2014年1月29日

細川家の菩提寺でガラシャ夫人に思いを馳せる

松向軒  高桐院(京都市北区紫野大徳寺町)

細川石(京都市西京区の地蔵院)
脱原発を争点に東京都知事選に出馬を決めた細川護煕(もりひろ)元首相について、甘利明経済再生相が「殿、ご乱心」と話したという。ご乱心とは思わないが、殿、という表現は頷ける。細川家の系図を見ると、護熙氏は近衛文麿の孫であるため藤原氏の血を引く人物である。また戦国大名、細川忠興とその妻である細川ガラシャの子孫でもある。肥後熊本藩主だった肥後細川家の第18代当主、まさに殿様なのである。洛西の通称竹の寺、地蔵院(京都市西京区山田北ノ町)は細川家ゆかりの寺院だが、ここにある「細川石」について最近ソーシャルメディアFacebookに次のような一文を投稿した。
竹の道が本堂まで続いている。一休禅師が幼少期を過ごしたというこの寺は、今では竹の寺として知られている。開け放たれた入り口から薄暗い内陣奥に目を凝らすと、本尊の延命安産地蔵菩薩像を、かろうじてうかがうことができた。堂の横の苔むした庭にも20体近い石仏が並んでいる。境内の左手奥に進むと、大きな自然石がふたつ見えた。それぞれに一対の竹筒があり、花が生けられている。何も刻まれていない。裏に回ってみたが、やはり何も書かれていない。案内の木札に「細川頼之、宗鏡禅師」とあり、やっとこれが細川石と呼ばれる墓石であることがわかった。室町幕府の基礎を築いた政治家と、そして禅の師の墓だが、その簡素ぶりは見事というほかはない。竹林から一条の光が差し、墓石と花を浮かび上がらせた。
細川忠興とガラシャ夫人の墓石
ふと思いついて細川家のもうひとつのゆかりの寺院、大徳寺塔頭高桐院に出かけた。紅葉の名所だが、ものみな色を失ったこの季節に訪れるのは初めてである。武人にして茶人、細川幽斎の長子、忠興の霊がここに祀られている。拝観受付で訊いたところ、護煕氏もよくみえるという。本堂西側の縁側に庭を散策するためのスリッパが入った箱があった。庭に降りると一角に忠興の墓所があった。春日灯篭の墓石はガラシャ夫人のものでもある。三浦綾子は小説『細川ガラシャ夫人』で次のように描写している。
「奥方さま、では、お覚悟を。直ちにわれらこれより御供申しあげまする。しかしながら、このお傍に果てるのは余りにも恐れ多きこと故、われらは玄関にて御供させて頂きまする」「自害は許しませぬ。天主のみもとに行くのは、わたくし一人にとどめますように。では、早う、少斎どの。頼みまする」「奥方ごめん!」 真紅の血がさっと飛び散り、玉子の上体がぐらりと前に傾いたかと思うと、そのまま玉子は床に打ち伏した。
夫人の死後、忠興は83歳で死ぬまで、45年も生きながらえた。そして彼は亡き夫人を偲んで、生涯再婚はしなかったという。その間に、自らと、そしてガラシャ夫人の墓石にこの石灯篭を転嫁させたのだろうか。再び私は南庭の苔の前の縁側に立った。明智光秀の謀反によってガラシャ夫人は一転「逆賊の娘」になってしまった。戦国時代を駆け抜けたキリシタンとはいったい何だったのだろうか。再び私は夢を見始めたようだ。この禅林は細川家の菩提寺だ。デウスに帰依したガラシャ夫人の痕跡はここにあるだろうか。細川家の紋は残っている。しかしここには十字架はない。ただあるのは利休好み、三斎好みの灯篭があるだけだ。書院の奥に茶室「松向軒」があった。三斎と号したように忠興は利休七哲に数えられる茶人でもあった。茶室の天井から小さな裸電球がぶら下がっている。その明かりを頼りに天井に目を注ぐ。実に質素なたたずまいだ。竹格子の残影が畳に落ちている。忠興はここでひとり静かにガラシャすなわち玉子を偲んだのだろうか。

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