2018年2月21日

不鮮明の歴史:ディテイルを拒否するまなざし

岡崎公園(京都市左京区岡崎最勝寺町)
Harman TiTAN 4x5 Pinhole Camera with Fujifilm 160NS

ピンボケの写真ができ上ると、人々は失敗作として落胆しないだろうか? 写真は鮮明に写っていないと駄目だと入門書に書いてはないだろうか? ところが現代では、判別できないような不鮮明な画像が受け入れられている。シュトゥットガルト写真関連著作賞を受賞した『不鮮明の歴史』の著者、ヴォルフガング・ウルリヒは「不鮮明の歴史を再構成していけば、ある造形手段のジャンル全体が、精神的・イデオロギー的な起源から解き放たれていく過程を示すことになる」と主張している。明解性において優れた写真術の発明は、絵画、特に肖像画に大きな打撃を与えたといえる。だがしかし、不思議なことに、すぐにソフトフォーカスが流行りだした。そしてさらに、ゴム印画法など、絵画を模倣した手法が現れ、19世紀末から20世紀初頭まで一世風靡する。いわゆるピクトリアリズム、絵画主義写真である。ところが明解性こそ写真の真髄であるという主張を基に、ストレート写真による揺り戻しがあった。米国において最も重要な代表者はアルフレッド・スティーグリッツであり、我が国では野島康三だった。いずれも絵画主義を標榜した写真家だったが、鮮明なストレート写真こそ写真であると高らかに宣言した。写真芸術にとって不鮮明さは必要ないと断じたわけである。鮮明さを求めるものに報道写真があるのでは、と考える人が多いかも知れない。ピンボケでは証拠にならないからだ。
満留伸一郎訳(クリックで拡大)

しかし例えばロバート・キャパの名作「ノルマンディ上陸作戦」の写真はどうだろう。ヘルメットをかぶり、海水に浸かりながら上陸作戦を展開する兵士たちは、見事にブレ、ボケている。そのブレボケが状況の緊迫感を増幅させ、逆にリアリティを持たせているのである。もしかしたら不鮮明は真理の構成要素のひとつになり得る可能性もあるといえるのではないだろうか。20世紀の終わりになると、信憑性がある写真に対する欲求が高まったとヴォルフガング・ウルリヒは主張する。そのひとつの要因として、デジタル画像処理に対する反動があったのではないかという。つまりこの写真はホンモノかどうかと疑うことが習慣になってしまったというのだ。カメラの外にある光と、フィルムと簡素な関係に複雑な要素が加わってしまった。カメラはブラックボックス化し、人が写真の成立にどれだけ関われるかが不透明になってしまったのである。だから写真の技術武装に対する反動として、ロモのようなトイカメラが圧倒的支持を得るようになったのではないだろうか。ロモ愛好家のスローガンは「不鮮明なほど鮮明だ」「《よい》写真や《下手》な写真は存在しない」であった。本書はピンホールやゾーンプレート写真には触れていないが、その位置づけに対し示唆に富んでいる。私は写真の成立に極めて直接的に関われるこれらの写真こそ、真実味を帯びた信憑性ある画像を生み出すと思っているからだ。その根底にあるのは、物事のディテイルを拒否する人間のまなざしではないだろうか。

0 件のコメント: