明治の宰相、西園寺公望の孫である公一(きんかず・1906-1993)は幼少期から釣りに親しみ「釣魚迷」(中国語で釣り狂い)と名乗るほどの釣り人に育った。同名のエッセーも残しており、その中の一編、「奥日光の鱒釣り名人勘蔵の思い出」が味わい深い。戦時中、公一は、日光湯元温泉の旅館に滞在し、英国製の竹竿を担いで湯ノ湖や湯川へ通った。お供はきこりの勘蔵じいさんだ。湯川の上流部は昼なお暗い原生林の中。静かに流れる透明な流れに、勘蔵自慢の毛針「金胡麻」「銀胡麻」を浮かす。すると宝石のように美しいカワマスやニジマスが飛び出してる。疲れるとクレソンが茂る川辺で、たき火を囲んだ。ある日、勘蔵が「旦那さア、いちど相談にのっていただきてえと思ってたことがありますだ」と切り出した。赤ん坊の頃に生き別れになった一人娘にひと目でも会いたいのだという。公一は力になると約束し「勘さん、思いつめずに、気ながに待つことさ」と慰める。
エッセーではのんきな釣り三昧をつづっている公一だが、浮き沈みの激しい人生を送っている。オックスフォード大でマルクス経済学に傾倒。ジャーナリストから出発し、次第に政治の世界に足を踏み入れた。英国通の経歴を買われ、近衛文麿内閣のブレーンとして、英米との戦争を回避する道筋を探して奔走した。だが軍部、反英勢力の台頭で足をすくわれる。スパイ事件として知られるゾルゲ事件に連座して逮捕され、禁錮1年6カ月、執行猶予2年の有罪判決を受けた上、公爵の継承権も剥奪された。まもなく勘蔵は亡くなり、約束は果たせなかった。エッセーの最後は「それから、戦争。その後、奥日光の仙境へもアメリカ軍の将校や下士官が入ってきて、傍若無人にふるまう時期がくる」と結ばれている。日光の西洋毛鈎の歴史は明治時代にさかのぼる。避暑地の中禅寺湖畔には英仏伊など西欧諸国の別荘が立ち並び、外交官や家族たちが釣りやヨットで遊んだ。本国から取り寄せた魚を放し、欧州のような釣り場をつくった。
東京アングリング・エンド・カンツリー倶楽部が組織され、日本の政財界の名士も加わった社交界が生まれた。だが開戦の四一年、東条英機内閣は同クラブに活動停止、解散命令を出す。ひとつの文化の終えんを、公一は肌で感じていたに違いない。奥日光へ向かった5月中旬の高原は新緑が芽吹き始めたばかり。湯滝沿いを下り、湯川に入る。魚は出ず、1キロほど下流の小滝に着いた。高さ5メートルほどの滝だ。公一のエッセーに、湯川上流部は「ゴロッチョ」と呼ぶ沈み針が効くと書いてあった。巻いたばかりの沈み針を滝つぼの白泡の中へ放り込む。次の瞬間に釣り糸が狂ったように暴れ始めた。水中に目をやると走り回っているのは、30センチを超えるニジマス。5分ほどもやりとりをしたか。ネットを差し出したとき、ふっと糸の張りが消えてしまった。針が外れ、魚は淵へ消えていく。森はまた静寂に戻ったのだった。
西園寺公一回顧録『過ぎ去りし、昭和』 (人間の記録) 日本図書センター(2005年5月25日発売)


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