Cecil Beaton (1904–1980) |
セシル・ビートンは1904年1月14日、ロンドンの高級住宅街、ハムステッドに生まれた。戦争、ポートレート、ファッションの写真家。また、衣装や舞台のデザイナー、インテリアデザイナー、画家としても活躍した。ヘルス・マウント・スクール、セント・シプリアン・スクールに学び、そこで自分の芸術的、創造的才能を認識するようになる。幼少期には、乳母が使っていたコダック3Aという古いカメラで写真の練習をした。乳母は彼に写真の基本やフィルムの現像方法について教育した。また母親や姉妹にポーズをとってもらい、練習したものだった。そして、ある程度上手になると、ペンネームで社会誌に写真を送ることが多くなった。セント・ジョンズ・カレッジで建築、美術、歴史を学ぶ。その間もビートンは写真を撮り続け、大学時代の知り合いを通じてマルフィ公爵夫人に似た人物を撮影する機会を得、それがヴォーグ誌に掲載されることになる。その後、学位を取得し、父のもとで働きながら、週末を利用して写真を撮り続けた。
ロンドンのクーリング・ギャラリーで、オズバート・シットウェルの後援のもと、ビートンの最初の展覧会が開催された。さらに成功を収めようとニューヨークに渡り、徐々にその名声を高めていった。コンデナスト出版と契約し、写真を撮っていたが、これらの写真はもっぱら彼らのためのもので、何千ポンドもの価値があった。撮影には中判のローライフレックスと大判カメラの両方を使用した。ビートンはポール・タンカレー(1905-1991)のスタジオで専門的に写真を学びながら、チャリティーのための衣装や本のジャケットをデザインした。その後、退廃的なライフスタイルで知られる英国の社交家、ステファン・テナント(1906–1987))を最初のクライアントとして、個人スタジオを設立する。ビートンが撮影したテナントの写真は、1920年代から30年代の「明るい若者」の姿を最もよく表している。1931年、フランス版『ヴォーグ』の写真家ジョージ・ホイニンゲン=ヒューン(1900–1968)が渡英した際、ビートンは英国版『ヴォーグ』の写真を担当した。
このアーティストサークルの交流から、1930年代を代表する新しいスタイルが生まれたのである。『ヴォーグ』『ヴァニティ・フェア』のフォトグラファーとして活躍。さらに、ハリウッドのセレブも撮影した。残念なことに、ビートンはニューヨークのイラストを描いた写真の横に「カイク(ユダヤ人を指すアメリカ生まれの口語)」などの蔑称を使い始めた。この行為でアメリカン版『ヴォーグ』から解雇され、彼のせいでその号は刷り直しになった。このエピソードはセシル・ビートンにとって非常に屈辱的なもので、彼はイギリスに戻り、女王の推薦で情報省での仕事を与えられることになった。このとき、ウィンストン・チャーチル首相(1874–1965)を撮影している。また、第二次世界大戦中のモハンマド・レザー・シャー・パフラヴィー(1919–1980)とファウジア・ファウド・チリーヌ(1921–2013)とその子供も撮影している。この時、ドイツの電撃戦の犠牲となったアイリーン・ダンの姿も撮影している。
彼女はまだ3歳で、病院の療養ベッドでテディベアを抱きしめていた。これは、彼の最も不朽の名作となる。そしてビートンは英国を代表する戦場カメラマンとなった。その一方、特筆すべきは英王室における宮廷写真家としての地位を確立したことである。ポール・ヒル、トーマス・クーパーのインタビュー集『写真術』(晶文社1988年)によると1945年、バッキンガム宮殿に招かれ、滞在中のギリシャのオルガ王女(1903-1997)に写真を撮るように頼まれたのが最初だったようだ。もしかしたら英王室は彼の存在を知らなかったのかもしれない。そして三日後にエリザベス王女(1926-)とその母エリザベス・ボーズ=ライアン王妃(1900-2002)を撮ることを依頼される。これを皮切りに、英王室全員を撮るようになったのである。写真は1945年に撮影された王女時代のエリザベスII世だが、美しい。華麗の一言に尽きる。
1951年、マーガレット王女(1930–2002)の21歳の誕生日にディオールのクリーム色のドレスを着て撮影し、この写真は20世紀を代表する王室のポートレートとなった。1946年に再演されたブロードウェイの『ウィンダミアの扇』ではセット、衣装、照明をデザインし、出演もしている。これがきっかけとなり、ラーナー&ロエベの映画ミュージカル『ジジ』(1958年)と『マイ・フェア・レディ』(1964年)の2作品が生まれ、それぞれビートンはアカデミー賞の衣装デザイン賞を獲得した。また、1970年の映画『晴れた日には永遠に見える』では、時代物の衣装をデザインしている。その後1974年、脳梗塞で倒れ、体の自由が利かなくなり、左手で絵を描いたり、字を書いたり、カメラを持ったりできるようになったものの、挫折を味わうことになる。将来の経済状況を心配した彼は、サザビーズのフィリップ・ガーナー(1949-)と交渉し、彼の作品が年間収入を得られるような方法をとってもらった。1977年、ビートンの作品は5回にわたってオークションにかけられ、最後にオークションにかけられたのは、彼が亡くなった1980年であった。
Cecil Beaton (1904–1980) Photographer's Biography and Art Works | Huxley-Parlour
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