2026年4月17日

世界史探索(2)ナポレオンのモスクワからの撤退

Napoleon’s Retreat
飢えと寒さに凍えながら戦うフランス軍

ロシア皇帝アレクサンドル1世がフランスのナポレオン・ボナパルト皇帝の大陸封鎖令を拒否したことを受け、フランス軍は1812年6月24日、大軍を率いてロシアに侵攻した。50万人を超える兵士と参謀からなるこの巨大な軍隊は、当時ヨーロッパで編成された軍隊の中で最大規模であった。侵攻開始から数ヶ月の間、ナポレオンは絶えず後退を繰り返すロシア軍との激しい戦いを強いられた。ナポレオンの優勢な軍隊との全面対決を拒んだミハイル・クトゥーゾフ将軍率いるロシア軍は、ロシア奥深くへと後退しながら、背後のすべてを焼き払った。9月7日、決着のつかないボロジノの戦いが行われたが、両軍とも甚大な損害を被った。9月14日、ナポレオンは補給物資を求めてモスクワに到着したが、ほぼ全住民が避難しており、ロシア軍は再び撤退した。翌朝早く、ロシアの愛国者たちが街中に火を放ち、大陸軍の冬営地は破壊された。降伏を1ヶ月待ったが、結局降伏は訪れず、ナポレオンはロシアの冬の到来に直面し、飢えに苦しむ軍隊にモスクワからの撤退を命じざるを得なかった。悲惨な撤退中、ナポレオン軍は突如として攻撃的で容赦のないロシア軍から絶え間ない嫌がらせを受けた。

Bonaparte Crossing the Col du Saint-Bernard
ジャック=ルイ・ダヴィッド(1748-1825)サン=ベルナール峠を越えるボナパルト

飢えとコサックの恐ろしい槍に追われながら、壊滅状態となった軍は11月下旬にベレジナ川に到達したが、ロシア軍によって進路を阻まれていた。11月26日、ナポレオンはシュトゥディエンカで強行突破し、3日後に軍の主力が川を渡った時には、背後で仮設橋を焼き払わざるを得ず、約1万人の落伍兵が対岸に取り残された。そこから撤退は敗走となり、12月8日、ナポレオンは残存軍を数個大隊とともに残しパリへ帰還した。6日後、大軍はついにロシアから脱出したが、この悲惨な侵攻で40万人以上の兵士を失った。トルストイの『戦争と平和』において、ナポレオン率いるフランス軍のロシア侵攻と、その後の悲惨な撤退過程は、物語のクライマックスを成す非常に重要な歴史的背景です。この作品は単なるフィクションではなく、徹底した歴史研究に基づいて当時の情勢を描いている。フランス軍はモスクワを占領したが、冬の到来と補給の断絶、そしてロシア側の焦土作戦によって撤退を余儀なくされます。飢えと寒さに凍えるフランス軍が壊滅していく様子が克明に描写されている。トルストイはこの作品を通じて「歴史を動かすのはナポレオンのような『英雄』ではなく、名もなき民衆や兵士たちの意志の集積である」という独自の歴史観(歴史決定論)を提示したのである。

ところでフィドル音楽の古典である「Bonaparte's Retreat(ボナパルトの退却)」は、ナポレオンのロシア遠征の失敗と、その後の退却を象徴する曲として広く知られている。この曲はもともとアイルランドの伝統的な行進曲がルーツであると考えられている。19世紀当時、ナポレオンはヨーロッパ全土に強烈な印象を与えた人物であり、彼がロシアの冬に敗れて撤退するニュースは、アイルランドやイギリスの音楽家たちの創作意欲を刺激した。アイルランド系移民によってこの曲はアメリカへ渡り、オールドタイムやブルーグラスといったフィドル音楽の定番レパートリーとなった。フィドルを演奏する際、低い弦を鳴らし続けることでバグパイプのような響きを作ります。これが軍隊の行進や、荒涼とした風景を想起させる。多くのフィドラーは、この曲を弾く際に「DDAD」などの変則的なチューニング(スカッフ・チューニング)を用いる。これにより、深く、少し物悲しい独特の響きが生まれるのである。下記リンク先は1937年にアラン・ロマックスが米国議会図書館のために録音したウィリアム・ハミルトン・ステップの演奏「ボナパルトの撤退」です。

YouTube  William Hamilton Stepp (1875-1957) "Bonaparte's Retreat" recorded by the LOC in 1937

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