2013年6月4日

天安門事件から24年

1989年6月4日 天安門広場に向かう戦車の前に立ちふさがる市民 ©Stuart Franklin/Magnum Photos

今日6月4日は天安門事件から24年、中国共産党は「終わったこと」として、ネットでの書き込みを次々と削除しているという。以下は確か1991年に書いたエッセー「私的写真論への覚書(30)天安門」で、そのまま再掲載することにします。

中国の楽器が壁にたてかけてあった。聞けば日本の三味線の絃を張ってあるという。京都上七軒、私たちは芸妓さんが経営するバーにいた。女将さんに調律してもらう。本調子でね。市バスを降りて、三条を東へ、あの娘は来ない、鴨川プカリ。酔った私は自作の歌を歌う。M君がビデオを回したようだ。すぐに再生する。ははは、音痴だな、と私は照れる。席を替えてお茶屋のカウンターへ繰り込む。昔は凄かったね、とN君がいう。MM君もN君も写真週刊誌の契約カメラマンだ。まあね、面白かったし。最近はどうしたんですか、元気がないじゃないですか。隠遁したんだよ、京都にね。今日の記者クラブ、ひどいじゃないですか。N君が突然憤慨しはじめた。

ラエちゃんは横浜の大学を出たあと一年間民間会社勤めをして京都に帰ってきた。わたし、首都圏の生活に疲れたの。ぼくもそうなんだよね、もうあんなとこで働くのはまっぴらだね。わたしも。バイト先でラエちゃんは中国人のRさんと知り合った。私は深い事情は聞かないことにした。Rさんはビル掃除のアルバイトをしていて、そのビルでラエちゃんは働いていた。彼女は学生時代に歴史を勉強、専門は騎馬民族の研究だった。第二外国語は中国語。ラエちゃんはRさんの奥さんであるKさんから中国語を習うようになった。あのー、天安門事件のビデオあるかしら。どうして? Kさんが見たいんだって。

宝ヶ池の国立京都国際会議場。来日した中国の天体物理学者、方励之氏が会見場に現れる。私自身は学生に何も指示しませんでした。学生たちが私のところにきたのは事実ですし、私の発言に影響を受けたのも事実でしょう。方氏は記者の質問に淡々と答える。天安門事件のとき「学生を扇動した」とされる中国共産党を除名された国際的学者。出国した方氏はプリンストン大学高等学術研究所に招聘された。あの有名な『アインシュタインの部屋』がある研究所だ。質問は中国の民主化運動に集中する。

私の意識はふとその高等学術研究所にいたフォン・ノイマン博士の逸話にシフトする。世俗にまみれない学者の世界。コンピュータの歴史の本に必ず出てくるのがペンシルバニア大学で一九四六年に作られたエニアック。総重量三十トン、使われた真空管一万八千八百本。これが世界最初の電子計算機と呼ばれている。このエニアックの改良をしたのがノイマン博士だ。計算機を外側から制御するのではなくプログラムという概念を導入する。今日に至ってもプログラムを内蔵させ、命令を実行するコンピュータをノイマン型と呼んでいる。研究所の一室に忽然と現れた巨大な化物。歴史の中で誰かが驚愕している。そしてその歴史の中で私は微笑む。もっとプリンストンの生活を聞いたほうが面白いのに。会見場を出るとN君が扉にへばりついて聞き耳をたてていた。かれは記者クラブから追い出されたのだ。

RさんKさん夫妻※の仮住まいは同志社大学近くにあった。狭い。六畳一間だろうか。炬燵。Kさんがラエちゃんに中国語の講義をはじめる。終わると手作りの中国料理を出してくれる。夫妻は北京とは離れた地域出身。それでも医師であるKさんは北京語を話す。日本語も上手。あのテープはもういいのです。そうですか。何かに脅えてるようだ。夫妻は天安門事件の詳細を知らないらしい。人民軍が人民に銃を? 映像を見るのが怖いらしい。Rさんは元教師。党結成以来のバリバリの共産党員だという。夫妻の帰国時期が迫っていた。私たちはその部屋で記念写真を撮った。

註)※RさんKさん夫妻と書いたのは中国では夫婦別姓だからです。ノイマン博士の下りはエド・レジス著『アインシュタインの部屋』(大貫昌子訳・1990年・工作舎)を参考にしました。

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