2026年4月12日

歴史探索:コンスタンティノープルの陥落

The Fall of Constantinople
ファウスト・ゾナーロ(1854-1929)コンスタンティノープルに入城するメフメト2世

総勢10万のオスマン帝国軍団を率いたメフメト2世は、1453年4月6日からコンスタンティノープルの包囲を開始した。迎え撃つビザンツ軍はヴェネツィアやジェノヴァからの傭兵・義勇兵をあわせても1万弱に過ぎない。それでも優れた海軍力も手伝って守備兵はよく守った。メフメトは4月22日には船団の「山越え」という離れ業までやってのける。木製軌道と滑車と膨大な数の牡牛や兵士の力を使ってボスポラス海峡から船団をガラタ地区の丘を越えて金角湾内に滑り込ませたのだ。金角湾西側に入ったオスマン艦隊は、陸上からのオスマン軍の砲撃と呼応して、ビザンツ艦隊を圧迫した。それでもこの町を落とすことはできなかった。しかしウルバンの巨砲が威力を発揮し、西の大城壁に大きな損傷を与え始める。包囲を開始して二か月に近づこうとする5月28日夕刻、メフメト2世は最後の総攻撃を命じる。この征服戦の遂行には側近中にも反対者がおり、失敗はすなわち、スルタンの権威失墜になりかねない情勢だった。作戦を陣頭指揮したスルタン・メフメト2世にとっても命運のかかった決戦だった。5月29日の夜明け前、オスマン軍は最後の攻撃を行い、城内へなだれ込んだ。この日をもってビザンツ帝国は滅亡した。イスラム法は、戦争によって略奪された異教徒の都市では、聖戦の戦士たちに3日間の略奪の権利を認めている。コンスタンティノープルの陥落直後にも、メフメト2世は自らの意に反しても、略奪を許可せざるを得なかった。しかし、彼は「ローマの皇帝」の都をできる限り無傷で手中にしたいと考えていたと言われる。略奪は1日できりあげられたとみるのが妥当ではないか。略奪の対象には人間も含まれる。

Hagia Sophia
イスタンブルのアヤソフィア前でメッカに向かって礼拝するムスリムたち

イスラム法では、戦利品としての異教徒の捕虜は、奴隷として捕獲者の所有に帰する。そのため多くの市民が捕虜となって奴隷に落とされ、その数は5万人に達した。この捕虜についても、メフメトは、スルタンの取り分となったものを丁重に扱い、特にビザンツ貴族たちについては、その身代金を自ら払って彼らの解放を保障したといわれる。メフメト2世は、コンスタンティノープルを征服すると、荒廃した町の再建に取り組み、街の復興に努めた。彼はなによりもオスマン帝国の首都として「ローマの都の再興」を夢見ていた。その思いは彼が6世紀に建造されたビザンツ帝国の記念碑的建造物アヤソフィアをモスクに転用した際に作成された寄進文書に色濃くあらわされている。

「… 彼は偉大なスルタン、よく知り、正しき王にして … ローマの帝国の終焉ののちに、神アッラーの言葉を掲げた者である。… 彼はこれほどまでにアレクサンドロス王の時代を体現している。… 先達たるアレクサンドロス王の杖を受け継ぐものである」
コンスタンティノープルの陥落

このようにメフメト2世は自らをアレクサンドロス大王やローマの後継者と見なしていた。そもそも彼は、即位以前からアラビア語、ペルシア語とイスラム諸学だけではなく、ギリシア語、ラテン語、ヘブライ語も修得し、ことにギリシアの文献を広く学んでいたことが知られている。アテネとトロイの遺跡を訪れ、称賛の言葉を発した彼を、ある歴史家は「ギリシア崇拝者」とまで記した。自らをアレクサンドロス大王の後継者と意識するメフメト2世は、実際、東西の融合を果たすべく1480年、ローマ征服を目指してイタリア半島最東端の港町オトラントを占領する。蛇足ながら塩野七生著『コンスタンティノープルの陥落』(新潮文庫)によると以前は「ビザンチウム」と呼ばれていた。そしてコンスタンティノス大帝の名をとってコンスタンティノスの都という意味の「コンスタンティノポリス」と呼ばれるようになった。「コンスタンティノープル」は現在、日本で最も普及している英語式発音の呼び方。「イスタンブル」もコンスタンティノポリスのトルコ語式の呼び方が長い年月経た結果、原語を想像するのが不可能なほどに変化したに過ぎないという。下記リンク先はワシントンD.C.の聖ソフィア・ギリシャ正教会大聖堂の記事「コンスタンティノープルの陥落は深刻な結果をもたらした」です。

history  Fall of Constantinople Had Profound Consequences | St Sophia Greek Orthodox Cathedral

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