2011年10月28日

銀塩ピンホール写真への回帰

石仏撮影 清涼寺(京都市右京区嵯峨釈迦堂藤ノ木町)Fujifilm Finepix X100

FBピンホール写真グループ
このところずっとデジタルカメラによるゾーンプレート写真を手がけてきた。ピンホールを含め、レンズレスカメラに関してはもうフィルムに戻らないだろうと思っていたが、最近再び香港製の木製針孔暗箱ZERO45を持ち出すようになった。そのひとつはソーシャルネットワークキングサービスのFacebookにピンホール写真のグループを創設したからだ。英文のグループはあるものの、日本語グループを探したががない。ないなら自分で作ってしまえとと思ったわけだが、やはり管理人になった以上ピンホール写真も撮らねばと感じたからだ。もうひとつの理由として、英国のイルフォードフォトが4x5のピンホール写真キットを発売するというニュースに接し、新たな刺激を受けたこともある。ああやはり銀塩アナログ写真を捨てては駄目だと自戒したわけである。ZERO45による撮影は、元々は京都の寺院巡りに遡るが、途中気付いた石仏撮影が中途半端なままになっている。今年のJPS展に5枚組の石仏作品を出展したが、できれば撮り足していつか個展にこぎつけたいと思うに至った次第である。とはいえデジタルゾーンプレート写真をやめたわけではない。別の魅力があるからだ。

2011年10月26日

時代祭のゾーンプレート写真

巴御前 京都御所(京都市上京区京都御苑)Sony NEX-5 + Zoneplate

実は先日の時代祭での最大目的はゾーンプレートカメラで撮ることだった。狙いは平安時代の女性の装束で、顔を外して衣裳そのものをターゲットにした。ただ人物が分かるコマもある。その一枚がこの巴御前の写真で、前回アップした普通の写真と同じシチュエーションである。使用したプレートは焦点距離25mmで絞りはおよそF47である。ピンホールよりはるかに明るいし、デジタルカメラなので感度を上げることができる。だから手持ち撮影が可能だ。絞り優先オート、しかもライブビュー撮影できるので、キャンディッド写真がものにできる。どうだろう、平安女性の雅が表現できてるだろうか。

2011年10月23日

時代祭:たかが仮装行列とあなどるなかれ

巴御前 京都御所(京都市上京区京都御苑)Fujifilm Finepix X100

日本製二眼レフを構えるフランス人女性
雨で順延となった時代祭が今日開催された。初めてこの祭を見た時は、若かったせいもあるだろうけど、だらだら続く仮装行列だと落胆したものだ。しかしその後、次第に意識が変化、時代装束に興味を持つようになった。特に平安時代の女性、十二単衣に代表される色重ねに強く惹かれるようになったのは、やはり歳を重ねたせいだろうか。だから勢い、この祭では「平安時代婦人列」に注目してしまう。この列および江戸時代婦人列、中世婦人列は、京都の五花街の芸妓舞妓が輪番で奉仕出演するが、この点も興味深い。今年の平安時代婦人列は祇園甲部の番だった。行列は京都御所から平安神宮までのコースだが、早くから大勢の出演者が御所に集まる。そしてその光景を写真に納めるため、大勢の写真愛好家や観光客が集まる。正午過ぎに祇園から装束をつけた芸妓さんたちが到着したが、巴御前役の芸妓さんに訊いたところ、化粧は女紅場でしたという。平安時代の役どころとしては、清少納言、紫式部、小野小町などが並ぶが、やはり鎧で身を固めた武者姿の巴御前が目立つ。凛々しくも艶めかしく、時代祭のヒロインと言っても差し障りはないだろう。巴御前といえば、来年のNHK大河ドラマは『平家物語』だそうだ。史実との矛盾をどのように表現するのだろうか、ちょっと楽しみで、久しぶりにチャンネルを合わせてみようと思っている。いずれにしても、歴史を視覚的に具現化した時代祭の装束見物は楽しい。まさにあなどるなかれである。

2011年10月19日

寺紋に潜む貴族と仏教寺院の関係

御影堂向拝幕 東本願寺(京都市下京区烏丸通七条上る)Fujifilm Finepix X100

立ち牡丹
京都駅前のヨドバシカメラでフィルムを購入した帰り道、爽やかな秋晴れに誘われ、東本願寺(浄土真宗大谷派)に足を伸ばしてみた。同寺大谷婦人会の「親鸞聖人七百五十回御遠忌法要」が行われていて、御影堂は大勢の女性信徒で一杯だった。向拝、すなわち御影堂正面から張り出した庇(ひさし)の下に、大きな幕が掛かっている。蓮如上人五百回御遠忌の際に寄進されたものらしい。青紫の布地に大きな寺紋が染め抜かれている。通り掛かった寺務所の人に訊くと、真ん中の花は牡丹で、近衛家の家紋に由来するという。播磨屋.comの「名字と家紋」によると、牡丹紋は菊紋、葵紋につぐ権威ある紋章なんだそうである。そして仏教寺院に関しては「藤原氏の氏寺である興福寺、摂関家の子弟が入る大乗寺、近衛家の子女が相ついで嫁した東本願寺などが、牡丹紋を用いている」と解説している。築地本願寺(本願寺築地別院)輪番の職にあった豊原大成氏のブログ記事「輪番独語」には、東本願寺の寺紋が牡丹であることに対し、第20世達如上人(1780~1865)が近衛経熈の娘熈子姫を妃として迎え、近衛家の「抱き牡丹」がもたらされたであろうとの説があるが、もっと早くから用いられていたのではと推測している。しかし米原仏具店の「家紋帳」を見ると、東本願寺の寺紋が「立ち牡丹」であることが分かる。これで間違いないなら、豊原大成氏は「抱き牡丹」を寺紋としているが、どうやらそうではないということになる。しかしいずれにしても、日本の古代から近世までの貴族と寺院の関係が、寺紋に潜んでるいることが興味深い。

2011年10月15日

人形よ誰がつくりしか誰に愛されしか知らねども

人形たち  宝鏡寺(京都市上京区寺之内通堀川東入る)  Fujifilm Finepix X100

昨日、人形供養祭があったので宝鏡寺に出かけた。同寺のホームページには「中世京洛に栄えていました尼五山第一位の景愛寺の法灯を今に受け継ぐ宝鏡寺です」とある。尼五山とは室町時代に五山の制に倣って尼寺に導入された臨済宗の寺格で、景愛寺、檀林寺、護念寺、恵林寺、通玄寺のことだそうだ。京都市上京区西五辻東町にあった景愛寺は建治3(1277)年に開山、二百年後の明応7(1498)年に焼失したが再建されなかった。宝鏡寺はその景愛寺の第六世で、厳天皇の皇女華林宮惠厳禅尼が応安(1368~1375)年間に開山したと伝えられている。門跡寺院ゆえ皇女たちが尼僧となって寺に入り、御所から人形が贈られたが、宝鏡寺はその多くを保存しているようだ。戦後その人形を一般公開することになり、併せて秋に人形供養祭が営まれるようになったという。供養祭は御所人形の彫像を祀った人形塚で行われた。台座には武者小路実篤が詠んだ歌が刻まれている。
人形よ誰がつくりしか誰に愛されしか知らねども愛された事実こそ汝が成仏の誠なれ
献茶、献花の後、尼僧が「観音経」を読経する中、関係者や一般の人々による焼香が行われた。京人形商工業協同組合のホームページには「持ち寄られたお人形がお火上げされ、その灰が境内の人形塚に納められます」とあるが、人形たちは境内の一角に敷かれた茣蓙に並べられたままで、紙のひとがたを燃やした灰の一部が人形塚の中に納められただけだった。かつて私は上野寛永寺清水観音堂で行われた人形供養で実際に荼毘(だび)にふされるシーンを見たことがある。炎に包またその姿は、いかに人形とは言え、目を逸らしたくなったことを憶えている。だから宝鏡寺では一般の目前では火葬をしないのだろう。人形は文字通り「ひとがた」なのだから。

2011年10月5日

第37回2012年JPS展(日本写真家協会展)作品募集


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公益社団法人日本写真家協会(JPS)は、1950年に創立され、昨年60周年を迎えた我が国有数のプロ写真家の団体です。現在約1750名の会員を擁し、2011年には公益社団法人として移行認定され、写真展をはじめ写真教育、講演会やセミナーな ど各種の公益性の高い事業を行っています。当協会の事業の核として毎年開催しているJPS展は1976年にスタートし、おかげさまで今回37回を数えることができました。歴代の入賞・入選者からはプロ写真家を輩出し、写真愛好家にも人気の高い歴史ある公募展です。昨年応募された方は4歳から92歳と大変幅広く、一般公募部門の他に20歳以下部門を設け、若い方の育成、奨励に努めています。入賞、入選された作品は、5月の東京展を皮切りに、名古屋、京都での巡回展を予定しています。作品のテーマは自由です。自然の姿、風景、都市の貌、人間とその暮し、動物、海外の風物、心象的な表現など、ご自身の作品の中で、これは是非多くの人に見て欲しいと思う作品をお寄せください。新鮮で想像力豊かな、オリジナリティに溢れた作品を期待しています。みなさまのたくさんのご応募を お待ちしています。

公益社団法人日本写真家協会 JPS展 担当理事 島田 聡
主         催: 公益社団法人日本写真家協会
共         催: 東京都写真美術館
後         援: 文化庁
応募要項: http://www.jps.gr.jp/events/jps/2012/application.php

2011年10月4日

ずいき祭還幸祭と花街上七軒の思い出

舞妓芸妓と八乙女 上七軒(京都市上京区真盛町)Sony NEX-5 E18-55mm F3.5-5.6

北野をどり(上七軒歌舞練場)1995年ごろ
今日は北野天満宮のずいき祭の四日目、還幸祭があった。中京区西ノ京御輿岡町の御旅所から、鳳輦(ほうれん)や八乙女(やおとめ)、稚児などの列が北野天満宮に戻る行事である。最後は天満宮の東門に入るので、途中、花街上七軒を通ることになる。かつて私はこの花街に通い詰めたことがある。お茶屋「吉田家」の片隅で遊ばせて貰ったわけだが、ここでシンガーソングライター&医師の藤村直樹氏と再会したことは忘れられない。カウンターで彼がつま弾くギターに合わせ、高田渡サンの「生活の柄」(原詩は山之口貘)を何度も歌ったものだ。記憶はやや曖昧だが、確か2001年の春ごろ「吉田家」は店仕舞いをした。女将さんである泰子(ひろこ)さんの健康状態が悪化したためと聞いた。案の定「おっきなおかあはん」である吉田悦子さんから泰子さんが10月に他界したという訃報を聞いたのである。その悦子さんも数年後他界するが、最期をみとったのは藤村氏だ。しかし氏もまた今やこの世にいない。だから私は「吉田家」と供に上七軒から足が遠のいてしまったことになる。そういえば「京都では秋一番の祭」と泰子さんがよく話していたなぁ、ふと思い出した私は、午後上七軒に出かけてみた。お茶屋「中里」の前に舞妓芸妓が並び、還幸祭列を迎えるのだが、あれだけ通ったにも関わらず、このシーンを見るのは初めてだった。明日はずいき祭の最終日、北野天満宮で八乙女田舞が奉納されるが、天気予報が雨なのがちょっと心配だ。