邦楽や日本民謡はディープな伝統を持つが、大多数の日本人には無縁な世界ではないだろうか。1970年暮れに来日したマイク・シーガーの公演を収録したLP(キングレコード SKK662)に針を落とし、小室等のライナーノーツを再読した。マイクの兄、ピート・シーガーの二度目の来日の時、彼を囲む会合に出席したが、次のような発言があったという。
これは認識不足だと小室は指摘している。つまり日本の若者が受け継ぐことができる民謡をいまだに持っていると、ピート・シーガーが思い込んでいる。ふと気が付いたときにはどっぷりと西洋音楽というものにつかっていた、ということを彼は知らないのではないだろうか、と。この認識の差は興味深い。シーガー兄弟は音楽家であるとともに、民謡蒐集家、つまり民俗学者でもあった。私も若いころ、携帯録音機を買って民謡蒐集をしようかと思ったことがある。しかし日本民謡の知識がゼロであるという現実に愕然、叶わぬ夢と諦めた。小室は日本のフォークソングの魁であり、1970年代から現在に至るまで牽引してきた。そのベースはアメリカのフォークソングであり、日本のフォークシンガーの共通点でもある。彼らの多くが自分たちの音楽のルーツについて、一度や二度、思い悩んだことがあるのではと想像する。その点を突き詰めれば、結局、ピート・シーガーの指摘に頷かざるを得ないだろう。沖縄民謡というルーツを持つ喜納昌吉などは例外で、その大多数は帰るべき民謡の基盤を持っていない。これはやはりちょっぴり悲しい現実である。ただ日本のフォークソングには日本語という大いなる武器があり、それが救いで、私は言葉に惹かれて聴くことが多い。それは記憶はさだかではないが「寒い野良仕事から帰った男が熱いスープいっぱいと引きかえに自分の財産である土地譲り渡してしまう」という聖書から物語を例えにひいて、日本の若い人達が、琴や三味線をはじめとした素晴らしい楽器や日本民謡があるのに、その宝物であるところの日本のものには目もくれず、なぜ眼の前のスープごとき外国音楽の物真似ばかりをしようとするのか、という内容であった。
キングレコード SKK662(1971年)