2025年9月8日

写真術における偉大なる達人たち

Boursa Kuwait
Andreas Gursky (born 1955) Stock Exchange II, Boursa Kuwait, 2007

2021年の秋以来、思いつくまま世界の写真界20~21世紀の達人たちの紹介記事を拙ブログに綴ってきましたが、2025年9月8日現在のリストです。右端の()内はそれぞれ写真家の生年・没年です。左端の年月日をクリックするとそれぞれの掲載ページが開きます。

21/10/06多くの人々に感動を与えたアフリカ系アメリカ人写真家ゴードン・パークスの足跡(1912–2006)
21/10/08グループ f/64 のメンバーだった写真家イモージン・カニンガムは化学を専攻した(1883–1976)
21/10/10圧倒的な才能を持ち現代アメリカの芸術写真を牽引したポール・ストランド(1890–1976)
21/10/11何気ない虚ろなアメリカを旅したスイス生まれの写真家ロバート・フランク(1924–2019)
21/10/13作為を排した新客観主義に触発されたストリート写真の達人ロベール・ドアノー(1912–1994)
21/10/16大恐慌時に農村や小さな町の生活窮状をドキュメントした写真家ラッセル・リー(1903–1986)
21/10/17日記に最後の晩餐という言葉を残して自死した写真家ダイアン・アーバスの黙示録(1923–1971)
21/10/19フォトジャーナリズムの手法を芸術の域に高めた写真家ユージン・スミスの視線(1918–1978)
21/10/24時代の風潮に左右されず独自の芸術観を持ち続けたプラハの詩人ヨゼフ・スデック(1896-1976)
21/10/27西欧美術を米国に紹介した写真家アルフレッド・スティーグリッツの功績(1864–1946)
21/11/01美しいパリを撮影していたウジェーヌ・アジェを「発見」したベレニス・アボット(1898–1991)
21/11/08近代ストレート写真を先導した 20 世紀の写真界の巨匠エドワード・ウェストン(1886–1958)
21/11/10芸術を通じて社会や政治に影響を与えることを目指した写真家アンセル・アダムス(1902–1984)
21/11/13大恐慌を記録したウォーカー・エヴァンスの被写体はその土地固有の様式だった(1903–1975)
21/11/16写真少年ジャック=アンリ・ラルティーグは個展を開いた 69 歳まで無名だった(1894–1986)
21/11/20ハンガリー出身の世界で最も偉大な戦争写真家ロバート・キャパの短い人生(1913–1954)
21/11/25児童労働の惨状を訴えるため現実を正確に捉えた写真家ルイス・ハインの偉業(1874–1940)
21/12/01マグナム・フォトを設立した写真家アンリ・カルティエ=ブレッソンの決定的瞬間(1908–2004)
21/12/06犬を人間のいくつかの性質を持っているとして愛撮したエリオット・アーウィット(1928-2023)
21/12/08リチャード・アヴェドンの洗練され権威ある感覚をもたらしたポートレート写真(1923–2004)
21/12/12デザインと産業の統合に集中したバウハウスの写真家ラースロー・モホリ=ナジ(1923–1928)
21/12/17ダダイズムとシュルレアリスムに跨る写真を制作したマン・レイは革新者だった(1890–1976)
21/12/29フォトジャーナリズムに傾倒したアラ・ギュレルの失われたイスタンブル写真素描(1928–2018)
22/01/10ペルーのスタジオをヒントに自然光に拘ったアーヴィング・ペンの鮮明な写真(1917-2009)
22/02/25非現実的なほど歪曲し抽象的な遠近感を生み出した写真家ビル・ブラントのカメラ(1904–1983)
22/03/09男性ヌードや花を白黒で撮影した異端の写真家ロバート・メイプルソープへの賛歌(1946–1989)
22/03/18ニューヨーク近代美術館で写真展「人間家族」を企画したエドワード・スタイケン(1879–1973)
22/03/24公民権運動の影響を記録したキュメンタリー写真家ブルース・デヴッドソンの慧眼(born 1933)
22/04/21社会的弱者に寄り添いエモーショナルに撮影した写真家メアリー・エレン・マーク(1940-2015)
22/05/20早逝した写真家リンダ・マッカートニーはザ・ビートルズのポールの伴侶だった(1941–1998)
22/06/01大都市に変貌する香港を活写して重要な作品群を作り上げたファン・ホーの視線(1931–2016)
22/06/12肖像写真で社会の断面を浮き彫りにしたドキュメント写真家アウグスト・ザンダー(1876–1964)
22/08/01スペイン内戦取材で26歳という若さに散った女性戦争写真家ゲルダ・タローの生涯 (1910–1937)
22/09/16カラー写真を芸術として追及したジョエル・マイヤーウィッツの手腕(born 1938)
22/09/25死と衰退を意味する作品を手がけた女性写真家サリー・マンの感性(born 1951)
22/10/17北海道の風景に恋したイギリス人写真家マイケル・ケンナのモノクロ写真(born 1951)
22/11/06アメリカ先住民を「失われる前に」記録したエドワード・カーティス(1868–1952)
22/11/16大恐慌の写真 9,000 点以上を制作したマリオン・ポスト・ウォルコット(1910–1990)
22/11/18人間の精神の深さを写真に写しとったアルゼンチン出身のペドロ・ルイス・ラオタ (1934-1986)
22/12/10アメリカの生活と社会的問題を描写した写真家ゲイリー・ウィノグランド(1928–1984)
22/12/16没後に脚光を浴びたヴィヴィアン・マイヤーのストリート写真(1926–2009)
22/12/23写真家集団マグナムに参画した初めての女性報道写真家イヴ・アーノルド(1912-2012)
23/03/25写真家フランク・ラインハートのアメリカ先住民のドラマチックで美しい肖像写真(1861-1928)
23/04/13複雑なタブローを構築するシュールレアリスム写真家サンディ・スコグランド(born 1946)
23/04/21キャラクターから自らを切り離したシンディー・シャーマンの自画像(born 1954)
23/05/01震災前のサンフランシスコを記録した写真家アーノルド・ジェンス(1869–1942)
23/05/03メキシコにおけるフォトジャーナリズムの先駆者マヌエル・ラモス(1874-1945)
23/05/05文学と芸術に没頭し超現実主義絵画に着想を得た台湾を代表する写真家張照堂(1943-2024)
23/05/07家族の緊密なポートレイトで注目を集めた写真家エメット・ゴウィン(born 1941)
23/05/22欲望やジェンダーの境界を無視したクロード・カアンのセルフポートレイト(1894–1954)
23/05/2520世紀初頭のアメリカの都市改革に大きく貢献したジェイコブ・リース(1849-1914)
23/06/05都市の社会風景という視覚的言語を発展させた写真家リー・フリードランダー(born 1934)
23/06/13写真芸術の境界を広げた暗室の錬金術師ジェリー・ユルズマンの神技(1934–2022)
23/06/15強制的に収容所に入れられた日系アメリカ人を撮影したドロシア・ラング(1895–1965)
23/06/20劇的な国際的シンボルとなった「プラハの春」を撮影したヨゼフ・コウデルカ(born 1958)
23/06/24警察無線を傍受できる唯一のニューヨークの写真家だったウィージー(1899–1968)
23/07/03フォトジャーナリズムの父アルフレッド・アイゼンシュタットの視線(1898–1995)
23/07/06ハンガリーの芸術家たちとの交流が反映されたアンドレ・ケルテスの作品(1894-1985)
23/07/08家族が所有する島で野鳥の写真を撮り始めたエリオット・ポーター(1901–1990)
23/07/08戦争と苦しみを衝撃的な力でとらえた報道写真家ドン・マッカラン(born 1935)
23/07/17夜のパリに漂うムードに魅了されていたハンガリー出身の写真家ブラッサイ(1899–1984)
23/07/2020世紀の著名人を撮影した肖像写真家の巨星ユーサフ・カーシュ(1908–2002)
23/07/22メキシコの革命運動に身を捧げた写真家ティナ・モドッティのマルチな才能(1896–1942)
23/07/24ロングアイランド出身のマルクス主義者を自称する写真家ラリー・フィンク(born 1941)
23/08/01アフリカ系アメリカ人の芸術的な肖像写真を制作したコンスエロ・カナガ(1894–1978)
23/08/04ヒトラーの地下壕の写真を世界に初めて公開したウィリアム・ヴァンディバート(1912-1990)
23/08/06タイプライターとカメラを同じように扱った写真家カール・マイダンス(1907–2004)
23/08/08ファッションモデルから戦場フォトャーナリストに転じたリー・ミラーの生涯(1907-1977)
23/08/14ニコンのレンズを世界に知らしめたデイヴィッド・ダグラス・ダンカンの功績(1907-2007)
23/08/18超現実的なインスタレーションアートを創り上げたサンディ・スコグランド(born 1946)
23/08/20シカゴの街角やアメリカ史における重要な瞬間を再現した写真家アート・シェイ(1922–2018)
23/08/22大恐慌時代の FSA プロジェクト 最初の写真家アーサー・ロススタイン(1915-1986)
23/08/25カメラの焦点を自分たちの生活に向けるべきと主張したハリー・キャラハン(1912-1999)
23/09/08イギリスにおけるフォトジャーナリズムの先駆者クルト・ハットン(1893–1960)
23/10/06ロシアにおけるデザインと構成主義創設者だったアレクサンドル・ロトチェンコ(1891–1956)
23/10/18物事の本質に近づくための絶え間ない努力を続けた写真家ウィン・バロック(1902–1975)
23/10/27先見かつ斬新な作品により写真史に大きな影響を与えたウィリアム・クライン(1926–2022)
23/11/09アパートの窓から四季の移り変わりの美しさなどを撮影したルース・オーキン(1921-1985)
23/11/15死や死体の陰翳が纏わりついた写真家ジョエル=ピーター・ウィトキンの作品(born 1939)
23/12/01近代化により消滅する前のパリの建築物や街並みを記録したウジェーヌ・アジェ(1857-1927)
23/12/15同時代で最も有名で最も知られていないストリート写真家のヘレン・レヴィット(1913–2009)
23/12/20哲学者であることも写真家であることも認めなかったジャン・ボードリヤール(1929-2007)
24/01/08音楽や映画など多岐にわたる分野で能力を発揮した写真家ジャック・デラーノ(1914–1997)
24/02/25シチリア出身のイタリア人マグナム写真家フェルディナンド・スキアンナの視座(born 1943)
24/03/21パリで花開いたロシア人ファッション写真家ジョージ・ホイニンゲン=ヒューン(1900–1968)
24/04/04報道写真家として自活することに成功した最初の女性の一人エスター・バブリー(1921-1998)
24/04/20長時間露光により時間の多層性を浮かび上がらせたアレクセイ・ティタレンコ(born 1962)
24/04/2820世紀後半のイタリアで最も重要な写真家ジャンニ・ベレンゴ・ガルディン(born 1930)
24/04/30トルコの古い伝統の記憶を守り続ける女性写真家 F・ディレク・ウヤル(born 1976)
24/05/01ファッション写真に大きな影響を与えたデヴィッド・ザイドナーの短い生涯(1957-1999)
24/05/08社会の鼓動を捉えたいという思いで写真家になったリチャード・サンドラー(born 1946)
24/05/10直接的で妥協がないストリート写真の巨匠レオン・レヴィンシュタイン(1910–1988)
24/05/12自らの作品を視覚的な物語と定義している写真家スティーヴ・マッカリー(born 1950)
24/05/14多様な芸術の影響を受け写真家の視点を形作ったアンドレアス・ファイニンガー(1906-1999)
24/05/16芸術的表現により繊細な目を持つ女性写真家となったマルティーヌ・フランク(1938-2012)
24/05/18ドキュメンタリー写真をモノクロからカラーに舵を切ったマーティン・パー(born 1952)
24/05/21先駆的なグラフ誌『ピクチャー・ポスト』を主導した写真家バート・ハーディ(1913-1995)
24/05/24グラフ誌『ライフ』に30年間投稿し続けたロシア生まれの写真家リナ・リーン(1914-1995)
24/05/27旅する写真家として20世紀後半の歴史に残る象徴的な作品を制作したルネ・ブリ(1933-2014)
24/05/29高速ストロボスコープ写真を開発したハロルド・ユージン・エジャートン(1903-1990)
24/06/03一般市民とそのささやかな瞬間を撮影したオランダの写真家ヘンク・ヨンケル(1912-2002)
24/06/10ラージフォーマット写真のデジタル処理で成功したアンドレアス・グルスキー(born 1955)
24/06/26レンズを通して親密な講釈と被写体の声を伝えてきた韓国出身のユンギ・キム(born 1962)
24/07/05演出されたものではなく現実的なファッション写真を開発したトニ・フリッセル(1907-1988)
24/07/07スウィンギング60年代のイメージ形成に貢献した写真家デイヴィッド・ベイリー(born 1938)
24/07/13著名人からから小さな町の人々まで撮影してきた写真家マイケル・オブライエン(born 1950)
24/07/14人々のドラマが宿る都市のカラー写真を制作したコンスタンティン・マノス(born 1934)
24/08/04写真家集団「マグナム・フォト」所属するただ一人の日本人メンバー久保田博二(born 1939)
24/08/08ロバート・F・ケネディの死を悼む人々を葬儀列車から捉えたポール・フスコ(1930–2020)
24/08/13クリスティーナ・ガルシア・ロデロが話したいのは時間も終わりもない出来事だ(born 1949)
24/08/30ドキュメンタリーと芸術の境界を歩んだカラー写真の先駆者エルンスト・ハース(1921–1986)
24/09/01国際的写真家集団マグナム・フォトの女性写真家スーザン・メイゼラスの視線(born 1948)
24/09/09アパルトヘイトの悪と日常的な社会への影響を記録したアーネスト・コール(1940–1990)
24/09/14宗教的または民俗的な儀式に写真撮影の情熱を注ぎ込んだラモン・マサッツ(1931-2024)
24/09/23アメリカで最も有名な無名の写真家と呼ばれたエヴリン・ホーファー(1922–2009)
24/09/25自身を「大義を求める反逆者」と表現した写真家マージョリー・コリンズ(1912-1985)
24/09/27北海道の小さな町にあった営業写真館を継がず写真芸術の道を歩んだ深瀬昌久(1934-2012)
24/10/01現代アメリカの風変わりで平凡なイメージに焦点を当てた写真家アレック・ソス(born 1969)
24/10/04微妙なテクスチャーの言語を備えた異次元の写真を追及したアーサー・トレス(born 1940)
24/10/06オーストリア系イギリス人のエディス・チューダー=ハートはソ連のスパイだった(1908-1973)
24/10/08映画の撮影監督でもあったドキュメンタリー写真家ヴォルフガング・スシツキー(1912–2016)
24/10/15芸術のレズビアン・サブカルチャーに深く関わった写真家ルース・ベルンハルト(1905–2006)
24/10/19ランド・アートを通じて作品を地球と共同制作するアンディ・ゴールドワージー (born 1956)
24/10/29公民権運動の活動に感銘し刑務所制度の悲惨を描写した写真家ダニー・ライアン (born 1942)
24/11/01人間の状態と現在の出来事を記録するストリート写真家ピータ―・ターンリー (born 1955)
24/11/04写真を通じて現代の社会的状況を改善することに専念したアーロン・シスキンド(1903-1991)
24/11/07自然と植物の成長にインスピレーションを受けた写真家カール・ブロスフェルト(1865-1932)
24/11/09ストリート写真で知られているリゼット・モデルは教える才能を持っていた(1901-1983)
24/11/11カラー写真が芸術として認知されるようになった功労者ウィリアム・エグルストン(born 1939)
24/11/13革命後のメキシコ復興の重要人物だった写真家ローラ・アルバレス・ブラボー(1903-1993)
24/11/15チリの歴史上最も重要な写真家であると考えられているセルヒオ・ララインの視座(1931-2012)
24/11/19イギリスのアンリ・カルティエ=ブレッソンと評されたジェーン・ボウン(1925-2014)
24/11/25カラー写真の先駆者ソール・ライターは戦後写真界の傑出した人物のひとりだった(1923–2013)
24/11/25サム・フォークがニューヨーク・タイムズに寄せた写真は鮮烈な感覚をもたらした(1901-1991)
24/11/29ゲイ解放運動の活動家だったトランスジェンダーの写真家ピーター・ヒュージャー(1934–1987)
24/12/01複数の芸術的才能に恵まれていた華麗なるファッション写真家セシル・ビートン(1904–1980)
24/12/05ライフ誌と空軍で活躍した女性初の戦場写真家マーガレット・バーク=ホワイト(1904–1971)
24/12/07愛と美を鮮明に捉えたロマン派写真家エドゥアール・ブーバの平和への眼差し(1923–1999)
24/12/10保守的な政治体制と対立しながら自由のために写真を手段にしたエヴァ・ペスニョ(1910–2003)
24/12/15自然環境における人間の姿を研究することに関心を寄せた写真家マイケル・ぺト(1908-1970)
24/12/20ベトナム戦争中にナパーム弾攻撃から逃げる子供たちを撮影したニック・ウット(born 1951)
25/01/06記録映画の先駆者であり前衛映画製作者でもあった写真家ラルフ・スタイナー(1899–1986)
25/01/10アメリカ西部を占める文化の多様性を反映した写真家ローラ・ウィルソンの足跡(born 1939)
25/01/15フランスの人文主義写真運動で活躍したスイス系フランス人ザビーネ・ヴァイス(1924–2021)
25/02/03サルバドール・ダリとの共作でシュールな写真を創出したフィリップ・ハルスマン(1906–1979)
25/02/06ベトナム戦争に対する懸念を形にした写真家フィリップ・ジョーンズ・グリフィス(1936-2008)
25/02/18芸術に複数の糸を持っていたシュルレアリスムの写真家エミール・サヴィトリー(1903-1967)
25/03/19シュルレアリスムの先駆的な写真家でピカソのモデルで恋人だったドラ・マール(1907-1997)
25/03/25ホロコースト前の東欧のユダヤ人社会を記録した写真家ローマン・ヴィスニアック(1897-1990)
25/04/01ソーシャルワーカーからライフ誌の専属写真家に転じたウォレス・カークランド(1891–1979)
25/04/04写真家ビル・エプリッジは20世紀で最も優れたフォトジャーナリストの一人だった(1938-2013)
25/04/25ロバート・キャパの弟で総合施設国際写真センターを設立したコーネル・キャパ(1918-2008)
25/05/01激動1960年代の音楽家たちをキャプチャーした写真家エリオット・ランディの慧眼(born 1942)
25/05/23生まれ故郷ブラジルの熱帯雨林アマゾン川流域へのセバスチャン・サルガドの視座(1944-2025)
25/06/22風景への畏敬の念と激動の気象現象への驚異が伝わるミッチ・ドブラウナーの写真(born 1956)
25/07/26ティンタイプ写真でアパラチアの伝承音楽家に焦点を当てたリサ・エルマーレ(born 1984)
25/08/03色彩の卓越した表現を通して写真というジャンルを超越したデビッド・ラシャペル(born 1963)
25/08/20ヨーロッパ解放やコンゴ紛争などでの勇敢な取材で知られるドミトリ・ケッセル(1902–1995)
25/08/25長大吊り橋を撮影したピーター・スタックポールはライフ誌創刊の写真家になった(1913-1997)
25/09/08アパラチアや南東部の農村地帯の人々の肖像写真で知られているドリス・ウルマン(1882-1934)

子供の頃「明治は遠くなりにけり」という言葉を耳にした記憶がありますが、今まさに「20世紀は遠くなりにけり」の感があります。掲載した作品の大半がモノクロ写真で、カラー写真がわずかのなのは偶然ではないような気がします。20世紀のアートの世界ではモノクロ写真が主流だったからです。しかしデジタルカメラが主流になった21世紀、カラー写真の台頭に目覚ましいものがあります。ジョエル・マイヤーウィッツとサンディ・スコグランド、ジャン・ボードリヤール、 F・ディレク・ウヤル、マーティン・パー、コンスタンティン・マノス、久保田博二、ポール・フスコ、エルンスト・ハース、エヴリン・ホーファー、アレック・ソス、アンディ・ゴールドワージー、ウィリアム・エグルストン、ソール・ライタ、などのカラー作品を取り上げました。

photographer  Famous Photographers: Great photographs can elicit thoughts, feelings, and emotions.

2025年9月7日

アパラチアや南東部の農村地帯の人々の肖像写真で知られているドリス・ウルマン

ChainGang
Chain gang, South Carolina, 1929-31
Doris Ullmann

ドリス・ウルマンは1882年5月29日、バーンハード・ウルマンとガートルードの娘としてニューヨークに生まれた。民族的背景や経済状況に関わらず個人の価値を擁護する、社会的にリベラルな団体であるエシカル・カルチャー・フィールズトン・スクールおよびコロンビア大学で教育を受け、心理学の教師になることを志した。教師になるための訓練を受けていた時に写真に興味を持つようになった。当時、同校ではルイス・ハインが講師を務めていた。コロンビア大学でクラレンス・H・ホワイトに師事し写真の授業を受け、1913年から1917年にかけてホワイト写真学校で学ぶ。1918年、写真家としての道を進むことを決意し、スタジオでのポートレート撮影に専念した。ピクトリアリズム(絵画主義写真)に影響を受けた彼女のポートレートは『アメリカ人編集者の肖写真肖像画ギャラリー』(1925年)などの書籍や『アメリカのピクトリアリズム』や『写真の時代』(1920年)などの雑誌に掲載された。1925年頃、アメリカ合衆国で都市化と近代化が進むにつれ、ウルマンは田舎の伝統や民間伝承の保存に関心を持つようになった。彼女はアパラチア地方南部やペンシルベニア州、バージニア州、ニューヨーク州を広く旅し、ダンカード、シェーカー、メノナイトのコミュニティを撮影した。彼女は旅のパートナーである民謡収集家ジョン・ジェイコブ・ナイルズといくつかのプロジェクトで共同作業を行った。

Church-congregation
Church congregation

ナイルズも同様のプロジェクトに取り組んでおり、アメリカのフォークソングと音楽の伝統を研究テーマにしていた。ウルマンはジュリア・ピーターキンの小説『ロール、ジョーダン、ロール』(1933年)の写真を撮影した。この小説は、サウスカロライナ州にあるピーターキンのラング・サイン・プランテーションに住むアフリカ系アメリカ人ガラ族の生活を描いている。ウルマンは亡くなるまで、南部を旅し、写真を撮り続けた。彼女が1927年から1934年にかけて撮影した、ヴァージニア州、ケンタッキー州、テネシー州、ジョージア州、サウスカロライナ州のアパラチア地方の人々を捉えた写真は、彼女の最も有名な作品である。しばしば理想化された描写ではあるものの、彼女の精巧にプリントされた写真は、当時のアフリカ系アメリカ人と南部白人の民俗生活を記録する貴重な資料となっている。彼女の写真は、こうした伝統のわずかな証拠の一つであるだけでなく、アメリカの写真肖像画におけるピクトリアリズムからストレート写真への重要な転換を象徴している。

Harvesting vegetabl
Harvesting vegetables, South Carolina

ウルマンは、20世紀初頭のアメリカ人写真家の中でも特に著名な人物ではないものの、最も興味深い人物の一人である。ニューヨーク生まれの彼女は、1915年頃から1934年に亡くなるまで、主に肖像画家として活躍した。初期の頃はマンハッタンのアパートで非公式の肖像画スタジオを経営していたが、亡くなる前の7年間は、アメリカ東部、特にアパラチア地方や南東部の農村地帯を旅し、人々を撮影することに多くの時間を費やした。ウルマンの写真家としての進化――スタイルと被写体の両面において――は、同世代の写真家の中でも特異な存在である。ウルマンはアルフレッド・スティーグリッツや他の当時勃興しつつあったアメリカのモダニズム運動に自分を同調させようとはしなかったし、学者や批評家も一般的には彼女の作品をモダニズム的だとは考えていなかった。では、なぜウルマンの作品に関してモダニズムを持ち出すのか。その答えは、アメリカにおけるモダニズムの歴史とその定義をめぐる多くの懸念を伴っている。

Two boys
Two boys lugging bale of cotton

21世紀の最初の数十年間で、学問の世界では、ヨーロッパの芸術的潮流に基づく一連の形式的な躍進によってのみ限定されるモダニズムの定義からの転換が見られた。その代わりに、歴史家や美術館は、アメリカン・シーンや地域主義的絵画、独学の芸術家の作品など、以前は定義から除外されていたジャンルを含め、モダニズムのより広範な定義を提示し始めている。写真史に関するより広範な文献で時折言及されていることを除けば、ウルマンの作品をめぐる現在の議論の多くは、伝記的なもの、あるいは一般的な性質のものだった。ピクトリアリズムとモダニズムと呼ばれるものとの間に溝が深まったにもかかわらず、20世紀初頭の数十年間には、これらのグループに属する人々の間では相当な交流があり、ウルマンもその一人であった。彼女は生涯を通じて、イモージェン・カニンガム、エドワード・スタイケン、マン・レイ、エドワード・ウェストン、チャールズ・シーラーといった、厳格なモダニストとされる多くの写真家たちと共に展示を行った。

Group
Group, 1929-31

彼女の作品は、伝統的なピクトリアリズムを構成する典型的な信条によって形作られてはいなかった。彼女の師であり著名なピクトリアリストであるクラレンス・H ・ホワイトが実践したような、雰囲気があり、演出され、タブロー・ヴィヴァン(生きたタブロー)のようなイメージを、彼女はめったに生み出さなかった。約20年間の制作期間を経て、ウルマンの作品は、ぼかしや柔らかなエッジなど、ピクトリアリズムの典型的な特徴のいくつかを示すものから、より鮮明で、シャープで、より合理的な美学へと変化していったのである。ルマンは1934年8月にノースカロライナ州アッシュビル近郊で作業中に倒れ、ニューヨークに戻る。1934年8月28日に夭折、52歳だった。下記リンク先はニューヨークの国際写真センターによるドリス・ウルマンのバイオグラフィーと作品アーカイブです。

ICP  Doris Ulmann (1884–1934) | Biography | Archives | International Center of Photography

2025年9月6日

ワクチン制限の動きをめぐる上院公聴会で超党派の反発を受けるケネディ保健福祉長官

Robert Death Kennedy
Robert Death Kennedy © 2025 Paolo Calleri

アメリカのロバート・F・ケネディ・ジュニア保健福祉長官は、新型コロナワクチンへのアクセスを限定的にすると発表し CDC(疾病対策センター)の新所長スーザン・モナレスを解雇した。同センターの高官の大量退職につながるなど、非常に混乱した1週間半を経て、上院財政委員会に出席した。約3時間にわたる質疑応答で、ケネディは前回の上院公聴会よりもワクチン反対の意見を声高に主張し、専門家が公衆衛生に深刻な損害を与える可能性があると警告している極端な立場を再び支持しているように見えた。ドナルド・トランプ大統領ははコロラド州選出の民主党マイケル・ベネット上院議員に対し、ファイザー社とモデルナ社の新型コロナワクチンに使用されている新しいタイプの mRNA 技術を用いて開発されたワクチンは、死亡を含む深刻な害をもたらすと考えていると述べた。その後、共和党トム・ティリス上院議員とのやり取りでも、この発言を改めて強調した。ケネディのワクチン批判は両党からの非難を招いた。共和党議員数名は、ケネディと大統領の最初の任期における最大の功績の一つである、新型コロナウイルスワクチンの最初の接種を迅速に開発し配布するための官民連携プログラム「オペレーション・ワープ・スピード」との間の隔たりを強調しようとした。共和党ビル・キャシディ上院議員はトランプがこの取り組みでノーベル賞に値するかと質問したが、ケネディは「もちろんです」と答えた。そして「「あなたはチルドレンズ・ヘルス・ディフェンスの主任弁護士として、新型コロナウイルスワクチンへのアクセス制限を試みる複数の訴訟に携わってきました」とキャシディは答えた。「弁護士としてアクセス制限を試みたにもかかわらず、オペレーション・ワープ・スピードを高く評価していることに改めて驚いています」とも。

Doctor Giving Vaccin
Doctor Giving Vaccine Injection To Patient

キャシディはケネディの承認投票で重要な票を投じたが、その後もケネディの決定の一部に批判的な姿勢を示している。彼はまた保守系トークショー司会者のエリック・エリクソンの X への投稿を読み上げた。エリクソンの妻はステージ4の肺がんを患っており、エリクソンによると現在の保健福祉省の混乱のせいで新型コロナワクチンを接種できなかったという。共和党ジョン・バラッソ上院議員は、CDCの混乱を指摘し、テキサス州西部での麻疹流行に対するケネディの対応に疑問を呈した。流行の間、ケネディはワクチン接種のメリットを軽視し、効果が実証されていない治療法を推進した。「ケネディ長官、あなたは承認公聴会でワクチンの最高水準を維持すると約束されました」「それ以来、私は深い懸念を抱くようになりました」とバラッソは述べた。バラッソは上院で多数党院内幹事を務めており、医師でもある同氏のワクチンに対する熱烈な擁護と一連の質問は注目に値するものだった。ティリスは、ケネディの言葉と行動の間に矛盾があると彼が言ういくつかの例を指摘した。その中にはケネディが自分の信念を他人に押し付けないと約束したにもかかわらず CDC 所長を解雇し、5億ドルの mRNA 研究契約をキャンセルし、CDCのワクチン諮問委員会の長年のメンバーを解任したことなどが含まれる。「保健福祉省の科学者に職務遂行の権限を与えるとおっしゃいましたね。実際にそれを実行した証拠を見せていただきたいです」とティリスは述べた。CDCの混乱、特にモナレスの解雇は、民主党と共和党双方にとっての争点となった。公聴会の直前にウォール・ストリート・ジャーナルに掲載された論説記事で、モナレスは、ワクチンに懐疑的な見解を示すワクチン諮問委員会の勧告を事前に承認するよう指示された後に解雇されたと述べた。下記リンク先は AP 通信の記事「上院公聴会でのロバート・F・ケネディ・ジニアの虚偽と誤解を招く主張に注目」です。

AP A look at false & misleading claims made by Robert F. Kennedy Jr. during Senate hearing

2025年9月4日

イスラエル人はガザ戦争とパレスチナの苦しみをどう見ているのか

 malnourished child
Yazan Abu Ful, a two-year-old malnourished child, sits with his father in Gaza ©2025 Jehad Alshrafi

イスラエルがガザ地区に引き起こしている飢餓に対し世界的な怒りが高まっている。しかしイスラエル民主研究所の世論調査によると、イスラエルのユダヤ系回答者の半数以上が、ガザ地区のパレスチナ人が飢え、苦しんでいるといという報道に「全く困惑していない」と回答したという。かつてイスラエルのガザ戦争を支持していると非難されていた国際紙の一面には、イスラエルの行動による莫大な人命損失を示す写真が掲載されている。しかしイスラエルの極右扇動者集団は明らかに世界の怒りを無視して、飢餓に苦しむガザ地区への救援トラックの到着を阻止した。カナダ、フランス、イギリスなどかつての忠実な同盟国はイスラエルとガザ地区におけるその行動を非難し、何らかの解決に至らない場合はパレスチナ国家を承認すると約束している。イスラエル社会の大部分は、ガザ地区の人道危機の深刻さと、それを引き起こしているイスラエル政府の役割についてまだ広く認識していないという。ガザの苦しみが主流メディアで取り上げられていないため、特にそうである。カタールの衛星放送局アルジャジーラによると、イスラエルの某住民は「私はイスラエルのテレビを避けています」「でも、昨日母の家に行ったら、2人の捕虜のビデオのニュースが報道されていました」と語った。「それで、やっとガザでの飢餓と飢饉んイスラエルのニュースで報じられたのです」と彼女は語り、ガザ地区で飢餓が存在することを否定する代わりに、より広範なイスラエル国民には、そこで飢えているのはハマスの映像に出てくる捕虜のたった二人だと伝えられている、と付け加えた。ここ数ヶ月、イスラエルの主流メディアは、多数の援助機関が記録している広範囲にわたる飢餓は「ハマスが画策した飢餓キャンペーン」だと主張してきた。政治アナリストで元政府顧問のダニエル・レヴィはアルジャジーラに対し、こうした認識はイスラエルの国家主義的なテレビ局による枠組みよりも根深いものだと語った。

Demonstrators against Benjamin Netanyahu in Tel Aviv ©2025 Sandra Mehl

すなわち「これは何十年にもわたる自己正当化と非人間化から生じている」「イスラエル人の大半は、自国に対する何らかの道徳的批判をすることに抵抗を感じるでしょう。しかしそれでも何かがひどく間違っているという感覚は持ち合わせています。ある種の認知的不協和が、彼らにその状況を理解する助けとなっているのです」とレヴィは指摘する。さらに政治家、メディア、そして最終的には一般大衆が戦争を議論する際に使用する言語もあるとイスラエルの社会学者イェホウダ・シェンハブ・シャフラバニは述べた。「彼らは言葉を歪めました。『強制収容所』の代わりに『人道都市』と言い、『殺害』の代わりに『排除』と言います。あらゆる軍事作戦には聖書に由来する名前があり、今ではそれを時間の尺度として使っています」云々。しかし、大半のイスラエル人はガザの飢餓をメディアや政治家のレンズを通して見続けているが、その周辺では雰囲気が変わり始めている兆候がある。「ガザには実際に飢餓が存在していることを人々がますます理解し始めています。イスラエルが今、食糧支援に大騒ぎしているのなら、これまで飢餓の原因がイスラエルになかったはずがありません」と観察者は糾弾している。しかし2023年10月以降6万1,000人以上のパレスチナ人が殺害され、さらに数千人が瓦礫の下敷きになり死亡したと推定されているにもかかわらず、イスラエル社会の多くは、イスラエルがガザに与えている苦しみが現実であることをまだ受け入れていない。 「私の見解では、イスラエル国家と社会はホロコーストの結果、これまで持っていた道徳的権利をすべて失った地点に到達した」「 彼らはそれに関連する象徴的な資本をすべて費やしました」とイスラエルの社会学者シェンハヴ・シャフラバニは踏み込んでいる。下記リンク先はエルサレムを拠点とするガーディアン紙のチーフ中東特派員エマ・グラハム=ハリソンのリポート「イスラエルの抗議者がガザでの戦争終結を求めて『決裂の日』を開催」です。

The Guardian   Israeli protesters stage ‘day of disruption’ calling for end to war in Gaza Strip | Gardian

2025年9月3日

ドナルド・トランプ大統領の Truth Social への投稿は Truth ではない

Trump's Profile Image
トランプ大統領のプロフィール画像

ドナルド・トランプ大統領ほどソーシャルメディアを活用した政治指導者はいない。しかし2022年に彼が設立したソーシャルメディアプラットフォーム Truth Socia における最近の投稿は、ますます奇妙になっている。同プラットフォームのユーザー基盤が小さく、監視が緩いことを逆手に取って、大統領はまさに奔放な発言をしている。就任以来の何百もの「真実」の中で、トランプ大統領は、貿易戦争の結果株価が暴落する中 Truth Social を利用して自らを再び王様として思い描き、アメリカ国民に「冷静に」と促してきた。トランプ大統領は大文字、句読点、不正確なスペルをメッセージ全体で一貫してランダムに使用しているだ。トランプの投稿は、大きく分けて3つのカテゴリーに分類される。敵とみなす人物への攻撃、称賛のリポスト、そして家族のグループチャットに高齢の親戚が映っているような、文脈のない自身の画像や動画の投稿だ。トランプは大統領就任後224日経った9月1日現在、問題に直面している。怒りは爆発するが、統治はできないのだ。裁判官、あるいはトランプ大統領が言うところの「極左裁判官」たちは特に批判にさらされており、大統領は通常の礼儀を無視して、正当な手続きを経ずに人々を国外追放するのを許さない司法関係者を激しく非難している。「我が国の裁判所はどうなっているのか? 完全に制御不能だ」とトランプ大統領は4月18日、政府は正当な手続きなしに外国人を出身国以外の国に強制送還することはできないとする判事の判決に反応して書いた。

その後トランプはジョー・バイデン前大統領が24時間以内に50万人以上の不法移民をアメリカに飛行機で送り込んだという驚くべき虚偽の主張をし「この過激派判事はジョー・バイデンが50万人以上の不法移民をたった1日でアメリカに送り込めると言っている。だが、全員を帰国させるには何年もかけて長く退屈な裁判を開かなければならない」とと付け加えた。述べている。しかしトランプのTruth Socialアカウントには、時折、心温まる瞬間が見られる。例えば、フランシスコ教皇の死をドナルド・トランプほど敬意をもって扱った人物はいないだろう。「メラニアと私はローマで行われるフランシスコ教皇の葬儀に参列します。出席できるのを楽しみにしています!」とトランプは教皇の死去から数時間後に投稿した。続いてホワイトハウスで行ったスピーチの動画を投稿し、イースターバニーの隣に立ちながら教皇を「良い人」と称賛した。投稿は目まぐるしく、トランプは Truth Social に1日に10回以上も頻繁に書き込み、時折「理想の独身者」や「国際的な独身者」の広告が目につく程度だ。法の支配への不満や個人的な恨み節といった言葉が飛び交う中、トランプは時折 Truth Social を利用していない人々、つまりほとんどの人にとって知っておいて損のない情報を発信している。下記リンク先はニューヨークタイムズ紙の「ソーシャルメディア Truth Social はトランプに公式の代弁者と収入源を与えた」です。

New York Times  Truth Social Trump Has Official Mouthpiece & Channel for Revenue | The New York Times

2025年9月1日

降伏文書調印式の戦艦ミズーリ乗艦記念カード

Japanese surrender on board the USS Missouri
東京湾のアメリカ海軍戦艦ミズーリの甲板で行われた降伏文書の調印式 ©1945 カール・マイダンス
戦艦ミズーリ乗艦記念カード(1945年9月2日)

第二次世界大戦における日本の降伏は、昭和天皇が「玉音放送」をして日本政府がポツダム宣言の受諾したことを公表した、1945年8月15日だったというのが一般的な認識だと思われる。いわゆる「終戦の日」である。しかし日本政府及び連合国代表が降伏文書に調印した日は、1945年9月2日だった。連合国ではこの日を「対日戦勝記念日」としている。イギリス海軍太平洋艦隊司令官ブルース・フレーザー海軍大将は、8月16日にアメリカ海軍戦艦ミズーリ(BB-63)に乗艦、同8月21日に東京に上陸する占領部隊のため200名の士官及び兵士を戦艦アイオワに移乗させた。その後8月29日に降伏調印式準備のため東京湾に入った。降伏文書調印式は、9月2日に東京湾に停泊中の戦艦ミズーリの甲板上で行われ、アメリカ、イギリス、フランス、オランダ、カナダ、ソビエト連邦、オーストラリア、ニュージーランド、中華民国が調印して日本の降伏を受け入れた。写真は同艦に乗艦していた乗組員に配られた記念カードである。

山本五十六(1941年12月22日号)

大きさは3.75x2.5インチ、シップフィッターのドナルド・G・ドロッディがデザイン、艦内の印刷所で制作された。日本帝国海軍の象徴である旭日旗をバックに授与されたジャスパー・T・エイカフ提督の名前がタイプされているのが見える。そしてスチュアート・S・マレー大尉、ダグラス・マッカーサー元帥、チェスター・W・ニミッツ艦隊提督、ウィリアム・F・ハルジー提督のサインが印刷されている。時計の針を戻してみよう。連合艦隊司令長官の山本五十六の立案により日本帝国海軍は1941年12月8日、日本時間午前3時19分に真珠湾奇襲を開始、米軍艦隊に大打撃を与えた。そしてフィリピンへの攻撃開始、英国領である香港への攻撃開始、12月10日のギリス海軍東洋艦隊に対するマレー沖海戦など、連合国軍に対する戦いで、日本軍は大勝利を収めた。これらの作戦は、これに先立つ11月6日に、海軍軍令部総長の永野修身と同じく陸軍参謀総長の元により上奏された対連合軍軍事作戦である「海軍作戦計画ノ大要」の内容にほぼ沿った形で行われた。しかし1945年に至ると、連合軍は沖縄本島への上陸作戦を行った。そして沖縄へ海上特攻隊として向かった戦艦大和以下はアメリカ軍機動部隊の攻撃によって壊滅、残された攻撃手段は特攻機による特攻のみとなってしまったのである。アメリカの国力が圧倒的上回っていたことが自明の理であったことは開戦時から分かっていた負けるべくして負けた戦争だったのである。降伏文書調印式があらかじめ予定されていたとはいえ、アメリカ海軍の戦艦ミズーリ乗艦記念カードの配布は、戦勝国ゆえの「余裕」の象徴と言えそうだ。下記リンク先はアメリカ海軍歴史遺産司令部の「日本軍の降伏式典を記念した記念カード(1945年9月2日)」です。

historian  Souvenir Cards from COMSUBRON for Japanese Surrender Ceremony, 2 September 1945

2025年8月30日

ファシズムがアメリカにやって来た

Cartoon of Donald Trump

以下に引用したアーティクルはこの風刺漫画の作者ダニエル・メディナが添えた嘆息の抄訳である。ドナルド・トランプはアメリカ人が選んだアメリカの大統領だが、支持率が若干下がっているものの、岩盤支持層に支えられている。しかし強く反発する主権者も多い。アメリカ国内ばかりではなく、世界中に迷惑の風を送っている。それにも関わらず、各国がトランプ詣でをしてご機嫌伺いしている現状が嘆かわしい。

私たち社会はファシズムがアメリカにやって来るのではなく、ここに来ているという事実を受け入れなければなりません。トランプは警察を国有化すると同時に、威嚇、支配、そして存在感を示すためだけに、州兵を民主党支持の都市に派遣しています。彼は過去に選挙を弱体化させ、今度は将来の選挙が違法に歪められるように仕向けています。彼は適正手続きなしに人々を逮捕し、判決を下しています。毎日、違法であるだけでなく、明らかに違憲である新たな行動をとっているように見えます。彼はDOGE(大統領直属の大統領)にすべての選挙を監督させようとしています。彼と彼の政党は単一行政理論を支持しており、これは大統領に対する抑制と均衡を信じていないことを意味します。彼は規制システムと社会保障網を解体しようとしています。彼は職場保護を廃止しようとしています。彼は彼に好意的に報道しない報道機関の免許を取り消したいと考えています。彼は文字通り、歴史を書き換え、博物館のコンテンツを自分のアジェンダに合うようにコントロールしようとしています。彼はいつも独裁者だと冗談を言います。誰かが自分が誰なのかを明かしたら、信じてください。これは教科書通りの権威主義的アジェンダです。(ダニエル・メディナ

下記リンク先はオランダのアムステルダムを拠点とする風刺漫画とコミックジャーナリズムのグローバルオンラインプラットフォーム Cartoon Movement の公式サイトです。

cartoon movement  A global platform for editorial political cartoons and comics journalism | Cartoon Movement

2025年8月27日

石破茂首相はなぜ自民党内で嫌われるのか

Prime Minister Shigeru Ishiba
渦中の石破茂首相 ©2025 京都フォト通信

自民党内の「石破おろし」が政局になっている。底流には石破茂首相が党内で敬遠されているという現実があるからだ。自民党が下野した時期にも党の再生に尽力するなど、党に対する貢献度が高いと評価されてきた。しかしその一方で党の主流派とは異なる独自の政治的主張を貫く姿勢や、派閥の論理にとらわれない行動が、党内での孤立を招いたとされている。派閥政治が根強い自民党において、一時は自らの派閥である「水月会」を率いたものの、最終的に解消するに至るなど、派閥とは一線を画すスタンスが、組織的な支持を得にくい要因となっている。また自身の信念に基づき、時に党の方針や主流派を批判するような「正しいことを言う」言動が目立った。これは国民からは評価される一方、党内からは「身内を傷つける」と受け取られしまい、不信感につながることがあった。政治の世界では、政策だけでなく人間関係も重要になる。石破は周囲に「総理になりたい、だから力を貸してくれ」と素直に言えないタイプだと評されたり、安倍晋三元首相をはじめとする特定の政治家との関係が悪化したりするなど、人間関係の構築が苦手であるという指摘がされてきた。

自民党旗
自民党の標章

これらの要因が複合的に絡み合い、党内での広範な支持を得られなかった背景にあると考えられる。これらの理由から、国民からの人気は高いにもかかわらず、長らく自民党の総裁にはなれない状況が続いていた。ところが参院選の結果を受けて進退が取り沙汰されている石破茂首相の続投を求め「石破辞めるな」と書かれたプラカードなどを掲げたスタンディングデモがで行われたのである。この動きはソーシャルメディアに継承され石破茂相の「追い風」になっているという。いかに少数与党とはいえ「首班指名選挙」では自民党総裁が選ばれると想像される。自民党支持者でないので、同党の動きには基本的には関心がないが、そうは言っている場合ではない。首相になった途端に前言を翻すことが増えたことが気になる。杉田水脈(みお)前衆院議員が過去に述べた「女性はいくらでもウソをつける」などの発言について「強烈な違和感」があると語ったが、参院選の蓋を開けてみたところ、比例代表の名簿にその名を連れていたのが記憶に新しい。いわば「不言実行」ならぬ「有言不実行」である。これまでは「自民党内で嫌われている」ことが国民の支持の理由だったのに、これではこれまで支持してきた国民からも嫌われてしまうかもしれない。

AERA  自民党大解剖 | 溶解か再生か | 11月で結党70年を迎える自民党は「包括政党」と呼ばれているが…

イスラエルによるガザのジャーナリスト殺害は世界から非難を浴びている

Mourners
パレスチナ人カメラマンのフッサム・アル・マスリの遺体を運ぶ人たち ©2025 ロイター

イスラエル軍がガザ地区でアルジャジーラのカメラマンを含むパレスチナ人ジャーナリスト6人を殺害したことは世界から非難を浴びており、アルジャジーラ・メディア・ネットワークはイスラエルが「真実を封じるための組織的な作戦の一環としてジャーナリストを暗殺している」と非難している。イスラエル軍は月曜日、ハーン・ユニスのナセル病院を爆撃し、アルジャジーラの写真家モハメド・サラマ氏を含むジャーナリスト5人を殺害した。南ガザ地区の主要医療施設に対する「ダブルタップ」攻撃(最初に1発のミサイルが着弾し、救助隊員とジャーナリストが到着した直後にもう1発が着弾)により、合計21人が死亡した。この攻撃は、先週飢饉が宣言されたにもかかわらず、イスラエルが人口230万人の飛び地の主要都市中心地であるガザ市を占領するために攻勢を強めている中で行われた。イスラエルのベンヤミン・ネタニヤフ首相は、この攻撃は「悲劇的な事故」だと主張した。

Al_Jazeera

イスラエル軍は同日遅くガザ地区南部のハーン・ユニスで別のジャーナリストを殺害し、ジャーナリストの死者数は6人となった。アルジャジーラは月曜日の声明で、「真実を封じ込めるための組織的な作戦の一環として、ジャーナリストを直接標的にし暗殺したイスラエル占領軍によるこの恐ろしい犯罪を非難する」と述べた。同ネットワークは「ガザで殉教したジャーナリストたちの血が乾かないうちに、イスラエル占領軍はアルジャジーラのカメラマン、モハメド・サラマ氏と他のフォトジャーナリスト3人に対して新たな犯罪を犯した」と述べた。これは、わずか2週間前にイスラエルがアルジャジーラの著名なジャーナリスト、アナス・アル・シャリフ氏を殺害したことに言及したもので、アル・シャリフ氏はガザ地区からの広範な報道でガザの声となっていた。アルジャジーラはこの攻撃は国際規範と法律に違反するものであり、「戦争犯罪に相当する」と述べた。下記リンク先は国連人権高等弁務官事務所による声明「ガザ病院襲撃でジャーナリスト殺害:世界に衝撃を与えるべき」です。

UnitedNations  Killing of journalists in Gaza hospital attack should shock the world: The UN rights office

2025年8月25日

長大吊り橋を撮影したピーター・スタックポールはライフ誌創刊の写真家になった

Street scene
Street scene during business hours, Bridgeport, Connecticut in 1943
Peter Stackpole

ピーター・スタックポールは1913年6月15日、サンフランシスコの聖フランシス記念病院で、彫刻家のラルフ・スタックポールと画家兼デザイナーのアデル・バーンズの息子として生まれた。1922年、スタックポール夫妻はパリに移住したが、父の不倫により破綻した。ラルフ・スタックポールは画家のモデル、フランシーヌ・ジネット・マゼンと共にパリを離れ、サンフランシスコに戻った。二人は最終的にメキシコで結婚した。ピーターと母はパリに留まり、スタックポールは1924年前半までエコール・アルザスとパリ14区の小学校に通った。離婚に同意した後、母は息子と共にカリフォルニア州オークランドに移住した。スタックポールはオークランド工科高校に通い、写真に興味を持つようになった。彼の最初のカメラはコンパクトなアグファ・メモの趣味用モデルだったが、2台目はより本格的に使用した、よくできたライカ・モデルAだった。1931年にオークランドのポスト・エンクワイア紙のカメラマンに弟子入りした。小型の35mmライカを使用することで、高画質を求めて三脚に固定した大型のフィルムカメラを好む他の新聞カメラマンよりも、より多くのアクションをその場で捉えることができた。彼がリングサイドでボクサーのマックス・ベアを撮影したスナップショットは、自然光だけで撮影されたため、新聞編集者に却下された。芸術家のコネが広い両親の一人っ子として生まれたスタックポールは、ドロシア・ラングやエドワード・ウェストン、メキシコの画家フリーダ・カーロやディエゴ・リベラといった著名人と会った。1932年、スタックポールは、エドワード・ウェストン、アンセル・アダムス、イモージェン・カニンガム、ウィラード・ヴァン・ダイクなど、サンフランシスコでグループ「f/64」に所属する写真家の作品を展示していたデ・ヤング美術館で、より多くの芸術写真に触れる機会を得た。

Elizabeth Taylor
Elizabeth Taylor at a desk in a classroom at Hollywood’s University High School in 1950

この経験が、スタックポールに、自分の写真に意図と構成を込めようというさらなる動機を与えた。1934年、フランシス・パーキンス労働長官による卒業式のスピーチの最中に居眠りをしているハーバート・フーバー元大統領の率直な写真をスタックポールが撮影したが、オークランド・トリビューンの発行者ウィリアム・F・ノウランドに拒否されたが、タイム誌が購入し、フリーランスの仕事につながった。1933年、20歳になったスタックポールは、ゴールデンゲートブリッジとサンフランシスコ・オークランドベイブリッジの建設現場を、手持ちのライカで記録し始めた。彼は鉄工員たちの作業風景や休憩風景を写真に収め、橋の塔の上からは息を呑むような絶景を撮影した。934年、彼の橋の写真はウィラード・ヴァン・ダイクに認められ、スタックポールのダイナミックな手持ち報道写真家としてのスタイルにもかかわらず、ヴァン・ダイクはスタックポールに「f/64」グループの名誉会員の称号を与えた。1935年、サンフランシスコ近代美術館で橋の写真25点が展示されした。イモージェン・カニンガムの提案で『ヴァニティ・フェア』誌に写真を投稿し、1935年7月に2ページにわたって掲載された。 USカメラ誌も彼の橋建設の写真を掲載し、アンセル・アダムスは、1940年に彼がキュレーションした複数のアーティストの共同展「A Pageant of Photography」にそれらの写真を含め、サンフランシスコ湾の真ん中で開催されたゴールデンゲート国際博覧会で何百万人もの来場者に見せた。1951年4月、スタックポールは高所鋼橋建設の仕事に戻り、ライフ誌は「高所鋼橋」と題するフォトエッセイの中で、デラウェア記念橋建設時のスタックポールの写真を掲載した。スタックポールは1984年にポメグラネイト・アートブックスより「橋の建設者たち:サンフランシスコ・ベイブリッジの建造1934-1936年の写真と文書」と題する橋の写真集を出版し、スタンフォード大学美術館のアニタ・モズリーによる文章が掲載された。雑誌『ヴァニティ・フェア』誌のフォトエッセイがきっかけで、ヘンリー・ルースが1936年11月から週刊写真ジャーナルとして立ち上げた新しいグラフ誌『ライフ』の構想に加わった。

Delaware Memorial Bridge
Workers raised a truss during the construction of the Delaware Memorial Bridge in 1951

スタックポールは、アルフレッド・アイゼンスタット、マーガレット・バーク=ホワイト、トーマス・マカヴォイとともに、ルースに雇われた最初の4人のカメラマンの1人だった。 西海岸を拠点にしていたスタックポールは、カリフォルニアでの出来事を取材するよう何度も依頼された 彼はロサンゼルスに移り、ハリウッドで映画製作者や映画スターのパーティーに出席し、その過程でアルフレッド・ヒッチコック、ゲイリー・クーパー、ヴィヴィアン・リー、グリア・ガーソン、エリザベス・テイラー、ダグラス・フェアバンクス・ジュニア、イングリッド・バーグマン、ジュディ・ガーランド、ミッキー・ルーニー、オーソン・ウェルズ、リタ・ヘイワースなどの有名な写真を撮影した。彼の写真スタイルはカジュアルなもので、被写体が自宅でくつろいだり、家族と楽しく過ごしている様子をよく写していた。1941年8月、スタックポールは、俳優エロール・フリンが全長74フィートのケッチ「シロッコ」で南カリフォルニアのカタリナ沖を泳ぎ、セーリングする様子を撮影する任務を負い、スピアガンで魚を狩るフリンの水中写真を撮るよう指示された。一時的に防水にするために透明なプラスチックの箱に入れて、自分の「一番古くて一番消耗品」のライカをこの仕事に持参した。後に「私は仕事の合間にビーチで過ごすような人間だったが、水中写真を撮ろうとは一度も考えたことがなかった」と書いている。彼はヨットのマストの上に登り、眼下にフリンが上を見上げ、その下にボートのデッキと海が見えるという、注目すべき写真を撮影した。1953年、スタックポールは厚いプレキシガラスで独自の水中カメラハウジングを製作した。彼はこの装置を使って、スキューバダイビングの新深度記録に挑戦するダイバー、ホープ・ルートを撮影した。

apanese boy
Japanese boy in an airplane on Saipan as they awaited a flight to the nearest field hospital in 1944

ルートは水深500フィートで死亡し、スタックポールは他のダイバーと共に水深50フィートの地点で待機していた。スタックポールがルートの生存を最後に撮影した画像は、ダイバーが水深100フィートの地点にいた時のものであった。ルートの致命的な記録挑戦は、1953年12月初旬の『ライフ』誌に掲載された。水中写真の偉業により、スタックポールはジョージ・ポーク記念賞を受賞した。第二次世界大戦中、スタックポールはアメリカ海軍傘下の『ライフ』誌の太平洋戦域に赴任した。フナフティ環礁の米海兵隊基地を記録し、同基地への日本軍の空襲を生き延びた。1943年11月にはタラワで戦闘写真を撮影した。彼の最も顕著な戦時中の活動は、1944年6月から7月にかけて『ライフ』誌の記者ロバート・シェロッドと共にサイパン島の戦いに参加したことだ。戦闘後、二人は写真家のW・ユージン・スミスと合流した。スタックポールが撮影したサイパン島での戦闘写真の一部は7月上旬に掲載され、掃討作戦のさらなる写真が7月末に同誌に掲載された。そしてシェロッドによる詳細な記録は、スミスとスタックポールの写真とともに1ヶ月後に出版された。スタックポールは 『ライフ』誌の写真編集者ウィルソン・ヒックスには「写真家同士を対立させる」癖があると記しており、それがスミスが同じ戦場に現れ、スタックポールとシェロッドを驚かせたきっかけとなった。サイパン島滞在中、スタックポールは洞窟から出てきた一人の日本兵の攻撃を生き延び、日本軍によるアメリカ軍陣地への3000人の反撃も生き延びた。スタックポールは、サイパン島で民間人の集団自決を発見した3人のアメリカ人ジャーナリストの1人だった。7月11日、スタックポールと2人の新聞記者(は、サイパン島北端のマルピ岬に約4,000人の民間人と逃亡中の日本兵が集結していると米軍に報告した。このうち数百人が自ら命を絶っており、さらに多くの人が自殺すると予想されていた。 翌日、シェロッドとスタックポールは、米海兵隊の通訳に同行し、拡声器を持ってマルピ岬へ。アメリカ軍が自殺を阻止し、降伏を促そうとする様子を視察した。

Cover of the LIFE Magazine : September 27, 1954

民間人の中には助かった者もいたが、自殺を選んだ者もおり、日本軍の狙撃兵に殺害された者もいた。この悲劇の写真は、8月下旬のシェロッドの記事に掲載された。この事件のため、マルピ岬の最も高い断崖は現在、スーサイド・クリフと呼ばれている。ところでスタックポールは1937年にオランダ生まれの芸術家ヘーベ・ダウムと結婚した。彼より1歳年上の彼女は写真家、壁画画家、そしてニューディール政策時代の作品で知られる画家だった。ロサンゼルスに住んでいた1941年に娘キャサリン、1946年にもう一人の娘トレナ、1949年に息子ティモシーが生まれた。1951年、スタックポールはライフ誌のニューヨーク支社に異動し、一家はコネチカット州ダリエン近郊に居を構えた。1961年に引退後、妻と共にオークランドヒルズに戻った。1991年、スタックポールはカリフォルニア州オークランド美術館に協力し、自身の写真作品を展示する二部構成のギャラリーを企画した。この中には「平時から戦時へ」と題されたセクションと「スタックポール氏ハリウッドへ行く」というセクションが含まれていた。この活動の最中、1991年10月にオークランドで発生した大火災により、自宅とプリントやネガの大部分が焼失した。スタックポールはサイパンの写真50枚を抱えてかろうじて逃れた。他に救出されたプリントには、既に美術館にあったものや、新しい写真集『ピーター・スタックポール、ハリウッドでの生活 1936–1952』の制作に使用されたものなどがある。この火災で、スタックポールはカメラ、数千件に及ぶ撮影メモ、そしてカラー写真の全てを失った。妻の絵画約50点が大火で焼失し、父ラルフ・スタックポールの様々な彫刻も破壊された。スタックポールは自伝の執筆を開始していたが、原稿が焼失した。執筆を再開したが、完成させることはなかった。1997年5月11日、ピーター・スタックポールはノバトでうっ血性心不全のため他界、83歳だった。

LIFE  Peter Stackpole (1913-1997) Photography and Biography ©The LIFE Magazine Collection