2018年6月9日

人間の欲求に自然を従わせようとする愚行

サヴァンナの遊牧民 (コートジボワール)1976年

インターネット通販サイト Amazon 日本法人ができてから、私の書籍、音楽レコードの入手方法が大きく変わってしまった。特に洋書のたぐいは、高価だったり店頭になかったりして、これまであきらめていたものまで簡単に購入できるようになった。音楽レコードもそうで、この数年、街の店に入ったことがない。本当は一般書店やレコード店で消費したほうが良いのだろうけど、アマゾンの利便性に負けてしまう。買うばかりではない、必要ない書籍やCDなどの売却処分も、Amazon のマーケットプレイスを利用するようになった。

中央公論新社 (1976/01)
まだインターネットが普及する前、スペースをとるので持て余した文学全集を古書店に持ち込んだことがある。ところが驚くべき査定の低さに落胆したことを今でも思い出す。考えてみればいつ売れるかわからない書籍、引き取り価格が二束三文であることは仕方ないかもしれない。ふと思い出し川田順造著『曠野から』を検索したら、マーケットプレイスで見つかった。川田順造はフランスの文化人類学者クロード・レヴィ=ストロースの『悲しき熱帯』(中央公論社)の翻訳者としても知られている。レヴィ=ストロースの『構造人類学』(みすず書房)は専門的過ぎて根を上げてしまったが、『悲しき熱帯』はエッセーゆえ、読みやすく親しみを持てる著書である。「私は旅や探検家が嫌いだ。それなのに、いま私はこうして自分の探検旅行のことを語ろうとしている」というその書き出しが私は好きである。文化人類学に対して門外漢である私がすんなり読めたのは、翻訳の妙があったこともある。それもそのはずで、川田順造は『曠野から』で日本エッセイシスト賞、『聲』で藤村記念歴程賞、『口頭伝承論』で毎日出版文化賞を受賞している人である。実は『悲しき熱帯』も『曠野から』も、実に優れた文学作品の趣がある。著者あとがきによると文化人類学のフィールドワークのため、西アフリカに暮らしている間に綴ったもので、主としてオート・ヴォルタが舞台となっている。私が最初に読んだのは筑摩書房から初版が出た1973年ごろだったと記憶している。
このサヴァンナに生きる人々の生活は、荒々しい自然に対して人間がきわめて受動的にしか生きないとき、人間がひきずらなくてはならない悲惨を私にみせつける。だが、自然に対して人間がいどみ、人間のもつある種の欲求に自然を従わせようとする努力を、しゃにむにつづけたとすれば、そのゆきつく先は、世界の一部にわれわれがすでにみているように、一生土をふまず、合金の檻の中で無精卵を産み続ける鶏や、植物の実としての機能を奪われた種子なしの西瓜を作り、大気や海を汚し、性行為を生殖から切り離し、間もなく死ぬことが分かっている病人の心臓の鼓動が止まらずにいる時間を引き伸ばして、最期に言いたいことも言えなくしてしまう医学を生み出すことになるだろう。
と今日を予言している。この本が出版されたちょうど同じころ、私はセネガル、ガンビア、コートジボワールの西アフリカ3国を旅行した。都市部ではすでに近代的なビルが立ち並んでいたが、農村部にはまだ「野生」が残っていた。40年余りという年月で激変した世界を嘆息しながら、再び一気にこの書を読み下してしまった。 上掲コートジボワールの写真は、Kodak Photo CD から、フリーウェアの画像ビューワー IrfanView でなんとか抽出した。世界的に有名なソフトで Windows 10 に対応している。Photoshop は古い CS3 までしか読み込むことができないようだ。この辺りにも時の流れを痛感する。

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