2024年7月28日

ああここにいる東京1986年夏

丸新自転車商会(京都市中京区丸太町新町東入る)

何気なく京都府庁前の自転車屋さんを覗いたら、パフパフホーンが目に飛び込んできた。アニマルエアホーンと呼ぶらしいが、動物ばかりではなく、キャラクターは様々である。可愛いのでひとつ買おうと思ったが、自分が自転車を持っていないのに気付いた。初めてスポーツ車を手に入れたは1985年、中京区竹屋町通を堀川通から東に入った自転車店「スポーツサイクルヤマネ」でだった。購入した年を憶えているのは、翌年、自転車を抱えて東京に単身赴任したからだ。何故かこの年、歌をかなり作った。

東京1986年夏

ネジを落した町は軋しんでる
油を切らした歯車がわめいてる
玉川上水の木漏れ日にハンドルとられ
ああここにいる東京1986年夏

人間と人間が複写しあってる
客席の向こうは額縁金色メガネ
大日本帝国劇場は逆さ吊り
ああここにいる東京1986年夏

仲買人は魚の死体をせり落す
築地ダウンタウン名物ガン病棟
新聞記事が墓場の底で大増幅
ああここにいる東京1986年夏

黒塗り止まり木ニセモノRomanisches Café
おすまし六本木はヒソヒソ痴話喧嘩
舞踏会の幕は下りたよシンデレラガール
ああここにいる東京1986年夏

京都発デジタル信号パラボラ反射
Pease on earth 7ポイント5回転
紙オムツの子猫がミンミンミン
ああここにいる東京1986年夏

再び京都に戻ったのは1989年、昭和が終わり、平成が始まった年だった。仕事場が大阪に代わり、京阪電車の出町柳駅まで自転車で通ったことを憶えている。しかしそれがいつまで続いたかは記憶が定かではない。いつの間にかべランダに放置したままになり、廃棄の運命を辿ったようだ。今我が家には一台の自転車があるが、いわゆるママチャリでちょっと乗る気がしない。買うならやはりスポーツ自転車だ。京都は自転車が似合う町、高田渡の歌が耳に蘇ってきた。自転車にのって、自転車にのって、ちょいとそこまで歩きたいから。

YouTube  自転車にのって / 高田渡+キャラメルママ+矢野顕子 / LPアルバム「ごあいさつ」(1971年)より

2024年7月23日

ガブリエル・ガルシア=マルケス『百年の孤独』を紐解く

Ilustración
Ilustración la edición 50 aniversario de Cien Años de Soledad por Luisa Rivera
新潮文庫(2024年7月1日発行)

コロンビアのノーベル賞作家、ガブリエル・ガルシア=マルケス(1927-2014)の代表作『百年の孤独』の新潮文庫版が、海外文学作品としては異例のペースで売れているという。インターネット書店では売り切れとなる店が続出、大型書店には特設コーナーが設置されているという。発売直後にもかかわらず、既に重版が決まっている。『百年の孤独』は、1967年に発表された作品で、架空の村・マコンドを舞台に、ブエンディア一族の栄華と滅亡の100年を描いた長編小説。これまで46言語に翻訳され、5,000万部を売り上げるなど世界的なベストセラーとなっている。日本語訳は、翻訳家・鼓直さんによるものが新潮社から72年に単行本として刊行され、装丁を替えながら、約30万部売り上げてきた。ただ、世界的な名著にもかかわらず、これまで文庫化には至らず、文芸ファンの中では「絶対に文庫化されない名著」の一つに数えられてきた。72年に邦訳されて単行本となった同作。東京新聞電子版によると、文庫化までに時間がかかった理由を、新潮文庫編集部の菊池亮さんは「海外作品は契約の関係で文庫化されにくく、すぐに売れたわけでもなかった。今でこそ名著とされるが、何とか出し続けてタイミングを計っているうちに50年が過ぎたという感覚」と明かしたという。出版業界の売り上げはピークとなった1996年までは上り坂一辺倒で来た。だが消費税が3%から5%に増税した1997年に初の前年割れとなり、以降、下降の一途をたどることとなった。2016年には書籍と雑誌の売り上げが逆転、雑高書低が終わりを告げた。書籍市場は雑誌に比べればまだ健闘していると言えるが、読者は高齢者にシフトしつつあり、老若男女に幅広く売れる瞬発的な売り上げは期待できない。単発ヒットになりそうな『百年の孤独』だが、どんな作品か紐解いてみた。

小説『百年の孤独』における「孤独」の意味
ガブリエル・ガルシア=マルケスの小説『百年の孤独』における「孤独」は単に一人ぼっちである状態を表すだけでなく、様々な意味合いを持っている。人間は生まれてから死ぬまで、様々な人と出会い、関係を築く。しかし最終的には誰もが一人で死を迎える。この誰もが抱える根本的な孤独が『百年の孤独』では描かれている。ブエンディア家の人々は、代々、様々な孤独を経験する。愛する人との死別、家族との確執、人間関係の複雑さなど、様々な問題に直面し、深い孤独に苦しむ。文明と自然、人間と人間、個人と社会の断絶が描かれています。これらの断絶は、孤独を生み出す要因の一つとなっています。絶望のはざまでブエンディア家の人々は、孤独に苦しみながらも、希望を捨てずに生きようとする7。しかし、その希望は、多くの場合、絶望に打ち砕かれてしまう。マルケスは『百年の孤独』を通して、人間存在の孤独を深く掘り下げている。この作品は、私たち一人ひとりに、孤独について考えさせられるきっかけを与えてくれるのではないだろうか。
  • ウルスラ・イグアラン:夫ホセ・アルカディオ・ブエンディアとの死別、子供たちの不幸、家族の崩壊などを経験し、深い孤独に苦しむ。
  • ホセ・アルカディオ・ブエンディア:孤独を求めてマコンド村を築くが、孤独から逃れることはできない。
  • アウレリャノ・バビローニア:先祖たちの孤独を繰り返すように、孤独な人生を送る。
マルケスは、これらの登場人物を通して、孤独の様々な側面を描き出している。「孤独」は、『百年の孤独』の重要なテーマの一つであり、作品全体の理解に不可欠な要素です。「孤独」について理解することで、作品をより深く味わうことができるのである。

コロンビア奥地の架空の村マコンドの百年
小説『百年の孤独』は魔法的リアリズムの代表作として知られる小説である。現実と幻想が織り成す壮大な物語は、世界中の読者を魅了し続けている。
  • ブエンディア家:マコンドの創設者ホセ・アルカディオ・ブエンディアとその妻ウルスラ・イグアランから始まる一族。様々な運命を背負い、愛と苦悩、繁栄と滅亡を経験していく。
  • アウレリャノ一族:戦闘や反乱に明け暮れる男性中心の家系。
  • アマランタ一族:強い意志と情熱を持つ女性中心の家系。
  • マコンドの誕生:ホセ・アルカディオ・ブエンディアとウルスラ・イグアランは、文明から隔絶された土地にマコンド村を築く。
  • 繁栄と苦難:村は徐々に発展していくが、ブエンディア家の人々は様々な苦難に見舞われる。恋愛、戦争、政治的陰謀、経済的困窮など、様々な問題に直面していく。
  • 繰り返される運命:ブエンディア家の人々は、先祖たちの運命を繰り返すように、孤独、愛憎、暴力、奇想天外な出来事などに翻弄されていく。
  • マコンドの滅亡:百年後、ブエンディア家最後の末裔であるアウレリャノ・バビローニアは、預言のとおりマコンドの滅亡を目の当たりにする。
  • 孤独:ブエンディア家の人々は、深い孤独に直面し続ける。愛する人との死別、家族との確執、人間関係の複雑さなどが描かれる。
  • 愛と喪失:激しい恋愛、禁断の恋、不倫など、様々な形で愛と喪失が描かれる。
  • 運命と呪い:ブエンディア家の人々は、先祖たちの罪や呪縛に苦しめられる。
  • 戦争と平和:マコンド村は、内戦や革命など、様々な戦争に巻き込まれていく。
  • 文明と自然:文明の発展と自然の破壊、人間と自然の葛藤などが描かれる。
現実と幻想が交錯する魔術的リアリズムの技法が駆使されており、読者を魅了する。例えば、空飛ぶ絨毯、蘇る死者、予知能力を持つ人物など、現実離れした出来事が登場する。『百年の孤独』は人間存在の普遍的なテーマを扱い、壮大なスケールで描かれた不朽の名作である。深い感動と余韻を与えてくれる作品と言えるだろう。

百年の孤独の歴史的背景
ガブリエル・ガルシア=マルケスの小説『百年の孤独』は、架空の村マコンドを舞台に、ブエンディア家七世代にわたる100年間の物語を描いています。しかし、この作品は単なるフィクションではなく、19世紀後半から20世紀初頭にかけてのラテンアメリカの社会や政治、文化を反映した深い歴史的背景を持っている。以下、作品と関連する主な歴史的背景をいくつかご紹介したい。
  • バナナプランテーションの繁栄と衰退:19世紀後半、マコンド村はバナナプランテーションの隆盛によって繁栄を経験します。これは、当時のラテンアメリカで実際に起こった出来事であり、バナナプランテーションの経済的利益と同時に、環境破壊や労働搾取などの問題も引き起こした。
  • 内戦と独裁政権:作品には、マコンド村を巻き込む内戦や独裁政権が登場します。これは、19世紀後半から20世紀初頭にかけてラテンアメリカで実際に起こった内戦や独裁政権の影響を反映したものと考えられる。
  • カトリック教会の影響力:カトリック教会は、マコンド村の社会や文化において大きな影響力を持っている。これは、当時のラテンアメリカ社会におけるカトリック教会の影響力を反映したものと考えられる。
  • 先住民文化:マコンド村周辺に住む先住民の文化も登場する。これはラテンアメリカにおける先住民文化の存在と、先住民に対する差別や弾圧の問題を反映したものと考えられる。
マルケスはこれらの歴史的背景を巧みに作品に織り込むことで、ラテンアメリカの社会や文化の複雑性と矛盾を描き出している。『百年の孤独』は単なるエンターテイメント作品としてだけでなく、ラテンアメリカの近現代史を理解する上でも重要な作品と言えるだろう。
Ilustración
«Cien años de soledad» La edición especial 50 años (2017)
マルケスの主要作品
ガブリエル・ガルシア=マルケスは作品を通して、ラテンアメリカの社会や文化、歴史を独自の視点で描き出しました。彼の作品は、世界中の読者に深い感動を与え続けている。
  • 落葉 (1955)
  • 大佐に手紙は来ない (1961)
  • 悪い時 (1962)
  • ママ・グランデの葬儀 (1962)
  • 百年の孤独 (1967)
  • 眼を開けた青い犬 (1972)
  • 誰も上手に語れない (1974)
  • 族長の秋 (1975)
  • 予告された殺人の記録 (1981)
  • コレラの時代の愛 (1985)
  • 戒厳令下チリ潜入記 (1986)
  • 迷宮の将軍 (1989)
  • 十二の遍歴の物語 (1992)
  • 聖女 (1992)
  • 愛その他の悪霊について (1994)
  • 生きて、語り伝える (2002)
  • 思い出の娼婦たち (2004)
中でも有名な作品『百年の孤独』は架空の村マコンドを舞台に、ブエンディア家七世代にわたる100年間の物語を描いた大長編小説。魔術的リアリズムの代表作として知られ、ノーベル文学賞受賞作品でもある。マルケスの作品は、日本語に翻訳されているものも多く、日本でも多くのファンがいる。

マルケスの波乱に満ちた生涯
ガブリエル・ガルシア=マルケスは、波乱に満ちた人生の中で、数々の名作を生み出した20世紀を代表する作家の一人である。彼の作品は、世界中の読者に深い感動を与え続けている。
  • 1927年:コロンビア北部のアラカタカ町に生まれる。
  • 1936年:両親が離婚し、母親と祖母に育てられる。
  • 1940年代:地元の寄宿学校に通い、文学への情熱を育む。
  • 1947年:ボゴタ大学に入学するが、2年後にジャーナリストになるために中退。
  • 1948年:ボゴタでボゴタ暴動を経験。この経験は、後の作品に大きな影響を与える。
  • 1950年代:コロンビア各地の新聞社で記者として働く。
  • 1954年:初の短編小説集『落葉』を出版。
  • 1955年:ヨーロッパへ渡り、様々な国を旅しながら執筆活動を行う。
  • 1967年:代表作『百年の孤独』を出版。世界的なベストセラーとなり、魔術的リアリズムの旗手として名声を得る。
  • 1975年:メキシコシティに居を移す。
  • 1982年:ノーベル文学賞を受賞。
  • 1980年代以降も精力的に執筆活動を続け『コレラの時代の愛』『予告された殺人の記録』など多くの名作を生み出す。
  • 1990年代:肺がんを患うが、克服。
  • 2007年:メキシコシティにて87歳で死去。

マルケスの人生と作品についてより詳しく知りたい場合は、ジェラルド・マーティン著『ガブリエル・ガルシア=マルケス ある人生』(岩波書店)がお勧めである。2014年に長く住んでいたメキシコの自宅で亡くなったラテンアメリカ文学の巨星、ガルシア=マルケスの生涯を丁寧に辿った決定版と言ってよい評伝。著者は米国ピッツバーグ大学の名誉教授。人並み優れた記憶力と物語を作り上げる天性の才能によって苦難を乗り越えて世界的に評価される作家になるまでのサクセスストーリーが中心であるが、名声を得てからも様々な困難に遭遇した人生の歩みを徹底的に調べあげて綴っていて、ガリシア=マルケスの人となりとその作品の執筆経緯、背景を詳細に知ることができる。下記リンク先はガブリエル・ガルシア=マルケスの小説『百年の孤独』50周年記念版の挿絵を描いたチリ人のイラストレーター、ルイサ・リヴェラの作品と紹介記事(スペイン語)である。

color Luisa Rivera, la chilena que ilustró la edición 50 aniversario de «Cien Años de Soledad»

2024年7月22日

ボディが平らになったマンドリンの物語

Ivers Mandolin Orchestra 1921
Orville Gibson(1856–1918)

マンドリンがイタリアからアメリカに伝わったのは19世紀末だが、20世紀に入りマンドリンオーケストラが一世風靡する。1900年以前の典型的なマンドリンはナポリピッツァスタイルだった。現存する最古の楽器は18世紀半ばにイタリアのナポリのヴィナッチァ家によって作られた。このタイプのマンドリンは、お椀型の背面と、平らな木片を熱い火かき棒で曲げて作られた響板を持ち、ブリッジの周りにわずかなねじれの隆起を形成している。このねじれはひじょうに重要で、ナポリ人にクレジットされている弦楽器製作者の進歩を示すものだった。より高い張力の弦に耐えるのに十分なトップを強化したからだ。そして1900年頃、ミシガン州カラマーズーのオーヴィル・ギブソン(1856–1918)が新しいスタイルのマンドリンを製作した。ヴァイオリンの構造にヒントを得て、立って演奏するプレイヤーからの要望もあり、背面がクラシック・マンドリンのようにお椀型ではなく、ヴァイオリンのようにほぼ平らで緩やかなふくらみがあるフラット形状に改良されたデザインだった。彼は彫刻の施されたバック(ナポリのボウルバックよりもはるかに平らだが、形に合わせて彫刻されている)と、トップにアーチ型の彫刻が施されたマンドリンを作った。2つのスタイルのうち、彼が "A" スタイルと呼んだものは、シンプルな丸いティアドロップ型のボディと、シンプルなプレーンなペグヘッドが特長である。そして "F" と呼ばれる彼のもう一つのファンシエースタイル、それは突起したポイントとスクロールを持つファンシーなボディプロファイルを持っており、ペグヘッドも同様にファンシーな形状のものだった。これらの呼称は "Artist" と "Florentine" の頭文字だと言われているが、ギブソン社や他のメーカーによって他の様々なスタイルのマンドリンにも適用されているため、混乱を招いている。

Gibson Mandolin Style A-1
Gibson Mandolin Style A-1

1902年、オーヴィル・ギブソンがミシガン州カラマーズーに Gibson Mandolin-Guitar Mfg. Co. Ltd. を設立してマンドリン、ギター、後のバンジョーの製造で大成功を収める。なお現在は本拠地がテネシー州ナッシュビルに移っている。ギブソン社はに次のような文字表記を使用した。

  • A plain bodied mandolins
  • F scroll bodied mandolins
  • H mandolas
  • K mandocello
  • J mandobass
  • L plain style guitars
  • O fancy style guitars

これらの文字表記には、素材や装飾のレベルを示す番号が付けられていた。無装飾の無地のものには番号は付けられず、装飾が施されたものには4番までの番号が付けられた。1922年までのギブソンのマンドリンには楕円形のサウンドホールがあったが、トップエンジニアのロイド・ロアー(1886–1943)が5番がついた上位レベルの製品を開発する。F-5マンドリン、L-5ギター、H-5マンドラ、K-5マンドチェロと命名、非常に質の高い仕上がり、素材、装飾、そして F字型のサウンドホールを特長としていた。F-5はそれまでのマンドリンよりもネックが長く、高いフレットへのアクセスが容易になっています。ロアーのサインが入ったこれらの楽器は非常に貴重なコレクターアイテムとなっている。

Gibson Mandolin Style F-5
Bill Monroe (1911–1996)

1930年代に入ると、マンドリンの人気が急速に低下、マンドリンオーケストラの活動も鈍化してしまうのである。しかし意外な助け舟が出現する。ビル・モンロー(1911–1996)である。ビルはケンタッキー州ロジン近郊の家族の農場で、8人の子供の末っ子として生まれた。彼の母とその弟で、名曲 "Uncle Pen" のモデル、ペンデルトン・ヴァンダイバー(1869–1932)は、いずれも音楽の才能に恵まれており、ビルは彼の家族と一緒に演奏したり歌ったりして育つ。兄のバーチ(1901–1982)とチャーリー(1903–1975)がすでにフィドルとギターを弾いていたため、ビルはマンドリンを弾くことになった。チャーリーとともに1934年、モンロー・ブラザーズを結成、ギターとマンドリンの兄弟デュオの魁(さきがけ)となる。1945年、ビル・モンロー率いるブルーグラスボーイズにスリーフィンガー奏法を編み出したバンジョーピッカーのアール・スクラッグス(1924–2012)が加入、ブルーグラス音楽というジャンルが確立されたのである。マンドリンとバンジョーというアメリカ特有の楽器がブルーグラス音楽を特長付けているといっても過言ではないだろう。20世紀に入り、弦楽器製作は第二の黄金時代に突入したのである。映画 "Songcatcher"(歌追い人)や "O Brother, Where Art Thou?"(おー兄弟、お前は何処に?)などによって、アメリカ人のアイデンティティとしてルーツ音楽が見直されたためかもしれない。多くの独立した中小のメーカーが、マンドリンだけでなく、ギター、バンジョー、ハープ、ダルシマーなどを製作している。そしてギブソンの F-5マンドリンは100年の時空を超えて、今も燦然たる光を放っている。

PDF  ギブソン社のマンドリンのカタログ(1921年)の表示とダウンロード(PDFファイル 11.0 MB)

2024年7月20日

トランプのソーシャル・メディア・プラットフォーム「トゥルース・ソーシャル」の問題点

Truth Social
Donald Trump's social media platform Truth Social ©2024 LinkedIn

ドナルド・トランプ前大統領は、アメリカ議会議事堂襲撃事件後、フェイスブックや X(旧ツイッター)などの主要サイトから追放された後、2022年初頭にソーシャルメディア・プラットフォーム「トゥルース・ソーシャル」を立ち上げた。その後、両方のアカウントに復帰したが、かつて彼の主な発言の場であったイーロン・マスク所有のプラットフォーム旧ツイッターにはほとんど参加していない。一方、フェイスブックでは、彼の投稿は主に「一緒にアメリカを再び偉大にしよう」といったスローガンやメッセージを含む動画や画像である。トランプ・メディア・アンド・テクノロジー・グループがナスダック株式市場で取引を開始しても、状況は変わらないだろうと思われた。トゥルース・ソーシャル以前には、トランプ個人のウェブサイトに「ドナルド・J・トランプの机から」という短命のブログがあった。しかし、それは長くは続かず、トランプ陣営はすでに、元大統領がソーシャルメディア・プラットフォームを開発中であることをほのめかしていた。「トゥルース・ソーシャル」は2022年2月にリリースされた。最初は不安定だったが、Appleの最もダウンロードされた無料アプリのリストでトップに躍り出た。このプラットフォームはトランプのソーシャルメディア禁止に対する怒りを利用して幅広い視聴者を引き付けようとしたが、同じく右派のソーシャルメディアプラットフォームである Gettr や Parler と同様に、保守的な政治評論の反響室からあまり抜け出すことができていない。

Top Social Media Platforms

極右とデジタルコミュニケーションを研究するコーネル大学ブルッキングス研究所の学生 、ロクサーナ・ミュンスターは 「このアプリケーション は、トランプとその支持者たちが自分たちの意見を差別し、表現の自由を制限していると主張する主流メディアアプリに対抗するものとして宣伝されている。そのコンテンツと視聴者は圧倒的に保守的で、MAGA(極右過激派グループ)の支持層で構成されている」とは述べた。また「コンテンツ管理への取り組みが甘いため、このプラットフォームにはヘイトスピーチや過激主義があふれている」とも。運営会社はユーザー数を公表していない。規制当局への提出書類には、「設立以来、トランプ・メディア・アンド・テクノロジー・グループはユーザーあたりの平均収益、広告の表示回数や価格、月間および日間のアクティブユーザー数を含むアクティブ ユーザー アカウントなどの従来のパフォーマンス指標に頼るのではなく、機能とユーザーインターフェイスを強化することでトゥルース・ソーシャルの開発に注力してきました」と記されているという。トランプのプラットフォームのフォロワー数を調べたところ733万人で、8,700万人を誇る旧ツイッターのフォロワー数と比較すると、前者の数ははるかに少ない。しかしトランプの生の声に触れることができるこのプラットフォーム、特にマスメディア関係者はアカウントを取得すべきだろう。

New Yorker
Posts I Didn't Realize Would Get Me Banned from Truth Social ©2024 Dan Rosen

ところで2年前になるが『ニューヨーカー』誌がダン・ローゼンの風刺画とコラボレーション、作家でスタンダップコメディアンのジニー・ホーガンが「気づかなかった投稿がから禁止される原因になった」という記事を掲載している。曰く「私は、コミュニティとつながるためにソーシャルネットワークに参加したいと思っていた、法を順守し、化石燃料を愛するごく普通のアメリカ人です。トゥルース・ソーシャルの目的はソーシャルになることだと思っていましたが、なんと、私は追放されてしまいました。その後の投稿でこんなにも問題になるとは思ってもいませんでした」云々。

  • 追加接種を受ける場所について、お勧めを教えてください!
  • 今年の夏は例年よりも暑いですね。
  • ロン・デサンティスがどんなヘアケア製品を使っているか知っている人はいますか?
  • ハリケーン保険は検討する価値がありますか? 人々がどのような経験をしたのか聞いてみたいと思います。
  • 作物が枯れつつあります。これはいたずらでしょうか?もしそうなら、とても面白いですね!

トゥルース・ソーシャルは検閲をしているとして広く非難されているが、この程度の投稿に対するシステム側クレームは確かに不可解である。しかし彼女はニューヨーカー誌とマクスウィーニーズ誌に寄稿しており、コメディブログ「リトル・オールド・レディ・コメディ」の編集者でもある。彼女はマヨネーズ業界のデータサイエンティストとしてキャリアをスタートし、それ以来、テクノロジー業界の醜い部分をコメディに変えようと努めてきた。非営利団体パブリック・シチズンの2022年のレポートによると、初期のユーザーは「元大統領とその同盟者をからかったり批判したりするユーザー名を選択したり、投稿を作成したりした後に追放された」ことがわかったという。もしかするとホーガンのジョークが遠因かもしれない。ただ不思議なことにトゥルース・ソーシャルから永久追放されたというメールを受け取ったが、ログインして投稿することはできるという。彼女は「これは不具合でしょうか? このサイトは機能しているのでしょうか?」と首をかしげているようだ。余談ながら暗殺未遂事件を受け、トゥルース・ソーシャルが注目され、運営企業の株価が急騰したという。下記リンク先は同プラットフォームのアカウントを着実に取得する方法(英文)である。

SocialMedia  Step by step instructions for How to signing up account of the Truth Social Account

2024年7月18日

ヘンリー・D・ソロー『森の生活:ウォールデン』に繋がるかき氷の旗

マサチューセッツ州スパイ池の採氷風景(1852年)
真崎義博訳(宝島社)

ヘンリー・D・ソローの『森の生活:ウォールデン』は、1854年(安政元)年に刊行された。アメリカのペリーが浦賀に再び来航、横浜村で日米和親条約が調印され、日本が開国した年である。マサチューセッツ州コンコード近くのウォールデン湖畔に自ら建てた小屋に、2年余り暮らした経験を元に書かれたものである。この中に次のような記述がある。曰く「百人のアイルランド人たちが、ヤンキーの監督と一緒に、毎日ケンブリッジから氷を切り出しにやって来たのだった」云々。つまりソローは凍結した湖面の氷の切り出し作業を目撃した。天然氷を冬場に採取し保冷しておき、夏場に南方の都市部で販売するという事業だったが、これを仕切る人物の名をソローは知る。フレデリック・テューダー(1783-1864)だった。彼はコンコードのウォールデン湖の他に、ケンブリッジのフレッシュ池、アーリントンのスパイ池、エアのサンディ池、ウーバンのホーン池、ウェークフィールドのクアンナポウィット湖、アンドーバーのハゲッツ池、リンフィールドのサンタアグ湖、ストーンハムのドレフル池、ウェナムのウェナム湖など、マサチューセッツ州の湖や池で氷を採取した。テューダーの名からターシャ・テューダー(1915-2008)を連想する人は少なからずいると思う。日本でも人気が高い、絵本作家、園芸家である。なんとフレデリックはターシャの曽祖父にあたる人物であり、彼こそ明治初期に日本に天然氷を輸出したボストンの事業家だったのである。ターシャが俗界から逃れたのは、当然のことながら『森の生活:ウォールデン』を読んでいただろうし、ソローの強い影響によるものと私は想像している。

函館五稜郭龍紋氷採取の景
函館五稜郭龍紋氷採取の景」(函館市中央図書館蔵)

製氷技術がなかった時代、夏場の氷は非常に貴重なものだった。日本書紀には氷室(ひむろ)と呼ばれる施設で保存した氷を天皇に献上した記録が残され、枕草子や源氏物語には貴族が真夏に氷を口にした様子が描かれている。函館市史デジタル版によると「当初氷は横浜に居留する外国人の飲料品や食肉保存用として利用され、また後には来日した外国人医師が治療用に利用する場合もあった」という。さらに「ボストンから横浜までの長時間の航海輸送のために目減りが激しく氷の価格は非常に高価であった。それを横浜の居留地で氷販売に当たっていた外国居留商人が市場を独占して多額の利益を得ていたという。こうした状況下にあって、国内での採氷業に注目したのが三河国額田郡伊賀村(現・愛知県岡崎市)出身の実業家中川嘉兵衛(1817-1897)であった。ボストン氷が多大な利益を得てることを知り、日本各地で採氷して横浜へ運送したが、いずれも品質の面ボストンとは比べ物にならず失敗に帰した。紆余曲折を経て亀田川を水源とする好水質を持つ函館五稜郭に出会い、ボストン氷を上回る品質の函館氷を1883(明治十六)年に世に出すことができたという。函館氷とは「函館五稜郭龍紋氷」のことで、1935(昭和十)年に北島エハガキ店が発行した採氷風景の絵ハガキが残っている。

大阪の氷室会社の函館五稜郭氷ちらし(早稲田大学図書館蔵
波千鳥の氷旗

これは関西各地に支社を持っていた大阪の氷室会社「竹水亭」の宣伝ちらしである。明治時代、冬季以外に氷を得るには、天然氷を氷室に保存しておくしかなく、夏の氷は大変貴重なものだった。だからこのような「氷室ビジネス」が全国で成立したのだろう。山鉾巡行が繰り広げられ昨日は暑かったけど、今日も真夏日で、昼過ぎに 35℃を超えそうである。猛暑にはかき氷が欲しくなる。先日鹿苑寺(金閣寺)門前の甘味処で見た氷旗は、何か足りないと思ったが、波だけで千鳥がないことに気付いた。右の写真のように千鳥があるのが正式の氷旗であるが、気のせいか千鳥を省略した旗が増えたような気がする。波に千鳥の組み合わせは伝統的な日本のデザインなのだが、千鳥の省略は氷旗の由来を無視したものだと思う。氷の産地表示、あるいはに使われた「官許氷函館」という旗が原型らしいのだが、画像を見つけることができなかった。その代わりに函館市史デジタル版には函館氷の広告が載っているが、現在の氷旗の書体とデザインとは全く別のものである。いずれにしても現在の氷旗は全国どこでも共通、かき氷を商ってることがすぐに分かる、優れたデザインであることは紛れもない。下記リンク先はボストン大学のサイトに掲載されている論文「ニューイングランドの氷貿易の歴史」である。

university  Tracing the History of New England's Ice Trade by Amy Laskowski | Boston University

2024年7月17日

J・D・ヴァンスを副大統領候補に指名したドナルド・トランプ

 J.D. Vance and his wife, Usha
Ohio Republican Senate candidate J.D. Vance and his wife, Usha, at a campaign event, 2022.

11月のアメリカ大統領選で4年ぶりの政権奪還を狙う共和党の大会が15日、中西部ウィスコンシン州ミルウォーキーで開幕し、トランプ前大統領(78)を党候補に正式指名した。トランプは副大統領候補に J・D・ヴァンス上院議員(39)を選んだと発表した。トランプは最終日の18日に指名受諾演説に臨む。ヴァンスはトランプが掲げる米国第一主義の旗振り役。四つの事件で起訴されたトランプを一貫して擁護していることでも知られ、忠誠心を重視した起用となった。大会には各州の代議員や一般党員ら多数が参加、不法移民対策で国境封鎖や強制送還を盛り込んだ綱領も採択した。製造業が衰退した「ラストベルト」のひとつである同州の貧困に苦しむ白人労働者層の姿を描いたヴァンスの回想録「ヒルビリー・エレジー」がベストセラーとなっている。トランプは最終日の18日に指名受諾演説に臨む。これに先立ち、トランプは自らの言論プラットフォーム「トゥルース・ソーシャル」に次のような一文をポストしている。

長い審議と考察、そして他の多くの素晴らしい才能を考慮した上で、私は米国副大統領の地位に最もふさわしい人物はオハイオ州の J.D. ヴァンス上院議員であると判断しました。J.D. は海兵隊で国に名誉ある奉仕をし、オハイオ州立大学を 2 年間で首席で卒業し、イェール大学ロースクールを卒業し、イェール大学ロージャーナルの編集者、イェール大学ロー退役軍人協会の会長を務めました。J.D. の著書「ヒルビリー・エレジー」は、我が国の勤勉な男女を擁護し、ベストセラーとなり映画化されました。J.D. はテクノロジーと金融の分野で非常に成功したビジネスキャリアを積んできましたが、今、選挙期間中は、彼が見事に戦った人々、つまりペンシルベニア、ミシガン、ウィスコンシン、オハイオ、ミネソタ、そしてさらに遠く離れた地域のアメリカの労働者と農民に重点を置くことになります…。
Donald Trump gesturing

トランプは過去に自身を批判していたヴァンスに懸念を持っていた。しかしニュースパブリッシャーの「アクシオス」によると、保守系評論家のタッカー・カールソンもヴァンスを推薦。イーロン・マスクがトランプに14日に電話してヴァンスの起用を促した。トランプ側がヴァンスに起用を伝えたのは、15日に発表される数十分前だったという。ドナルド・トランプ前大統領は右耳に包帯を巻いた姿で共和党全国大会の初日の夜に意気揚々と登場した。これはすでに劇な展開が続いている大統領選挙戦に新たな注目を集める場面となった。トランプが舞台裏のスクリーンに現れ、ミュージシャンのリー・グリーンウッドが "God Bless the USA" を歌う中、明らかに感極まった様子でアリーナに現れると、共和党の代議員らは大歓声をあげた。

Donald Trump selects J.D. Vance as his running mate
Donald Trump with J.D. Vance as his running mate at the Republican National Convention, July 15.

11月の大統領選でジョー・バイデン大統領と対決する共和党の候補者として、同元大統領が党大会で正式に指名されてから数時間後のことだった。 シークレットサービスのエージェントたちに囲まれたトランプは、木曜日に予定されていた受諾演説のため、会場で演説はしなかったが、グリーンウッド氏が歌う間、静かに微笑み、時折手を振った。トランプ氏は最終的に、新たに副大統領候補に指名されたオハイオ州上院議員の J・D・ヴァンスとともに、その夜の残りの演説を聴いたが、臆面もないショーマンらしくなく、しばしば抑えた表情と控えめな反応を見せたという。暗殺未遂事件の相乗効果もさることながら、ヴァンスを副大統領候補に指名した影響は大きい。ウクライナ支援に批判的で、全国的な人工妊娠中絶禁止が必要だと述べたヴァンスが、アメリカの副大統領に就任することを心配する声が多いからだ。民主党はジョー・バイデンが戦線離脱、後任候補として名前が挙がっている、カマラ・ハリス副大統領を押し上げても果たして太刀打ちできるだろうか。民主党勝算の見込みはかなり遠のいたかもしれない。大統領選の動向に目が離せない。

RepublicanParty  J.D. Vance (born James Donald Bowman; August 2, 1984) About | Services | Media

2024年7月16日

トリック写真のトリックを見破る

Brownie McGhee and Lesley Riddle

写真はブローニー・マクギー(1915–1996)とレスリー・リドル(1905–1979)が、テネシー州キンクズポートに住んでいたころというから、1920年代後半に撮影されたと想像される。音楽愛好家なら左の写真を見て奇妙な点に気づくはずだ。マクギーのギターの第1弦(音程が高い方のE線)が上だし、リドルのマンドリンのピックガードも上についている。つまりふたりは左利き用の楽器を弾いているかのように見える。左利きなのに右利き用のギターをそのまま弾いた、エリザベス・コットン(1893–1987)のような稀有な例もあるが、ふたりとも右利きだし、わざわざ左利き用の楽器というのは解せない。リドルは若い頃、セメント工場のオーガーにつまずいて右足を失ってしまった。そして継父と口論中、散弾銃が暴発して右手の指2本を失ってしまう。火災で大やけどを負い、右足が麻痺し、左手の薬指と小指には障害が残った、ジャンゴ・ラインハルト(1910–1953)が負ったハンディキャップを彷彿とさせる。手足に損傷があっても、ギターを人並み以上に演奏できたのは極めて素晴らしいことである。リドルの写真を仔細に観察すると、右手のはずが左手の指が欠けている。これはおかしい、もしかしたら裏焼きじゃないかと思い、左右反転したのが右の写真である。楽器はスタンダードな右利き用で、裏焼きすることを想定、右手で弦を押さえ、左手でピッキングしているフリをして撮影した演出写真である。これがオリジナル写真だったのである。テネシー州ブリストルにある「カントリー音楽発祥の地博物館」の記事にも使われているし、左のトリック写真が一般的に流布しているようだ。カラクリを知っていても、オリジナル写真だと、ふたりが左利きと勘違いされるからだろう。それにしても誰がこのような、手の込んだややこしいアイデアを思い付いたのだろうか。

Mountain  Kingsport's Lesley Riddle Featured in Ken Burns' Country Music Series | Visit Kingsport

2024年7月15日

ゴッホはアトリエで左耳を切り落としトランプは選挙集会で耳を撃たれた

cartoon

このイラストはオランダのアムステルダムを本拠地にした、風刺漫画とコミック・ジャーナリズムのグローバル・プラットフォーム Cartoon Movement にマールテン・ヴォルテリンク氏が投稿した作品である。フィンセント・ファン・ゴッホが自分の耳を切断した1889年に描いた自画像を元に、ペンシルベニア州での選挙集会の演説中に銃撃されたロナルド・トランプ前大統領の肖像画を捻り出している。この事件に関する作品は多数寄せられているが、この風刺画が印象に残った。銃弾が耳に当たったが、数センチずれていれば前大統領は命を落としていたかもしれない。アメリカの NBC ニュースによると衝撃的な事件から翌日、国中を覆っている政治的二極化が深刻化しすぎたのではないかと国民は疑問を抱いているという。40年以上前、ワシントンのホテルを出る際にロナルド・レーガン元大統領が危うく殺されそうになって以来、初めてアメリカの大統領が銃撃された事件に、あらゆる政治的立場の指導者たちが衝撃と恐怖を表明する中、国中や世界中から哀悼の意や激しい非難の声を静めるよう求める声が殺到した。ジョー・バイデン大統領は日曜夜、大統領執務室でゴールデンタイムの演説を行い、アメリカ国民に「政治の温度を下げる」よう求めた。「意見は異なるかもしれないが、我々は敵ではない」と前任者暗殺未遂事件を非難する約6分間の演説で述べた。曰く「我々は隣人であり、友人であり、同僚であり、国民であり、そして何よりも我々は同じアメリカ国民だ。我々は団結しなければならない」云々。暴力はさらなる暴力を生む傾向があり、専門家らは今回の銃撃事件が、双方にとって存亡の危機とみなされる大統領選に向けた緊張を和らげるどころか、激化させるのではないかと懸念しているという。

Donald Trumpat a campaign rally
Donald Trump at a campaign rally, July 13, 2024, Butler, Pennsylvania (AP)

国内および国際テロを研究する外交問題評議会の研究員ジェイコブ・ウェアは「これは歴史上非常に暗い瞬間であり、残念ながら、今回の選挙シーズンで政治的暴力が終わる可能性は非常に低い」と、述べた。「低レベルの自警団による暴力から、より注目を集める暗殺未遂まで、さまざまなシナリオが今後数ヶ月の特徴となるだろう」と。暴力が政治的な対立を解決する正当な手段とみなされてしまうと「その展開をどう逆転させるかを知るのは難しい」とウェアは付け加えた。近年、暴力的なレトリックは政治キャンペーンでより一般的になっており、抗議者、反対派、警察の間で暴力的な衝突が起こることも時々ある。しかし、暗殺はここ数十年、アメリカの政治では見られていない。土曜夜に退院したが、重傷を負った観客ふたりは入院したままとなっている。観客ひとりは死亡した。ペンシルベニア州警察によると、負傷した集会参加者ふたりの容態は安定している。「この瞬間、私たちが団結し、アメリカ人としての真の性格を示し、強く、断固たる姿勢を保ち、悪に勝たせないことがこれまで以上に重要だ」とトランプ前統領は日曜朝、自らのプラットフォーム「トゥルース・ソーシャル」にポストした。日本の一部メディアは「これでトランプが大統領選で有利になった」と報じているが、いささか甘い分析と言えそうだ。同情票が集まるのは確かだが、長期にわたる選挙戦、遊説に支障をきたす可能性が出てきたからだ。アメリカの巨大資本のなかで最大の影響力を有するのが軍事資本であるが、トランプは大統領時代に軍事緊張を低下させることに尽力した。このことが依然としてトランプの命の危険を生み出している。

Associated Press  ドナルド・トランプを暗殺しようとした男の動機がつかめないまま当局が手がかりを追う(英文)

2024年7月14日

人々のドラマが宿る都市のカラー写真を制作したコンスタンティン・マノス

Miami Beach
Miami Beach, Florida, 1981
Constantine Manos

コンスタンティン・マノスは、ボストンとギリシャの写真、そして人々のカラー写真 で知られるギリシャ系アメリカ人の写真家である。1934年、サウスカロライナ州コロンビアでギリシャ移民の両親のもとに生まれた。写真を撮り始めたのは、高校時代に学校のカメラクラブに入部した時でした。数年のうちに、彼はプロの写真家として働くようになりました。19歳のとき、マノスはタングルウッドのボストン交響楽団の公式カメラマンとして雇われた。1961年にボストン交響楽団のドキュメンタリーである最初の作品 "Portrait of a Symphony"(シンフォニーの肖像)として出版され、この本はアルルとライプツィヒブックフェアで賞を受賞し、パリのフランス国立図書館とシカゴ美術館で作品展が開催された。19歳のとき、タングルウッドで行われたボストン交響楽団のサマーフェスティバルの公式カメラマンに採用された。サウスカロライナ大学を卒業し、英文学の学士号を取得する。兵役を終えるとニューヨークに移り『エスクァイア』『ライフ』『ルック』の各誌の仕事をした。1961年から1963年までギリシャに住み、 1972年に初めて出版された "A Greek Portfolio"(ギリシャのポートフォリオ)の写真を撮影する。

Boston Symphony Orchestra
Boston Symphony Orchestra, Massachusetts, 1958

1963年、マノスは写真家集団マグナム・フォトに入会し、1965年に正会員となった。ギリシャから戻ったマノスはボストンに定住し、タイムライフ社のアテネ特集など多くの仕事をこなした。1974年、彼はプロジェクト「ボストンは何処?」の主任写真家となった。ギリシャで過ごした後、マノスはボストンに住んだ。1974年、彼はボストン市に雇われ、ボストン市制200周年を記念した大規模な展覧会 "Bostonians: Where's Boston?"(ボストン人:ボストンは何処?)の写真を制作、これはマルチメディア作品だった。

Dallas
Dallas, Texas, 1985

マノスの写真は、ニューヨーク近代美術館、ボストン美術館、シカゴ美術館、パリのフランス国立図書館、ニューヨーク州ロチェスターのジョージ・イーストマン・ハウス、ヒューストン美術館、アテネのベナキ美術館に永久所蔵されている。マノスは当初、モノクロ写真、特にギリシャとアメリカの感動的な写真で名を馳せた。しかし彼はキャリアの後半にカラー写真に大きく移行した。この変更の主な理由は、新しいインスピレーションと新鮮な視点を求めることだった。

Daytona Beach
Daytona Beach, Florida, 1999

カラーがアメリカの風景とそこに住む人々を探索し、捉える新しい方法を提供すると感じ、自分のイメージにもたらす活気と強さに惹かれたからである。マノスのアメリカ人の写真を収録したカラー作品は、1995年に出版された写真集 "American Color"(アメリカの色)に初めて掲載され、その作品が2010年に出版された "American Color 2"(アメリカの色 2)に引き継がれた。"A Greek Portfolio"(ギリシャのポートフォリオ)の新版は1999年に出版され、ライカ優秀賞を受賞、アテネのベナキ美術館で展覧会が開催された。

Miami Beach
Miami Beach. Florida, 2003

2013年には、この本の写真の制作50周年を記念した展覧会がベナキ美術館で開催され、未発表の写真80点が展示された。「ある場面における人々の流れ、互いの関係や環境との関係の変化、絶えず変化する表情や動き、これらすべてが組み合わさってダイナミックな状況が生まれ、写真家はシャッターを押すタイミングを無限に選択できるようになります」というのがコンスタンティン・マノスの信条である。

Magnum Photos  Constantine Manos (born 1934) | Biography | Selected Works | Most Recent | Magnum

2024年7月13日

著名人からから小さな町の人々まで撮影してきた写真家マイケル・オブライエン

Tom Waits
Tom Waits, Northern California, 2006
Michael O'Brien

マイケル・オブライエンは1950年6月27日、テネシー州メンフィスで生まれた。高校生の時、友人のクリス・ベルと共に祖母の地下室に暗室を作り、ビッグ・スターというバンドを撮影し始めた。バンドに入るには「音楽の才能が足りなかった」ため、代わりにカメラを手に取ったと述べている。1968年にメンフィス大学を卒業し、その後テネシー州ノックスビルのテネシー大学に進学した。大学では哲学の学位を取得し、学生新聞のカメラマンとなり、掲載された写真1枚につき4ドルを稼いだ。そのお金と時折のフリーランスの仕事で、学費を稼いだ。転機となったのは『ナッシュビル・テネシアン』紙の専属カメラマン、ジャック・コーンと出会い、アパラチア地方の炭鉱コミュニティに関する彼のドキュメンタリー写真シリーズを見た時だった。1972年に卒業するまでに、オブライエンはかなりの量のモノクロ写真を撮影していた。1973年に『マイアミ・ニュース』紙はオブライエン専属カメラマンとして雇った。彼は二重殺人などの凶悪犯罪現場から、新聞の「今月の料理人」特集のポートレートまで、あらゆるものを取材した。 1日に3つの仕事があり「記事をさまざまな方法で伝える」ことが課題だった。1974年8月9日、リチャード・ニクソンの辞任演説の夜、同紙は全スタッフのカメラマンを派遣した。オブライエンはコーラル・ゲーブルズの労働者階級のバー「ダフィーズ」に派遣された。「そこは暗いバーだったが、私はストロボをセットし、ニコンとトライXフィルムを使った。演説中、ニクソンが辞任するとバーにいた3人の男性が背を向けているのが見えた。彼らの無関心は、国の雰囲気を要約していた」と述懐している。

Dolly Parton & Mother
Dolly Parton & Mother Avie Lee Parton, Sevierville, TN, 1986

マイアミ・ニュースは翌日、この写真を一面記事に使用した。1975年、オブライエンはホームレスに関するドキュメンタリーを制作した。高架下で野宿している男性を見かけ、車を止めて57歳のジョン・マッデンと会った。2人は友情を育み、マッデンの許可を得て6か月間彼を追跡し、写真を撮り続けた。食品売り場の列に並んでいる様子、友人と飲んでいる様子、公共の場所で寝ている様子、刑務所に入れられる様子を記録した。この「ホームレスの鮮明で共感的な記録」はロバート・F・ケネディ・ジャーナリズム賞を受賞した。 オブライエンはマイアミ・ニュースでの6年間を「私のキャリアの中で最も好きな時期」と表現している。1979年、ニューヨークに移り、フリーランスの写真家としてのキャリアをスタートさせた。1980年に『ライフ』誌はニューヨーク病院の火傷センターで看護師シャーロット・シーハンが行った英雄的な努力を捉えた10ページのモノクロ写真エッセイを掲載した。翌年、同誌は「精神病院を空にする:精神病患者は都市の失われた魂になった」という記事で、ノーサンプトン州立病院での精神病患者の施設外化に関するオブライエンの写真を特集した。

Destiny's Child
R&B vocal group Destiny's Child

また『ナショナル・ジオグラフィック』誌の特集記事のために、炭鉱、オーストラリア人のポートレート、リバー・オークス、野鳥観察などの写真を撮影した。 1985年『ライフ』 誌はウィリー・ネルソンの撮影のため、テキサス州オースティンにオブライエン派遣した。1989年にテキサスに戻り『ナショナル・ジオグラフィック』誌の表紙記事としてオースティンを撮影した。スミソニアン博物館は、 1989年のウィリー・ネルソンのポートレートをナショナル・ポートレート・ギャラリー用に購入した。同ギャラリーの「アメリカン・クール」展の共同キュレーターであるジョエル・ダイナースタインは、オブライエンのウィリー・ネルソンのポートレートの象徴的な性質について「ネルソンがアメリカの風景の一部であるかのように色彩豊かに描かれています。とても記念すべきもので、切手にもなり得ます」とコメントしている。オブライエンはポートレート写真で最も高く評価されている。もともと1989年9月11日のフォーチュンの記事のために撮影されたドナルド・トランプの写真は、後にトランプの2冊目の本『トランプ:トップで生き残る』の表紙に使用された。

Willie Nelson
Willie Nelson, Spicewood, Texas, 1999

オブライエンの写真は2011年にロンドンのナショナル・ポートレート・ギャラリーに寄贈されたが、その後トランプが第45代アメリカ合衆国大統領に選出された後に展示された。オブライエンはテキサスに惹かれ、1993年に移住した。10年後、彼は初の肖像画集『テキサスの顔』(2003年)を出版した。この本は、元『ライフ』誌記者のエリザベス・オーウェン・オブライエン(オブライエンの配偶者)との共同作業で、オブライエンは各人物の短い伝記的なストーリーを書いた。『テキサスの顔』では、ウィリー・ネルソンやジョージ・W・ブッシュなど全国的に知られる人物と、1989年のゲーターフェストでアナワクの女王となったシャノン・ペリーなどあまり知られていないテキサス人を並べて取り上げている。2014年10月『テキサスの顔』第2版には、23の新しいポートレートと追加のストーリーが収録され、テキサス大学出版局から出版された。オブライエンの2冊目の本 "Hard Ground"(硬い地面)は、ホームレスの人々の白黒ポートレート集で、シンガーソングライターで共著者のトム・ウェイツの詩が添えられている。

Glitter & Doom
CD album Glitter & Doom Live by Tom Waits, 2009

オブライエンは、トム・ウェイツの2009年のアルバム "Glitter and Doom Live"(グリッター・アンド・ドゥーム・ライヴ)のカバーを撮影した。このプロジェクトは、オブライエンがテキサス州オースティンを拠点とする路上奉仕団体「モバイル・ローブス・アンド・フィッシュ」のサービスを利用してホームレスの人々を撮影し始めた2006年に始まった。そこからオースティンの路上で暮らす人々の写真を何百枚も撮影したのである。オブライエンはこのプロジェクトを、自身のキャリアの初期段階に立ち戻るものだと表現した。「これは1975年に始めたのと同じ問題です」「私は通り過ぎる人々をリアルに見せています。私はただ彼らに私とカメラを結びつけてもらうように努めるだけです」と彼は語っている。マイケル・オブライエンの写真プリントは、テキサス大学オースティン校のハリー・ランサム人文科学研究センター、バーミンガム美術館、ニューヨーク市の国際写真センター、テネシー州立博物館、テキサス州立大学の南西部およびメキシコ写真のウィットリフ・コレクションに永久所蔵されている。ウィリー・ネルソンのポートレートは、ナショナル・ポートレート・ギャラリーで開催された展覧会「アメリカン・クール」(2014年2月7日~9月7日) に展示された。

camera  Michael O'Brien | Portraits | Documentary | Family | Other Work | News and Events

2024年7月12日

祇園祭長刀鉾天王人形の謎

上掲左は竹原春朝斎『都名所図会』1780(安栄9)年、右は二代目歌川広重『諸国名所百景』1859(安政6)年に描かれた祇園祭長刀鉾巡行である。竹原春朝斎の絵は比較のため右半分を省いたが、左上に「鉾に乗る人の競ひも都哉」という榎本其角の句が見える。二代目歌川広重の絵はおよそ80年後に描かれたのだが、大胆な構図になっている。仔細に観察すると、両者には共通点がたくさんある。町家一階の格子、提灯、二階から鉾を見守る人々、いずれも非常によく似ている。記録によれば、巡行は現在と違い四条通から寺町通を南下している。背景に鴨川が描かれているが、寺町通から離れているし、このアングルで本当に見えたか怪しい。漠然と疑いを持つようになったのはこの点からだった。私は浮世絵あるいは錦絵の研究家でないし、この二つの絵を比較検討した文献が存在するのか不明だが、二代目歌川広重は、竹原春朝斎の絵を模倣した可能性がある。つまり都名所図会は、当時、それほどポピュラーだったと言えるのではないだろうか。

長刀鉾天王人形(和泉小次郎親衡像)の部分拡大図

さらに注目すべきは、鉾頭の下にある天王台の人形である。これは鉾の守護神、和泉小次郎親衡(ちかひら)像である。小舟を操り、三条小鍛冶宗近作の大長刀を振るい、山河を縦横無尽に駆け巡ったといわれる、強力無双の源氏の武将である。小屋根の下に結いつけられているが、舟も真木に括られている。現在この人形は僅か23センチの木彫り、路上からは双眼鏡あるいは野鳥観察用望遠鏡などを使わないと観察できない。竹原春朝斎は鉾建て前にスケッチしたのだろうか。二代目歌川広重の絵は若干描き込んでいるものの、これまた両者は酷似している。ただ小屋根や台座はそっくりだが、長刀の刃の向きの上下が逆なのが気になる。武道に関しては不案内だが、太刀や長刀は突くか、振り下ろす武器だから、後者の構え方のほうが自然ではないだろうか。とすれば、気になる部分を修正したのではないか、というのが私の推論である。10日に鉾建てが行われた。何年か前に見物したが、天王人形の写真を撮ることができなかった。最後に取り付けるのだが、作業の邪魔になるので近づけなかったからである。

松本元『祇園祭細見』より

天王人形は1986(昭和61)年に作り直された。京都新聞2009年7月12日の記事によると、人形を制作した有職御人形司十二世の伊東久重氏は、その祖父が新調した人形を参考に復原制作したという。祖先である桝屋庄五郎が1726(享保11)年に作ったものが元になっているという。侍烏帽子(えぼし)に直垂姿で、右手に大長刀を持ち、左肩に小舟を担いだ勇壮な姿をしてると語っているが、伊東久重氏の長男、建一氏が写真をウェブサイト「伊東建一御所人形の世界」に掲載している。これを見ると1977(昭和52)年に発刊された松本元『祇園祭細見』のさし絵の通りである。確かに肩に小舟を担いでいるが、都名所図会とは大きく異なる。実際に古い人形を手にし、復原した伊東氏の証言が間違いとは言い難い。桝屋庄五郎作の人形が意匠変更されず、そっくり継承されたのなら、竹原春朝斎や二代目歌川広重が描いた絵が間違いとなってしまう。新聞を読んだ当時、この点が気になって、天王人形を制作した伊東久重氏に直接電話でお訊ねしたことがある。「1726(享保11)年に作られた人形の傷みが酷く1954(昭和29)年に祖父が制作し直した。1985(昭和60)年の鉾建ての際に損傷、翌年に作り直すことになった。人形の目や口の筆跡がはっきり残り、装束も崩れていなかったので、これを参考に復原した」そうである。するとやはり竹原春朝斎や二代目歌川広重が描写した天王人形の絵は正確なものではないということになるのだろうか。いや、違う。実際に見た竹原春朝斎がわざと違う像を捏造したとは考え難い。遥かなる時間の波に漂い、歴史が混沌と化してしまったようだ。

祇園提灯  祇園祭長刀鉾「和泉小次郎親衡」の話 | 伊東庄五郎 御所人形の世界 | 有職御人形司 伊東久重家