)、PC(Windows、Mac)上で動作するブラウザ・モバイルアプリとしても利用可能である。2019年現在 Google の検索結果も確認したい場合 Ecosia の検索バーに検索語句を入力することで Google の検索結果を表示することができる。2018年には、Ecosia はユーザーのプライバシーを守る検索エンジンになることを約束した。ユーザーの検索は暗号化され、保存は一時的にのみ行い、ユーザーのデータはサードパーティの広告会社に販売されることはないとしている。Ecosia はプライバシーポリシーにて検索履歴に基づくユーザープロフィールを作成しないし、Google Analytics のような外部のトラッキングツールを使用することもないとした。Ecosia は検索結果の隣に広告を表示しているが、ユーザーがスポンサードリンクを通じて広告元を参照したときにパートナーが Ecosia に料金を支払う仕組みとなっている。Ecosia の FAQ によれば Ecosiaで一度検索をすると、平均でおよそ0.5ユーロセント(0.005 EUR)の利益が発生する。1本の木を植えるには22ユーロセント掛かるので、22÷0.5という計算に基づき約45回の検索が1本の木を植えるために必要となる。Ecosia は広告からの利益の80%(収益の47.1%)を植林活動支援に使用しており、残りは想定外の事態の対応のために内部で留保される。もしこの留保した資金を使用する事態がなければ Ecosia の植林活動支援のための資金として使用される。Ecosia は月次で財政レポートを自身のサイト上に発表している。2018年10月には、創設者のクリスチャン・クロルは自身の保有する株式の一部を The Purpose Foundation に譲渡した。結果的に、クロールと Ecosia の共同所有者ティム・シューマッハは Ecosia を売る権利を放棄した。Ecosia はコペンハーゲンで行われた第15回気候変動枠組条約締約国会議と同じ日付である2009年12月7日に設立された。それ以降、プログラム運営者は材木業者・現地コミュニティと財政計画を作成したが、2011年までに Ecosia は250,000ユーロ以上を集めることに成功した。

スタートアップ画面

2013年7月から2014年9月にかけて Ecosia はアメリカの The Nature Conservancy(英語版)の主催する Plant a Billion Trees プログラムに寄付を行った。このプログラムは100万本の現地の木を植林することでブラジルの大西洋岸森林を2015年までに復元しようというものである。2015年には Ecosia はアフリカ連合・世界銀行の支援する砂漠化防止を目的としたグレートグリーンウォールプロジェクトの一環として、ブルキナファソの森林再生活動を資金援助した。B-lab によれば、2015年1月時点で、「利益の80%を寄付することで、Ecosia は2009年12月以降、熱帯雨林保護のために150万ドル以上を集めた。Ecosia によれば、2015年までに Ecosia はおよそ250万人のアクティブユーザーを獲得し、200万本以上の植林を行った。2015年5月に Ecosia は Europas(欧州のテック関連スタートアップ企業を称える賞)の社会の向上を意図した最優秀スタートアップ企業のカテゴリーの候補に挙げられた Ecosia は複数の団体と一緒に活動している。例えばエデン森林再生プロジェクト(英語版)、Hommes et Terre(フランス語:人類と地球)、その国現地の様々なパートナー等である。これらパートナーと Ecosia は16の国で植林を行った。Ecosia は現在ペルー、ニカラグア、コロンビア、ブラジル、モロッコ、スペイン、セネガル、ブルキナファソ、ガーナ、マダガスカル、ウガンダ、タンザニア、エチオピア、ハイチ、ケニア、インドネシアで植林プロジェクトを支援している。2018年10月9日、Ecosia は100万ユーロでハンバッハの森(英語版)をドイツのエネルギー会社 RWE から購入した。Ecosiaは Google Chrome と Mozilla Firefox 上でデフォルト検索エンジンとして使用可能である。2017年7月21日時点では、Brave ブラウザが Ecosiaをデフォルト検索エンジンの選択肢として提供している。バージョン26(2016年1月26日)のリリースに伴い Pale Moon ブラウザは Ecosia をデフォルト検索エンジンとして提供し、2016年2月15日に Polarity ブラウザのバージョン8も同様に Ecosia をデフォルト検索エンジンとした。Ecosia はバージョン44.0.2から Firerfox のデフォルト検索エンジンである。バージョン1.9から Vivaldi は Ecosia をデフォルト検索エンジンの選択肢として追加した。2018年3月には Firefox 59.0 が Ecosia を検索エンジンの選択肢としてドイツ版に追加した。

  エコシアは検索によって生じた広告収益の多くを環境保護(主に植林活動)に寄付する検索エンジン

2026年10月11日

音楽雑話(6)ルイジアナ州のアカディア人によって生み出されたケイジャン音楽

cajun
ボタンアコーディオンとフィドルが主体のケイジャン音楽

ケイジャン音楽は、18世紀初頭にルイジアナ州南部に移住してきた様々な移民グループの音楽スタイルから発展した。これらの移民たちは新天地に定住するにあたり、それぞれ独自の文化的伝統を持ち込んだのである。最初に移住してきたのはアカディア人だった。彼らはアカディアナ(Acadiana)呼ばれる地域(現在のカナダのノバスコシア州、ニューブランズウィック州、プリンスエドワード島などの大西洋沿岸)に定住した。彼らは1755年にイギリス政府によって故郷を追われ、最終的に南ルイジアナにたどり着き、独自の文化を築いた。ケイジャン音楽は、ボタンアコーディオン、フィドル、そしてフランス語という3つの要素で容易に識別できる。現代のソングライターでさえ、両親や祖父母からフランス語を学び、地元のフランス語の集まりに参加したり、フランス語集中教育プログラムを通してフランス語を習得し、フランス語で曲を書いている。ケイジャン音楽の曲のほとんどはツー・ステップかワルツで、特定のダンスステップに合わせて作られている。

アカディアナのふたつのサウンド
ケイジャンとザディコ音楽の違い

この音楽がケイジャンの人々の「もの」であることは間違いないが、アイルランド、ドイツ、アフリカ、ネイティブアメリカンの伝統の影響も取り入れている。ケイジャン音楽の多くは、フェ・ド・ド(ダンスパーティー)で聴くことができ、伝統的なケイジャン音楽にロック、ブルース、ソウル、ザディコの影響が融合している。ケイジャン音楽はルイジアナ州南部をはじめとする地域で根強い人気を誇っている。あらゆる年代の人々に愛され、カントリーやロックといった他のジャンルの音楽にも影響を与えてきた。長年にわたり様々な変化を遂げてきたにもかかわらず、ケイジャン音楽はルイジアナ州の文化遺産として今もなお愛され続けている。ケイジャン音楽の最初の録音は1920年代に遡り、ジョー・ファルコンとクレオマ・ブロウ、デニス・マギー、サディ・クールヴィル、クレオール・アコーディオン奏者のアメデ・アルドインといった演奏家が登場する。

Cléoma Breaux and Joe Falcon

アイリー・ルジューン、ローレンス・ウォーカー、アルダス・ロジャーとラファイエット・プレイボーイズ、バルファ兄弟、ハリー・チョーツ(別名「ケイジャン・スウィングのフィドル王」)、DL・メナード(別名「ケイジャンのハンク・ウィリアムズ」)といった演奏家たちは、20世紀を通じてこのサウンドを発展させ、広げるのに貢献した。1964年ののニューポート・フォーク・フェスティバルで、グラディウス・ティボドー、ルイ・“ヴィネス”・ルジューヌ、デューイ・バルファが観客を熱狂させるパフォーマンスを披露したことで、この伝統音楽はついに全国的な注目を集めることになった。そしてその後数十年の間に、ザカリー・リチャード、マイケル・ドゥーセとボーソレイユ、ウェイン・トゥープス、レッド・スティック・ランブラーズ、ロスト・バイユー・ランブラーズ、バルファ・トゥジュール、パイン・リーフ・ボーイズ、セドリック・ワトソンといったアーティストたちが台頭したのである。下記リンク先の動画はケイジャン音楽の演奏とダンス『マムーのためのギャロップ』です。

YouTube CAJUN MUSIC WITH PAYS D'EN HAUT (TIT GALOP POUR MAMOU) Posted by Brian Mitolo

2026年10月7日

ぶら京都(5)Stroll on Kyōto City #5

Seishō Nagon
Seishō Nagon at Jidai Matsuri, Kyōto Gyoen National Garden
時代祭清少納言の十二単(京都市上京区京都御苑)
Shyness
Shyness, Setogawa-chō, Saga Tenryūji, Ukyō-ku, Kyōto
恥じらい(京都市右京区嵯峨天龍寺瀬戸川町)
Zōri
Zōri, Nishikikōji-dōri, Yanaginobanba, Nakagyō-ku, Kyōto
草履(京都市中京区柳馬場錦小路通)
Japanese Kerria
Japanese Kerria, Matsuo-taisha Shrine, NishiKyō-ku, Kyōto
山吹(京都市西京区嵐山宮町の松尾大社)
Column,
Column, Shinpūkan, Bano-chō, Nakagyō-ku, Kyōto
円柱(京都市中京区場之町の新風館)
Saigū
Saigū Procession, Saga Arashiyama-chō, Ukyō-ku, Kyōto
斎宮行列(京都市右京区嵯峨中之島町)
Ivies
Ivies on the Wall, Nakano-chō, Nakagyō-ku, Kyōto
壁の蔦(京都市中京区中之町)
Santa Claus Lingeries
Santa Claus Lingeries, Sinkyōgoku-dōri Shijō-agaru, Nakagyō-ku, Kyōto
サンタクロースのランジェリー(京都市中京区新京極通四条上ル)
Kakizome
Kakizome, Kitano-tenmangū Shrine, Bakuro-chō, Kamigyō-ku, Kyōto
書初め(京都市上京区馬喰町の北野天満宮)

文字通り「ぶら京都」とはぶらぶら京都を散策して写真を撮るという意味ですが、徒然に目に止まった情景を撮影主体にしています。過去のストック写真を含め、旅行者ではなく、この地に住んでるがゆえの視線で捉えた、京都らしい写真をお届けします。