2025年7月30日

黒いヴェールが外部の熱から体を守るという想定外

Veiled Women
Three Veiled Women of Rissani, Morocco ©1971 Irving Penn

歴史上ヴェールほど物議を醸した衣服はおそらくないでだろう。ヴェールは抑圧の象徴と見なされることもある一方で、選択の自由の象徴と捉える人もいるのである。写真はアーヴィング・ペン(1917-2009)がモロッコのサハラ砂漠を横断する最も重要な二つのルートの交差点にあり、川とオアシスから数キロのリサニで撮影した黒い布で顔と全身覆った女性たちである。顔が写らないことを承知の「肖像写真」である。日本では今夏は40℃を超えそうな所があると騒がれているが、モロッコの砂漠地帯では夏の日中は40℃を超える灼熱の暑さになる。一般的に、モロッコは比較的穏健なイスラームの国とされており、サウジアラビアなどの国で見られるような、目以外をすべて覆うようなヴェール(ニカブやブルカ)はあまり一般的ではないようだ。モロッコで最も広く着用されているのは「ヒジャブ」と呼ばれる、髪と首を覆うスカーフである。都会ではヴェールをかぶらない女性が増えているが、地方に行くほど、より多くの女性がヴェールを着用しているという。若い世代の女性はヴェールをかぶらないことも多いが、年齢を重ねるにつれてかぶるようになる傾向が見られます。 既婚女性はヴェールをかぶる人が多い傾向にある。問題はヴェールがく黒色であることである。イスラームの主に男性の伝統衣装である「カンドゥーラ」や「トーブ」は白を基調にしているが、体のラインを最大限に隠すデザインとなっている女性の「アバヤ」は黒である。

Rissani Morocco
Western city gate of Rissani in Morocco

これらの服装は暑い気候に適応するための実用的な理由や、宗教的な意味合いを持つ場合がある。イスラム教徒の女性が黒いヴェールを着用する主な理由はイスラームの聖典であるクルアーン(コーラン)の教えに基づいている。クルアーンには「美しい部分を隠せ」という教えがある。黒色は他の色に比べて太陽光を吸収しやすく、熱エネルギーに変換される。そのため黒い服を着ていると、体感温度が上がり、暑く感じやすくなる。意外に思われるかもしれないが、黒いヴェールには断熱効果がある。断熱の目的は、熱の移動を妨げることだが、熱は常に温度の高い方から低い方へ移動する性質がある。体温より気温が低い場合は体から外へ熱が逃げるのを防ぎ、体温を保つ。体温より気温が高い場合は外部の熱が体へ伝わるのを防ぎ、体温の上昇を抑える。ヴェールが断熱効果を持つのは、布と肌の間に空気の層ができるためである。空気は熱を伝えにくい性質(低い熱伝導率)を持っているので、この空気層が断熱材として機能する。重ね着すると防寒効果があるが、同じ理屈で断熱効果が増すようだ。従って体温以上の気温という過酷な環境下でも、ヴェールは外部の熱から体を守るために役立つのである。下記リンク先は考古学サイト Ancient Origins の「ヴェールの着用は歴史の中の伝統」です。古代アッシリアにおけヴェールの起源から始まり、古代ギリシャ、ローマ帝国、中世、そしてイスラームにおけるヴェールの台頭までの歴史を詳述している。

islam  Wearing of the Veil Traditions Throughout History | Unravelling the Mysteres of the Past

2025年7月28日

タンポポのお酒:少年レイ・ブラッドベリが発見した夏

タンポポのお酒
レイ・ブラッドベリ『たんぽぽのお酒』晶文社(2023年)

イリノイ州の片田舎、小さな町、グリーンタウンの1928年の夏が始まった。12歳の少年ダグラスと弟のトム、おじいさんに訊く。「みんな用意はいいの? もういいの?」「五百、千、二千はあるな。よし、よし、けっこうな量だ…」 少年たちが摘んだのは金色の花、タンポポ。絞り器がぐるぐる回転し、タンポポを押しつぶす。金色の潮流、夏のエキスが流れ出し、それを甕(かめ)に入れる。酵母を掬い取り、ケチャップのふりかけ容器につめて、地下室の薄暗いところに、キラキラ光る列を作って並ばせる。タンポポのお酒である。父親に連れられて森に出かけたダグラスは、ふとしたことから、弟のトムと取っ組み合いになる。拳が口に当り、ダグラスは錆色の温かい血の味を感じ、弟に掴みかかる。押さえ込んだあと、ふたりは横になる。すると「世界は、彼よりもいっそう巨大な目に虹彩で、同じようにいま片目を開けてすべてを包みこもうと広がったように」ダグラスを見返す。そして「とびかかってきて、いまはそこにとどまり、逃げていこうとしないものの正体」を知るのだった。「ぼくは生きているいるんだ」と彼は思う。1928年の夏、少年ダグラス、いや少年ブラッドベリが発見したのは、夏の歓喜、生命の躍動とともに、それに相対する死という宿命であった。だからこそ「ぼくは生きているいるんだ」と大声で、といっても声は出さすに叫んだのである。

松岡正剛千夜千冊(求龍堂)

そして「12歳になって、たったいまだ! いまこのめずらしい時計、金色に輝く、人生70年のあいだ動くこと保証つきのこの時計を、樹の下で、取っ組み合いしている最中に見つけた」のである。レイ・ブラッドベリは1920年8月22日、イリノイ州ウォーキーガンで生まれた。晩年はロサンゼルスに在住し、著作活動を続けて2012年6月5日に91歳で他界した。少年ダグラスの夏は1928年で、ブラッドベリは8歳である。ダグラスを12歳に設定したのは、ブラッドベリが12歳からオモチャのタイプライターで物語を書き始めたからだろう。レイ・ブラッドベリを初めて手にしたのは何時ごろだったろうか。少なくとも1970年代に戻るだろう。いくつか脳裏に残っているが、何よりも印象深く、記憶から離れないのがこの自伝的長編小説『たんぽぽのお酒』である。しかし『十月はたそがれの国』もそうだが、『火星年代記』『華氏451度』など、一般には SF 作家として名高いようだ。今月12日に80歳で他界した実業家で編集者、著述家で、出版社「工作舎」を設立した松岡正剛もファンで、その著作のほとんど読破したという。書評サイト「千夜千冊」で『華氏451度』を取り上げていたが、ブラッドベリと実際に会ったときのエピソードが面白い。地下室に案内されて「ミッキーマウスをはじめとする、厖大なぬいぐるみや人形のコレクションを自慢されたときは、これがあのブラッドベリなのかと疑った」というのである。興味をそそられる逸話だけど、詳細は「千夜千冊」に譲り、私は知らなかったことにしよう。地下室といえば、やはりぬいぐるみや人形ではなく、たんぽぽのお酒を連想してしまうからだ。

bookレイ・ブラッドベリ(著)北山克彦(訳)荒井良二(絵)『たんぽぽのお酒』晶文社(2023/11/28)

2025年7月26日

ティンタイプ写真でアパラチアの伝承音楽家に焦点を当てたリサ・エルマーレ

ogslop String Band
Hogslop String Band, Harpeth River, Tennessee. ©2010 Lisa Elmaleh
Lisa Elmaleh

リサ・エルマーレは、ウェストバージニア州ハンプシャー郡を拠点とするアメリカ人のビジュアルアーティスト、教育者、ドキュメンタリー作家です。ティンタイプ、ガラスネガ、セルロイドフィルムを用いた大判写真に特化している。2007年以来、アメリカ各地を旅し、アメリカの風景、生活、文化を記録している。1984年、フロリダ州マイアミで生まれたエルマレは、限られた収入の中で母親と小さなアパートで育った。父親は風景写真を扱う写真家で、エルマレは父親が暗室で写真を現像するのを見て「写真の魔法が…私の心に焼き付いた」と回想している。ニューヨークのマンハッタンにある芸術大学スクール・オブ・ビジュアル・アーツに通い、2007年に美術学士号を取得して卒業した。卒業後、権威あるティアニー・フェローシップを受け、気候変動がエバーグレーズに与える影響を詳細に視覚的に記録するプロジェクトに取り組む。

Hannah Johnson
Hannah Johnson, Keezletown, Virginia, 2012

このプロジェクトの集大成として、2016年にザターラ出版から『エバーグレーズ(ロリダ州南部に広がる亜熱帯性の大湿地帯)』というタイトルの本が出版された。大学でコロジオン法を学んだエルマーレはティンタイプ写真を制作し始めた。彼女の愛用カメラは大判8x10の木製案箱センチュリー・ユニバーサルで、シュナイダー・クロイツナッハ300mmレンズを使用している。

Alice Gerrard
Alice Gerrard, Durham, North Carolina, 2013

湿式コロジオン法では現像液が乾板上でまだ湿っている間に画像を撮影し、現像する必要がある。2010年、アメリカ文化の歴史的記録として、ヨーロッパの移民が伝承したパラチアの音楽を継承するフォークミュージシャンに焦点を当て、ティンタイプのポートレートで記録する長期継続プロジェクトに取り組み始めた。

Moses Nelligan and Matt Kinman
Moses Nelligan and Matt Kinman, West Virginia, 2013

トヨタ・タコマのピックアップトラックを移動式暗室に改造し、被写体に会いに行くために運転している。コロジオン法には時間的な制約があるため、エルマーレは撮影後30分以内に写真を現像する。画像は1枚ずつ撮影され、現像される。エルマーレの作品は全米で展示され、アーノルド・ニューマン賞、アーロン・シスキンド財団、パッフィン財団などから評価されている。

Janice Birchfield
Janice Birchfield, Roan Mountain, Tennessee, 2013

彼女の作品は、ハーパース・マガジン、スミソニアン・マガジン、CNN テレビ、ニューヨーク・タイムズ、ナショナル・ジオグラフィック、オックスフォード・アメリカン、ガーデン&ガン、ナショナル・パブリック・ラジオなどに掲載されている。下記リンク先はナショナルジオグラフィック誌ベッキー・ハーラン編纂「リサ・エルマーレのアパラチアからの叙情的なティンタイプ」です。

NationalGographic  Lisa Elmaleh's Lyrical Tintypes From Appalachia by Becky Harlan of National Ggeographic

2025年7月24日

ソーシャルメディア Facebook 終わりの始まり

End of Facebook

先日、高校生になったばかりの孫が東京から遊びにきたが、スマートフォンを弄っていたので、ソーシャルメディア Facebook のアカウントを持っているのか尋ねてみた。するとんでもないという表情になり、現在使っているのは Ticktok、Instagram、LINE くらいで、テレビを見る習慣もないという。いわば Z 世代の典型なのだろう。それではということでグーグルのエブリデイ人工知能アシスタント Gemini に「なぜ若者はソーシャルメディア Facebook を使わないのか?」と訊いてみた。以下がその返答である。

若者がソーシャルメディアとしてFacebookを使わない理由は複数ありますが、主な要因は以下の通りです。
1. 他のSNSへの移行と機能の重複:
Twitter (X) やInstagramの台頭 若者は情報収集にはX(旧Twitter)の速報性や専門性、Instagramの視覚的なコンテンツ(「インスタ映え」やリール動画)を好む傾向があります。
LINEの普及: メッセージのやり取りには、日本においてLINEが圧倒的に普及しており、スタンプなどの機能の豊富さからFacebook MessengerからLINEへ移行するユーザーが増えました。
TikTokの浸透短い動画で効率的に情報を得られるTikTokは、タイムパフォーマンスを重視する若者にとって最適なプラットフォームです。
2. Facebookのイメージと利用層の高齢化:
「おじさん・おばさん世代のSNS」という認識: 若者にとってFacebookは、親や親戚、会社の上司など、上の世代が使っているイメージが強く、「高齢者のためのもの」という認識があります。そのため、若者同士のカジュアルな交流の場としては敬遠されがちです。
人間関係の煩わしさ: 実名登録が基本であることや、過去の知り合いとの繋がりが強制されるような感覚(「友達リクエスト」など)が、若者にとっては「SNS疲れ」や人間関係のしがらみを感じさせる要因になっています。特に、上司など目上の人からの申請を断りにくいといった声もあります。
3. プラットフォームの課題
タイムラインの複雑さ・広告の多さ: タイムラインがごちゃごちゃしていて見にくい、広告が多いといった意見があります。
信頼性の問題詐欺広告や誤情報、ボットの氾濫などが問題視されており、コンテンツの信頼性に対する懸念も利用離れの一因となっています。
プライバシーへの懸念: 情報漏洩などのプライバシー問題も、若者を含む幅広い世代がFacebook離れする理由として挙げられています。
4. 価値観の変化
映え」よりも「リアル」を重視: 近年、Instagramなどでも「映え」を意識した投稿よりも、日常のありのままの姿を共有する「BeReal」のようなアプリが流行するなど、若者の間でリアルでフィルターのかかっていない投稿を好む傾向が見られます。Facebookは、良く見せようとする投稿が多いというイメージがあり、それが若者の価値観と合わなくなってきている可能性もあります。
これらの要因が複合的に作用し、多くの若者がFacebookではなく、より彼らのニーズやライフスタイルに合った他のSNSを利用するようになっています。
Meta

カイル・チャイカ記者によるニューヨーカー誌の記事によると、マーク・ザッカーバーグが「ソーシャルメディアは終わった」と語ったという。ソーシャルメディア Facebook は2022年、創業以来初めて、第2四半期の収益が前年同期を下回った。そして X(旧Twitter)と Snap の両社も、期待外れの決算を発表した。作家のウィリアム・S・バロウズはかつて「成長をやめると死が始まる」と言ったという。これらの数字は単なる一時的なものなのだろうか? それとも、ソーシャルメディアにとって転換点を迎えているのだろうか? Facebook は近年他のプラットフォームの機能を模倣してきたが、この最新の変更は西側諸国の最も熱心なユーザー層を遠ざける可能性が高いと思われる。メディアの世界には、製品ライフサイクルにおける典型的な中年の危機段階があり、私はそれを「ぐらつき」と呼ぶことにしよう。これは非常に成功している企業のリーダーたちが、金の卵を産むガチョウが産む卵の数を減らし、卵の数が減っていることに気づく段階である。長年にわたる素晴らしい成長の後「ぐらつき」は困難な時期であり、しばしば恐怖に満ちている。意思決定は、刺激的で冒険的なものではなくなり、少し必死に見え、そして感じ始める。企業が停滞すると、恐怖が激しく襲ってくる。彼らのリーダーたちは、新たな成長の波を起こそうと必死だ。だから、起業家として彼らは固執するのではなく、ひねりを加えて、再びそのスイートスポットに到達する方法を見つけることに熱心である。そして、それを実現する最も簡単な方法は、同様の市場で成長を遂げている異端者を模倣することだ。TikTok は今も目覚ましい成長を続けている。そのため他のソーシャルメディア企業は、短い形式のアルゴリズム主導のビデオフィードへと方向転換を図りつつある。しかし、現金獲得に躍起になる中で、彼らが皆忘れているのは、他社との差別化こそが彼らの優位性をもたらしたということだ。どの企業も、自社の中核事業において、目立った競合相手はいない。しかし互いに利益を出し合うことで事態は悪化する。顧客体験が悪化し、結局は顧客が離れていくことになるのである。

End of Facebook  Facebook founder Mark Zuckerberg Says Social Media is Over by Kyle Chayka Newyorker

2025年7月22日

グラフ誌『LIFE』を飾った写真家二十人の作品集

Margaret Bourke-White (1904-1971) Women holding rakes, Suburb of Moscow, Soviet Union, 1941
Martha Graham
Gjon Mili (1904-1984)Choreographer Martha Graham performs her own work, 1941
Blitz
William Vandivert (1912-1989) The Tower Bridge silhouetted against burning docks, London, 1940
Albert Camus,
Loomis Dean (1917-2005) French author Albert Camus, on the set of his play Caligula, 1957
Tommy Tucker
Nina Leen (1909-1995) Tommy Tucker, a squirrel, was dried after a bath, 1944
Dr. Ernest Ceriani
W. Eugene Smith (1918-1978) Dr. Ernest Ceriani made a house call on foot, Kremmling, Colo., 1948
Ouija Board
Wallace Kirkland (1891–1979) People playing with a Ouija Board, 1944-06
aguar
John Dominis (1921–2013) Steve McQueen driving his Jaguar, California, 1963
two pythons
George Silk (1916-2004) A dancer named Aicha with two pythons at nightclub in Brussels, 1945
Indian Troops
Larry Burrows (1926-1971) Indian Troops in the Himalayas, Sino-Indian Conflict, 1962
Saint George and the Drago
Alfred Eisenstaedt (1898-1995) Watch "Saint George & Dragon" at outdoor theater in Paris, 1963
Gordon Parks (1912–2006) Flavio da Silva feeding his brother Zacarias, Rio de Janeiro, Brazil, 1961
Dalí Atomicus
Philippe Halsman (1906-1979) Dalí Atomicus in an unretouched version, New York, 1948
The Mothers of Naples Lament
Robert Capa (1913-1954) The Mothers of Naples Lament Their Sons' Death, Italy, 1943
ulukatuk
Ralph Crane (1913-1988) Nalukataq: the spring whaling festival of the Iñupiat of Northern Alaska
JFK
Carl Mydans (1907-2004) Commuters read of John F. Kennedy's assassination, New York, 1963
Giant sable antelopes
Carlo Bavagnoli (1932-2024) Sable antelopes roaming the Luanda game preserve, Angola, 1968
Volkswagen
Walter Sanders (1897–1985) Volkswagen's main plant, Wolfsburg, Germany, July 1951
Cone of Fire
David Douglas Duncan (1916-2018) Inside the , Con Thien, Vietnam, 1967
dance
Loomis Dean (1917-2005) Teenagers danced to rock music being spun, Los Angeles, 1955
The cover of the first LIFE magazine

1936年、出版者のヘンリー・ルースが総合雑誌『ライフ』のブランドを9万2,000ドルで買収した。それは「人生」を意味する「ライフ」という名前が、彼の出版社・タイム社にふさわしいと考えたからである。ルースは写真が説明する文章と同じくらいに物語を伝えることができると確信しており、写真を中心としたニュース雑誌として、『ライフ』を1936年11月23日に新創刊した。1923年の『タイム』、1930年の『フォーチュン』に続いてルースが発行した3冊目の雑誌である『ライフ』は、アメリカにおける画期的なグラフ雑誌として発展した。創刊号は10セント(2025年の物価換算で2.28ドル)で9,000部が販売され、32ページ中アルフレッド・アイゼンスタットによる写真が5ページにわたって掲載されていた。初代の編集長はクルト・コルフだった。ニュース週刊誌を企画するにあたり、ルースは1936年にタイム社内で機密の目論見書を発行したが、それには新しい『ライフ』誌のビジョンと、彼が目的としていたものが記されていた。ルースは『ライフ』誌を、写真を中心とする、アメリカの一般の人々の目に触れることが可能な最初の出版物とするつもりだった。創刊号の表紙は、マーガレット・バーク=ホワイトが撮影した、公共事業促進局の事業により作られたフォートペックダム)(ミズーリ川流域)の写真だった。雑誌『ライフ』は上述の通り1936年11月23日に週刊誌として創刊され、1972年に「特別号」の発行に移行した後、1978年から2000年まで月刊誌として復活した。2000年以降は不定期に「特別号」を発行している(以上ウィキペディアの抄訳加筆)。以下のリンク先は『ライフ』誌に掲載された非常に有名な写真のアーカイブです。

LIFE  LIFE Magazine's visual record of 20th century by exploring the most iconic photographs

2025年7月20日

夏河を越すうれしさよ手に草履/編集者・穴吹史士君の思い出

愛宕念仏寺(京都市右京区嵯峨鳥居本深谷町)

嵯峨鳥居本の清滝隧道の手前「愛宕寺(おたぎでら)前」で京都バスを降りると、すぐ目の前がその仁王門だった。門をくぐると夥しい数の羅漢が迎えてくれた。坂を上って本堂前に出ると、その数はさらに増し、山あいの斜面にまでびっしり並んでいる。「五百羅漢」という言葉は、釈迦の涅槃時に立ち会った弟子たちの数に由来するが、境内にはなんと1,200体の石像が奉納されているそうだ。つまり「千二百羅漢」というわけだ。当初は500体だったが、後に700体が追加されたという。羅漢たちは、まさに1,200の顔を、1,200の心を持っている。怒りの表情はごく僅かで、みな和やかにほほ笑んでいる。1980年、仁王門の解体修理を機に、仏像彫刻家だった前住職の西村公朝氏が呼びかけ、一般の人々が彫ったものだそうだ。この羅漢像群のことを教えてくれたのは、仕事仲間だった穴吹史士君だった。羅漢を奉納するために寄進、自ら彫るつもりだったが仕事に忙しく、どうやら友人に託したようだ。しかし迂闊にもどの石像か訊かず終いになってしまった。訊かず終いになったと過去形で書いた。すべてを追憶の過去に戻さねばならないが、1980年代初頭のことを明瞭に憶えているわけではない。

穴吹史士君(右)と私(ケニア1981年)

だから残った印刷物から組み立てるしかない。週刊朝日のグラビアページ編集を担当していた穴吹君と一緒に仕事をしたのは、1981年、東アフリカのケニア取材旅行だった。企画は彼の友人だった共同通信の岡崎記者から持ち込まれたもので、JTBのツアーに同行するものだった。アバーディア国立公園の樹上ホテル「ツリートップス」に泊まることができたのが印象的だった。一行と別れた私は、山崎豊子の小説『沈まぬ太陽』のモデルといわれた小倉寛太郎氏率いるサバンナクラブとタンザニアで合流した。その中にライオンなどの哺乳類に背を向け、ひたすら双眼鏡で鳥を観察し続ける人がいた。当時NHK文化センターに勤めていた松平康氏だった。母方の叔父が鳥類学の先駆者、蜂須賀正氏(まさうじ)博士で、松平氏自身も大の鳥好きだったのである。この旅行の縁が、週刊朝日の新しいアウトドア企画に繋がったのである。「BE-PALも売れてるし、一般誌でもネイチャーを取り上げないと」というのが言い分だった。良いものは堂々と真似をしようという実利主義である。無論その場合、オリジナルにない工夫を怠らなかったのは言うまでもない。同じ年の秋に新潮社から写真週刊誌 FOCUS が刊行されたが、これが売れた後に、彼は週刊朝日に「アクショングラビア」を創設する。例によってやはり「真似しない手はない」という哲学であった。私も参画することになったが、彼の方法論を密かに「浪花のアナキズム」と呼んだことを思い出す。洒脱な彼は、実は典型的な大阪人だったのである。今思えば、彼は編集者としての麒麟児だったのである。昭和天皇が崩御した1989年1月、私は京都に舞い戻り、穴吹君とは仕事場を分かつことになってしまった。

名画日本史
朝日新聞社刊『名画日本史』(2000年)より(クリックで拡大)

西暦2000年のミレニアム、朝日新聞日曜版で『名画日本史』の連載が開始された。その取材キャップが穴吹君だった。再び彼と仕事を共にする機会が巡ってきた。一緒に雑誌の取材をした仲だったが、今度は新聞が舞台だった。ただ日曜版なので、文字通り週刊誌的な仕事、このシリーズの写真撮影が楽しみになったのはいうまでもない。その年の夏、私と穴吹君は筆者の森本哲郎氏と共に丹後への取材旅行に出た。与謝蕪村の足跡を辿る旅だった。蕪村がしばしば訪れたという与謝郡加悦町の施薬寺前の小川に立った私は、草むした小さな橋を撮った。もしかしたら取材のキーワードだった句「夏河を越すうれしさよ手に草履」と詠まれた小川かもしれないかと思ったからだ。天橋立の旅館に辿りついた私たちは、お酒をしこたま呑んだ。美酒に酔いながら「大腸ガンの手術をしてね」と穴吹君は笑った。そして時が流れ、2010年、風の便りに彼が他界したことを知った。ガンが転移したのだろう。あれから40年、愛宕念仏寺の羅漢たちは揃って苔を纏い、新緑の燦燦と輝く木々背にしている。穴吹君の羅漢像か分かれば今度は花を手向けようと思う。

asahi こだわりの AIC 才人・穴吹史士が残した遺産(朝日新聞デジタル20周年特集)元AIC筆者・勝田敏彦

2025年7月18日

性的人身売買犯罪者ジェフリー・エプスタインのリストが MAGA を動揺させている

Epstein List

性的人身売買犯罪者ジェフリー・エプスタインの事件の扱いが MAGA(アメリカを再び偉大な国にする)を揺るがし続けている。エプスタインに関するスキャンダラスな犯罪情報が国民から隠蔽されていると繰り返し主張してきた同じ人々の一部が、今では何も隠蔽されていないと主張している。しかし大統領支持層の主要人物は、隠蔽工作が続いていると主張している。エプスタインに関するスキャンダラスな犯罪の詳細が国民から隠蔽されていると繰り返し主張してきた同じ人物の一部が、トランプ政権に加わり、今や何も隠蔽されていないという。この運動を主導しているのは、極右活動家で陰謀論者のローラ・ルーマーである。彼女はニュース媒体ポリティコに対し、エプスタイン事件には特別検察官を任命すべきだと述べている。パム・ボンディ司法長官、カシュ・パテル FBI 長官、ダン・ボンジーノ副長官はそれぞれ、エプスタインと繋がりのある有力者の秘密リストとされる「エプスタイン・ファイル」に関する不吉な陰謀論を煽っている。しかしパテルは FBI 長官に就任すると、期待を和らげようとした。曰く「エプスタイン事件に限らず、他のあらゆる問題についても、私たちは熱心に取り組んでいます。アメリカ国民が当然得るべきものを得るには、何年もの捜査、政治的駆け引き、そして隠蔽工作を経なければなりません。そして、私はあらゆる問題において、国民に当然の報いを与えるつもりです」云々。しかしその後、司法省と FBI は、顧客リストは存在せず、これ以上の情報は開示されないというメモを発表した。

Hot Mess
A protest group "Hot Mess" hold up signs of Jeffrey Epstein in NYC on July 8, 2019

MAGA の拠点の一部で激しい抗議が起こり、影響力のある右翼アナウンサーのアレックス・ジョーンズはこのニュースを聞いて泣き崩れたという。金曜日の保守系政治会議で FOX ニュースの司会者ローラ・イングラムはエプスタインについて聴衆を煽動した。「エプスタイン捜査の結果に満足している人はどれくらいいますか? 拍手してください」「調査結果に満足していない人はどれくらいいますか?」と。イングラムは群衆に対し、司法長官とボンジーノ氏の間には「家族間の不和」があったと語った。「自分が持っていないものを誇張したり、過剰な約束をして期待に応えられなかったりしないでください」と。パテルパテルFBI長官は以前の主張を否定したようで「陰謀論は真実ではないし、これまで一度も真実だったことはない」と語っている。トランプ大統領は、政権と支持者は誰も気にかけないジェフリー・エプスタインに時間とエネルギーを無駄にするべきではない」と主張している。しかしこの MAGA の亀裂に民主党はチャンスを見出している。ニューヨーク選出の民主党ハキーム・ジェフリーズ下院議員は「共和党はジェフリー・エプスタイン事件を公にしなかった。これはドナルド・トランプ、パム・ボンディ、そして MAGA 過激派がここ数年煽り立ててきた陰謀だった。そして今、そのツケが回ってきたのである」とほくそ笑んでいるようだ。下記リンク先はロイター通信社による世論調査で「トランプ政権が情報隠ぺい」が7割という結果が出たという記事(日本語)です。トランプ大統領がエプスタインのリストを頑なに拒否しているのは、自身が顧客だったからではないかという穿った意見もある。いずれにせよ、トランプ政権崩壊の火種になっているようだ。

Reuters ジェフリー・エプスタイン事件「トランプ政権が情報隠ぺい」7割=世論調査 | ロイター通信日本語版

2025年7月16日

何故アメリカはナチスドイツに原爆投下しなかったのか

Enola Gay

実のところ、これは複雑な問題である。簡単に言えば、原爆が実戦投入可能になる前に、ナチスドイツが先に降伏したということだが、それだけではない。ドイツが敗北するのが明らかになると、原爆開発のためのマンハッタン計画を指揮したことで知られるレズリー・グローヴス将軍は、科学者たちにプロジェクトを完了させるよう働きかけるのに実に苦労した。科学者の多くはヨーロッパ人で、ヨーロッパでそれが使われるのを嫌がり、あるいは率直に言って誰かがその原動力を得ることを懸念する者も少数いた。ウラン爆弾の設計は実際には1944年12月までに完成したが、最終的な処理と組み立てに遅れがあった。現実的に考えれば、おそらく2月には完成していただろう。1945年3月下旬にドイツが崩壊し始めると、必要性がなくなったように見え、ペースはさらに鈍化した。軍は爆弾を1つ以上欲しがり、3つを推し進めていた。リトルボーイは防弾装置と考えられており、広島での使用がその試金石となった。実際には、最初の爆弾は3月に準備が完了し投下されていたかもしれないが、フランクリン・ルーズベルト大統領が病気で、彼の許可がなければ実現できなかった。彼の死後、ハリー・トルーマン大統領はやることが山積みになり、ナチスドイツは1945年5月7日にフランスのランスで連合国に無条件降伏した。陸軍航空隊はリトルボーイをベルリン上空に投下しようとしたが、投下しなかった理由の一つは、ベルリンが既に廃墟と化しており、その威力を示すことができなかったためである。

Bockscar

ナチスドイツへの原爆爆撃隊の訓練は実際にはベルリンに集中しており、太平洋への移動準備を開始したのは6月になってからだった。ポール・ティベッツ空軍准将は1945年8月6日、広島に原爆リトルボーイを投下した B-29 爆撃機エノラ・ゲイの機長として知られているが、1944年12月以降、ナチスドイツには攻撃に値する都市は存在しないと公然と発言した。そのため、日本の主要な4つの攻撃目標都市は爆撃されずに残された。日本軍はこれに注目し、すべて軍事目標であったため奇妙に思ったのである。また、これらの都市はどれも規模が似ており、核爆弾で都市全体を破壊できるほどだった。ところで最初の原子爆弾の試作品は1945年7月17日、ニューメキシコ州南部のトリニティ・サイトでテストされた。次の爆弾はすぐに準備され、巡洋艦でテニアン島まで輸送するのに10日かかり、7月27日に到着し、8月6日に広島に投下された。続いて8月9日、B-29 爆撃機ボックスマンが原爆ファットマンを長崎に投下した。連合軍は1945年4月25日にベルリンを包囲、ドイツが降伏したのは上述の通り1945年5月7日だった。なぜナチスドイツに原爆を使えなかったのか、その問題が分かるだろうか? ナチスドイツとの戦争は、爆弾が使用可能になる数ヶ月前に終わっていたのである。つまり、爆弾を手に入れる前に戦争が終わってしまったら、爆弾で戦争を終わらせることはできないのである。下記リンク先は科学雑誌サイエンティフィック・アメリカンのジーナ・ブライナー編集長による記事「マンハッタン計画とは何だったのか? 1945年、日本の広島と長崎に投下された原爆は、マンハッタン計画によってもたらされた」です。

Nuclea Weapon What is the Manhattan Project? Atomic bombs dropped on Hiroshima and Nagasaki 1945

2025年7月14日

参院選 2025 自民党比例代表候補杉田水脈批判

杉田水脈
女性を叩く女性政治家 ©京都フォト通信

夕方になったら発言が朝と違っている。ドナルド・トランプの朝令暮改に世界中が混乱しているが、我が国の石破茂首相にもスケールが小さいもののその悪癖がある。2025年3月21日付け朝日新聞デジタル版によると、石破は院予算委員会で、自民党の杉田水脈(みお)前衆院議員が過去に述べた「女性はいくらでもウソをつける」などの発言について「強烈な違和感」があると語ったという。とこで参院選の蓋を開けてみたところ、おっとどっこい、比例代表の名簿にその名を連れているではないか。久しぶりに杉田水脈の名を目にした。水脈は父親が万葉集の「泊瀬川流水尾之湍乎早井提越浪之音之清久(初瀬川流るる水脈の瀬を速みゐで越す波の音の清けく)」からとったという。水脈は流れの深いところをさすそうだが、問題山積の言動はともかく確かに美しい名前ではある。石破政権から公認されなくても、今年の参院選へのくら替え出馬などの「あらゆる可能性を検討する」とし、政治活動を続ける考えを明らかにしたというが、ねがったりかなったりだろう。政治資金パーティーを巡る裏金事件で、清和政策研究会(旧安倍派)に所属していた彼女は2018~22年に安倍派から受け取った寄付金計1,564万円を政治資金収支報告書に記載しなかったとして、党役職停止6カ月の処分を受けた。山口県連は比例中国ブロック単独候補として党本部に公認申請したと発表した。第2次岸田改造内閣で総務政務官に、よりもよって過去に性的少数者をめぐる発言などが問題となった衆議員議員の杉田が起用された。

Anti LGBT Clipart
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問題は杉田が女性やマイノリティを過激な言葉で攻撃することで、政治家としての地位を得てきたという事実である。女性を叩く女性政治家を 国会議員にすることは避けなければならない。日本の右傾化の波に乗せては駄目なのである。杉田曰く「LGBT だからといって、実際そんなに差別されているものでしょうか」「LGBT のカップルのために税金を使うことに賛同が得られるものでしょうか。彼ら彼女らは子供を作らない、つまり『生産性』がないのです」云々。さらに「国や自治体が少子化対策や子育て支援に予算をつけるのは『生産性』を重視しているからです。生産性のあるものとないものを同列に扱うのは無理があります。これも差別ではなく区別です」とは恐れ入るが、これを繰り返し主張しているのである。「伊藤詩織氏の事件が、それらの理不尽な、被害者に全く落ち度がない強姦事件と同列に並べられていることに女性として怒りを感じます」「私は、女性差別というのは存在していないと思うんです。女子差別撤廃条約には、日本の文化とか伝統を壊してでも男女平等にしましょうというようなことが書いてあって、これは本当に受け入れるべき条約なのか」といった暴言を列挙したらキリがない。人間として如何なものかと思うが、こんな女性が国会議員であることに、この国の政治風土を嘆かざるを得ない。かつては日本維新の会に所属していたが、現在は自由民主党の議員である。時計の針を逆に回せば、極右ジャーナリストの櫻井よしこが故・安倍晋三に推薦し、安倍も杉田を気に入り出馬するに至ったというわけである。何のことはない、地下で水脈は繋がっている。安倍晋三の負のレガシーなのである。下記リンク先の文書は衆議院議員時代の「本会議発言一覧」(全期間)である。

国会 杉田水脈 衆議院議員「本会議発言一覧」(全期間)| 国会議員白書 | 国立国会図書館サーチ | 菅原琢