2025年6月24日

花街という俗世界と共存する仏教寺院の半夏生

半夏生
半夏生 建仁寺塔頭両足院(京都市東山区大和大路四条下る)

梅雨の晴れ間、京都市東山区の建仁寺塔頭両足院「初夏の半夏生庭園特別公開」に出かけた。建仁寺は京都市東山区の花街、祇園甲部の南側にあるが、花見小路を抜けながら、今はなきお茶屋「石幸(いしゆき)」の片隅でお座敷遊びの真似ごとをしたことを思い出した。花街と仏教寺院は同じ「白足袋」の仲間、縁が深いように見える。舞妓時代から知っていた芸妓が引退、祇園切り通しに料理店を開いたので、通うようになったことがつい昨日のように思い出される。その店で建仁寺の高僧と懇意になり「坐禅をしてみたい」と懇願したところ「やめておきなはれ」と諭された。坐禅の案内を見ることがあるが、それは真の修業とは言い難いものが多く、安易に禅寺に飛びこむと「怪我をし兼ねない」というのだ。僧侶のお座敷遊びは「解脱」ゆえのものかと感心したものである。千葉市若葉区の曹洞宗眞聚山正因寺のウェブサイトの解説「禅宗における坐禅とは?坐禅の本当の意味や瞑想との違いを徹底解説」によると、坐禅の「坐」という言葉には「すわる」という意味がある。坐禅における「すわる」とは、一切の邪念から離れて、普遍的なものは存在しないという無我の状態で精神統一をすることだという。そのため、坐禅をするときには、動かないように安定させることが求められという。

zen

坐禅に似た動作として「瞑想」がある。坐禅と瞑想には似ている部分もあるが、大きく異なるのは目的だという。瞑想とは、目を閉じた状態で姿勢を正して、心を何かに集中させることを意味している。瞑想を行うことで集中力を高めたり、睡眠の質を上げたりすることが可能である。また、ストレスを軽減させて、精神を安定させるという効果も期待できるという。それでは祇園切り通しの料理店で老師が語っていた「坐禅による心の怪我」とはいったい何だろう。坐禅は心の安定や集中力向上に役立つとされているが、やり方を間違えると、心の怪我につながる可能性もある。特に、精神的に不安定な状態での坐禅は、自己の内面と向き合うことで、過去のトラウマや抑圧された感情が表面化し、かえって精神的な負担になることがある。どうやら精神的に不安定な時の坐禅は危険ということらしいのである。ところで両足院は半夏生(はんげしょう)の庭で知られる。この花の葉が半分白くなって、化粧しているようになるこの季節を半夏生という。つまり半化粧が転じて半夏生になったわけである。それにしても白塗りの舞妓・芸妓の化粧は艶やかで美しいと思う。清楚で清々しい半夏生なのだが、花街という俗世界と共存しているようだ。下記リンク先は臨済宗円覚寺派大本山円覚寺掲載の「坐禅とは」です。

buddha  坐禅とは形無き自己に覚めて不死で死し不生で生れ三界を遊戯 北鎌倉・臨済宗円覚寺派大本山円覚寺

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