2015年8月4日

唖蝉坊を歌う

新馬鹿の歌
添田知道『演歌の明治大正史』(岩波新書)

高田渡さんと私(読売ホール1977年1月13日)
思うところがあって添田唖蝉坊の演歌を歌いたくなり、ヴァイオリンを取り出し、触ってみたところ、まるで指が動かない。もう何年も弾いていないから仕方ない。私が演歌をちょっと齧ったのはずいぶん昔のことで、確か1970~71年ごろだったと記憶している。京都市の北、北山杉で知られる周街道をさかのぼると京北町がある。常照皇寺の九重桜と言えば分かる人が多いかもしれない。その京北町に「山国青年の家」というのがあり、フォークキャンプがあった。
添田啞蟬坊(明治36年ごろ)
私は飛び入りだったが、ヴァイオリンの弾き語りで添田唖蝉坊の演歌を歌ったのである。これを縁に、大阪で開催された高田渡さんのコンサートにゲストとして招かれたのである。当時、渡さんは唖蝉坊の歌を、アメリカの伝承メロディに載せて歌っていた。いわばそのオリジナルを模した演奏を私がしたので、客席から喝采を受けたことを、恥ずかしながら思い出す。1972年に東京に転居した。確かその年の暮れだったと思うが、浅草で「啞蟬坊生誕百年祭」があり、図々しくもヴァイオリンを手に押しかけ、遊郭の女性を描いた啞蟬坊の「思ひ草」を歌ったのである。会場は奇しくも東京浅草組合の花街の検番で、芸者さんが「むらさき節」を歌ってくれたのが懐かしく記憶に残っている。そこで唖蝉坊の子息、『演歌の明治大正史』(岩波新書)の著者、作家の添田知道さんと知り合った。余談ながら知道さんによると、ヴァイオリンは上手だったけど、啞蟬坊は街頭その他では無伴奏で歌ったそうである。大阪の縁で高田渡さんとの交遊も始まり、コンサートにゲストとして呼ばれたりした。その高田渡さんはもうこの世にいない。コンサートとまでは欲張らない、音楽を生業にしているわけでなないので、練習して、機会があれば何処かフォークソング居酒屋などで座興で歌ってみたいと思っている。

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