じりじり夏の陽が疲労の種を蒔こうとしていた。路面電車を降りてアーケードを見上げると「道後温泉本館百年」と書いてあった。本館とは、あの木造の建築であり、今年で竣工百周年記念だそうだ。その商店街に入らず、右に折れてとぼとぼ歩く。由緒ありそうな門構えのうどん屋に入る。お腹が空いていたわけではない。何故か体がシャキっとせず、うどんでも食べてみようかと思っただけだった。大きなどんぶりに入ったうどんを残して私は歩き始めた。正面にすーっと石階段が現れた。最近の私は階段が苦手だ。電車の駅でエスカレータがあるとわざわざ迂回してそれに乗るくらいだ。後でこの階段は道後温泉伊佐爾波(いさにわ)神社に通ずると知るのだが、私の足は再び右にそれてしまった。どうも風景が違うようだ、目的の寺がある雰囲気に見えない。観光ホテルの駐車場を掃除してるおばさんに道を尋ねる。結局Uターンするはめになった。例の階段を見過ごし、煙草屋さんに再び道を尋ねる。
ほうげんじはどこですか。
ほうごんじですやろ。
はい。
すぐ、この上や。
おおきに。
赤地に黄色で染めた電光看板が並んでいる。ネオン坂ねぇ、なるほど。その看板の向こうに小さな山門が見えた。目的の宝厳寺だ。石段を上がると説明板がある。いわく、寺伝によれば天智天皇の四年、国司乎智宿弥守興(おちのすくねもりやす)が天皇の詔により建立、うんぬん。私は山門から一歩下がって石碑にカメラのシャッターを落とす。一遍上人御誕生旧跡、とある。 山門をくぐって境内に出た。俳句、詩歌の石碑がいくつか散見できる。本堂の階段に腰掛けた。空と地を駿別するのは大きな銀杏の木。ぼんやり空を眺めていると、不思議なことに、車が境内を通り過ぎてゆく。駐車場を経営しているのだろうか? いや違う、それなら左の山手から入ってくるはずはない。私は興味を持って、再び山門の前に出た。車は境内を通り抜け、眼下の街に消えてゆく。見えない道路が境内を走っているようだ。本堂の階段に戻り、腕時計に目を落とすと、まだ正午過ぎ。銀杏の木陰がフィルターになって、風に冷気が浸透する。私はウトウトし始めた。
夢の中で奈良西ノ京・薬師寺東僧坊の縁側に横たわっていた。ひどい二日酔いだったけど、境内を通り抜ける風が次第にそれを癒しつつあった。修学旅行生の矯声がこだまする。私は菩薩の膝を枕にしていたのだろうか、それともそれは生身の女性のものだったのだろうか。嘔吐感が去り、頭脳は覚醒した。目を覚ますと、ここは西ノ京ではなく、道後だった。時計の長針は百八十度傾いている。寺務所の戸を開け、乞うた。
一遍上人の像を拝観できますか。
どうぞ、どうぞ、住職を呼びましょう。
再び本堂の階段に戻り、靴を脱いだ。和尚が扉を開けてくれる。本堂に入ると和尚は型通り蝋燭に火を入れ、照明の電源をオンにした。金色の蓮の花が輝き、私は本尊の前に膝まづき一礼した。座布団から膝を伸ばし、右手にある木造一遍上人立像に近づき、金色の額に縁とられた像を凝視する。室町時代の傑作だそうだ。ラクになれるかな、ふと思った。
花のことは花に問へ
紫雲のことは紫雲に問へ
一遍知らず
なるほど、私は間違っていたかも知れない。花のことを花に問うただろうか。一遍は時宗の開祖であり、それは仏教最後の宗祖を意味する。延応元年(1239)、ここ宝厳寺の支院で生まれ、十歳で出家、二十五歳にして還俗。妻帯して一女をもうけたが、三十二歳で再出家したという。春はまだ遠いのだろうか、白鷺が舞う伊予の国を出立する図を小さな冊子で見たことがある。先頭は一遍、それに続くふたりの尼僧は、妻と十歳になったばかりの娘。一行は四天王寺と高野山に寄り、熊野に入った。権現の信託を受けて他力本願の深意を感得した一遍は、これ以降五十二歳で没するまでその生涯を遊行に昇華させる。
梅原猛先生も感動していましたよ。
そうでしょうね。
私は再び立像を角度を変えながら見上げる。頬が異様にくぼみ、顎が細く伸びている。やや猫背気味の姿勢で合掌している。衣は膝下で途切れ、素足が露出している。なんという誇張なのだろうか。部分の思いがけない強調が、破天荒なパワーを熟成させている。視線は地に向かっているようだ。まさに「捨てひじり」そのものの姿だ。家を捨て、寺を持たず、みすぼらしい下級念仏僧であった一遍上人の姿がこの像に集約されている。賦算と踊り念仏で民衆の心をとらえた一遍は、革命家の匂いさえする。
京都の仏師が画像技術を使ってね。
へー、模造品を作ったんですね。
この勢いが出ないってがっかりしておったよ。
和尚に勧められるまま私は内子町の栗菓子を頬張りながら茶をすすった。裏庭から流れてくる風が心地良い。開祖が誕生した寺が荒れている、なんとかせねば。そんな気持ちで十年前に和尚はこの寺にやってきたという。天井を見上げると、雨漏りの跡だろうか、大きなしみが残っている。しかし、本堂内を見渡すと、仏具などは新調され、蓮の花が金色に輝いている。そういえば、ここに入る前に見た屋根瓦も比較的新しいようだった。たったの十年間でどのように復興したのだろうか。
檀家からのお布施ですか。
いや。
不躾な質問に和尚は一瞬間を置くと、その表情は一転笑顔に変わった。急須の葉を交換して、新しい茶をいれてくれる。
明治時代の地代だったんですわ。
えっ?
いや、なに。この寺は土地を持っていましてな。
私は来る途中のあのケバケバしい「ネオン坂」という看板を思い出した。かつてはこの寺へ通ずる参道であったはずの坂だが、それはまさに下世話な温泉街の風に染まっている。新宿ゴールデン街、あの雰囲気なのだ。往時の赤線青線地帯の風情といってもいいだろう。
遊廓ですな。そこに二足三文で貸してあったんですわ。
寺の土地に遊廓、京都もそうですよ。祇園とか、上七軒とか。
私は建仁寺とか西方寺がお茶屋から地代をとってることを思い出した。しかしここは京都と違って温泉街。和尚は地代を正常に戻し、そのお金は自ら社長におさまった会社に入るようにした。そして、その社長は多額の給料をさいて寺に寄進することにしたそうだ。
あはは、金さえ払えば税務署は文句いいませんな。
捨てひじり一遍上人の話から急転直下、生臭い話題になってきたようだ。私は寺を通り抜ける道路について、ふと聞いてみようと思った。
あれは先代の住職がこの上に墓地を作って分譲してね。
和尚は苦笑混じりに解説する。つまり、寺が所有する山林を切り開いて墓地を作った。しかも車で参詣できると広告を出したそうだ。新しい道路を作る金は出し渋ったのだろう。結局、車が境内を横切るようになったそうだ。
ひどい話ですわ。
はあ。
今は檀家以外に売らんようにしたけど。
ずいぶん皮肉な話だ。一遍上人は清貧の旅を続けた。世俗の一切を捨てることに徹した僧だった。釈尊の生まれ変わりと信じた人たちが多かった。その姿勢は聖フランチェスコに通ずるものがあるかも知れない。連金術というものがあるなら、この末法の時代にある種は土地だろう。
よろず生きとしいけるもの
山河草木
ふく風たつ浪の音までも
念仏ならずいふことなし
すべてのものがみな等しく南無阿弥陀仏だ、と一遍上人は説いた。ところがその山河を破壊して練金したようだ。しかし、土地なくして術は叶わない。和尚はそれを止めた。老いたら荒れ寺に棲もうかな、とふと夢が脳裏を走る。
時宗はラクですよ。
そうですか、私でも。
ははは。
念仏を唱えるだけでいいんでしょ。
ははは。
少々長居をし過ぎたようだ。私は寺を辞して、門前のわき道を登る。道は伊佐爾波神社の裏手に通じていた。正面に廻ると、あの急勾配の石段のてっぺんに出た。一歩一歩降りるごとに、松山城跡の小高い山の稜線が少しずつ民家の軒に隠れてゆく。秋にもう一度訪ねよう、と思った。(一九九四・六・六)