2025年8月8日

ヨーロッパの主要極右政党3党を支配する女性党首たち

Euroemale party leaders
(左から)マリーヌ・ル・ペン(フランス)アリス・ヴァイデル(ドイツ)ジョルジャ・メローニ(イタリア)

フランス、ドイツ、イタリアの政党は歴史的に伝統的な家族モデルと性別の役割を擁護し、フェミニズムを拒否してきた。しかし、伝統的に男性の牙城であったヨーロッパの主要な極右グループのうち3つは女性が率いている。それだけではない。彼らが政権を握って以来、彼らの政党は飛躍的な成長を遂げ、近年歴史的な成果を達成し、ドイツやフランスなどの国では主要な政治勢力の一つとなり、イタリアでも政権に就いた。ジョルジャ・メローニ(1977年生まれ)は、ヨーロッパ極右の中でも最も目立った存在であり、最も先を行く人物の一人であることは疑いようもない。イタリア首相率いる政党「イタリアの兄弟(Fratelli d'Italia)」は、ベニート・ムッソリーニが広めたスローガン「神、祖国、家族」を復活させ、彼女は数々の集会で自らをこう表現した。「私はジョルジャ、私は女性、私は母、私はキリスト教徒。あなたたちは私からそれを奪うことはできない」と宣言している。フランスでは、マリーヌ・ル・ペン(1968年生まれ)が、ヨーロッパ極右を率いる女性の先駆者と言えるだろう。父が創設した党の跡を継いだ彼女は、長年にわたる「脱悪魔化」作戦を通じて、党の支持基盤を拡大してフランスで最も人気のある政党へと躍進した。ヨーロッパ極右指導者の仲間入りを果たした最新の人物は、ドイツ出身のアリス・ヴァイデル(1979年生まれ)で、彼女は「ドイツのための選択肢」(AfD)を率いている。彼女の指導の下 AfDは 2月23日(日)に行われた選挙でドイツで第2位の勢力となった。しかし、それほど昔のことではないが、欧州の極右政党はほぼ男だけのものだった。こうしたヨーロッパの政党の多くは 1980 年代に登場し始めており、その 10 年以降に政党を分析した学術研究によって、非常に顕著な男女格差が確認されている。

AfD
エアフルトでドイツ帝国国旗を振る極右政党「ドイツのための選択肢(AfD)」の支持者たち

カリフォルニア州コーネル大学の社会学教授でヨーロッパ研究所所長のメイベル・M・ベレジンは、この福祉国家は、女性が労働力として参加できるよう育児支援を優遇しており、極右だけでなく、ヨーロッパ政治の最前線に女性が増えるよう促進してきたと語る。「これらは、例えばアメリカ合衆国と比較した場合のヨーロッパの制度の利点です。ヨーロッパは、より保守的な社会傾向にもかかわらず、より男女平等な社会なのです」と、アメリカ人研究者は分析している。これは「もしシステムがより多くの女性の政治参加を奨励するのであれば、間違いなく女性たちがガラスの天井を突破しなければならなかった極右にもより多くの女性がいるであろう理由を説明しているとベレジンは言う。研究者は、例えば、ヴァイデルはゴールドマン・サックスの取締役であり、ル・ペンは弁護士の資格を持っており、彼女たちは教養が高く有能な女性であると指摘している。同時に、3人とも力強いイメージを醸し出し、積極的で自信に満ちている。「例えばメローニは、政界入りするまでに苦労してきたという、ほとんど男性的な印象を与えます」とカリフォルニア州コーネル大学の社会学教授メイベル・ベレジンは指摘する。これは彼らがフェミニズムを擁護していることを意味するのだろうか? 少なくとも知的または公式のフェミニズムではないとコーネル大学の教授は言う。「彼女たちは、ある意味では、自分たちのフェミニズムを擁護しているが、彼女たちの誰もが自らをフェミニストだとは考えていないと思う」とベレジンは指摘している。下記リンク先はキングス・カレッジ・ロンドンで「フランス語学習を通じてロッパを研究」を受講している学生カタリーナ・カイザーによる「極右女性リーダーの台頭:真の平等か、それとも単なる戦略か?」です。

politics  Rise Of Far-right Female Leaders: True Equality Or Purely Strategy? by Katharina Kayser

2025年8月6日

原爆投下を報じたニューヨーク・タイムズ1945年8月8日の紙面

NY Times 1945
The front page of the New York Times on August 8, 1945

写真は1945年8月6日、広島に原子爆弾が投下されたグアム発のニュースを伝えた、ニューヨーク・タイムズ紙8月8日の第一面である。ヘッドラインには「広島の60%が消え去られた」とある。同紙の紙面アーカイブ閲覧システム「TimesMachine」のサンプルとして公開されているもので、8月8日付け紙面の全40ページを無料で閲覧することができる。爆弾投下後数時間で撮影された写真を注意深く研究したスパーツ将軍の発表は、宇宙の力を駆使し日本軍に向けられたこの新しい秘密兵器の恐るべき破壊力を明らかにした」とニューヨーク・タイムズ紙は米戦略空軍の司令官に言及して書いた。1945年8月8日、ニューヨーク・タイムズ紙は広島への原子爆弾投下を一面で次のように報じた。

(原文)General Spaatz’s announcement, based on a careful study of photographs taken a few hours after the bomb had been dropped, made clear the terrific destructive power of this new secret weapon, which has harnessed the power of the universe and turned it against the Japanese,” The Times wrote, referring to the commanding general of the United States Strategic Air Forces.Here is how Captain William S. Parsons, a crew member on the Enola Gay, the plane that dropped the atomic bomb on Hiroshima, described the immediate aftermath:“I heaved a sigh of relief because I know the bomb was a success. We felt the first concussion about one minute after the bomb hit, and within another minute or two a great black cloud of boiling dust and churning debris was 1,000 feet off the ground and above it while smoke climbed like a mushroom to 20,000 feet. A few fires were visible around the edges of the smoke, but we could see nothing of the city except the dock area, where buildings were falling down.
Atomic Bomb on Hiroshima
First atomic bomb was dropped on Hiroshima, August 6, 1945
(抄訳)爆弾投下後数時間で撮影された写真を注意深く研究したスパーツ将軍の発表は、宇宙の力を結集し日本軍に逆らったこの新しい秘密兵器の恐るべき破壊力を明らかにした」と、ニューヨーク・タイムズ紙はアメリカ戦略空軍の司令官に言及して書いている。広島に原爆を投下した飛行機、エノラ・ゲイの乗組員、ウィリアム・S・パーソンズ大尉は、投下直後の状況を次のように描写している。「爆弾が成功したとわかり、安堵のため息をついた。爆弾着弾から約1分後に最初の衝撃を感じ、それから1、2分以内に、沸騰する塵と渦巻く残骸の巨大な黒い雲が地上1,000フィート上空に達し、煙はキノコのように20,000フィートまで上昇した。煙の縁にはいくつかの火が見えたが、建物が倒壊している埠頭エリア以外、街の様子は何も見えなかった。

第3面に「最初の原子爆弾が月曜、日本の広島市の4.1平方マイル(10.6平方キロメートル)を消し去った」など原子爆弾に関する記事が載っているが、前後の紙面には女性ファッションのイラストが満載されているなど、およそ戦時下と思えぬ紙面となっている。下記リンク先はニューヨーク・タイムズ紙のハンナ・ビーチ記者が広島からリポートした、同紙2025年8月5日付け記事「80年前に日本にやって来た核による毀滅」です。

New York Times  80 Years Ago, Nuclear Annihilation Came to Japan by Hannah Beech from Hiroshima City

2025年8月5日

漢字「青條揚翅蝶」を読めますか?

オオゴマダラ
交尾中のオオゴマダラ(大胡麻斑蝶)伊丹市昆虫館
朝日新聞社(2019年)

強烈な日差しが続いているが、用事があって外出した。帰り際、民家の軒先の鉢に白い花が咲いているのが目にとまる。植物名を覚えるのが苦手な私でも、これはすぐにわかった。ネコノヒゲだ。漢字混じりに記述すれば、猫の髭、英名は全く同じ意味の cat's whiskers である。和名は英名を模したものかも知れない。というのは素人ながら、多くの植物名が、最近ではラテン語の学名、あるいは英名をそのままカタカナ表記したものが多いような気がするからである。植物名ばかりではなく、現代日本語を席巻しているのが、外来語の表記、しかもこれはじうぶん前に指摘したように日本特有の短縮表記である。例えば「メタボ」なんて言葉は正直言って最初は分からなかった。メタボリック・シンドロームの尻尾を症候群と書くだけましかもしれない。もっと酷いのはアコースティック・ギターに対する「アコギ」という呼び方。まさに阿漕(あこぎ)の極まりである。同じ漢字圏の中国や台湾は、外来語を今でも漢字表記している。ところが日本はカタカナがあるので、それを安易に使ってしまうきらいがある。無論、適切な翻訳造語が間に合わないという事情もあるだろうが、こと動植物名に関しては新聞社などのメディアにも責任もあるような気がする。新聞社はそれぞれ「用語規定」を持っている。というのは記事の整合性を保つには、バラバラの表記があっては不味いからである。そこで例えば市販されてる『朝日新聞の用語の手引き』の旧版では「動植物名はカタカナという規定があった。最近はだいぶ緩和されたようだが、かつては紫陽花(アジサイ)や向日葵(ヒマワリ)、馬酔木(アセビ)などはおろか、桜や梅もカタカナ表記していたのである。

青條揚翅蝶(アオスジアゲハチョウ)

そう言えば6月3日に他界した長島茂雄元巨人軍監督を「長嶋」と表記する必要はない。私の経験では新聞記事には常用漢字にないものは使えないことが多かった。永井荷風の『墨東奇譚』は「譚」が常用漢字ではない。「墨東奇たん」じゃ洒落にもならない。それでもちょっとした漢字、例えば「釈迦」や「菩薩」もルビを振らないと使えないことを、新聞にコラムを連載したことで知った。画数の多い人名などを使うようになったのは、パソコンのワードプロセッサ普及の影響だったと思うし、ルビを振れば制限外の字でも新聞で使えるようになったのは、漢字文化を守る上でやはり評価したいと思う。画面が狭い携帯電話による、従って極端に短いセンテンスの「ケータイ小説」という名の「ケーハク小説」がずいぶん昔に流行ったことがある。蝶の漢字名に戻そう。「褄黒豹紋蝶」「黒揚翅蝶」「浅黄斑蝶」「青條揚翅蝶」…これらはいずれも蝶の和名であるが、読めますか? ツマグロヒョウモン、クロアゲハ、アサギマダラ、アオスジアゲハと読む。難解といえば確かに難解だが、先人の英知を感ずる。さらに台湾に残る繁体字を見ると、日本の漢字もさることながら、中国の簡体字に文化の喪失を感じざるを得ない。学習に有利で、識字率アップに貢献していると言われているが、実際の識字率は簡体字の中国本土よりも、繁体字を使う台湾や香港の方が高く、一概には言えないようだ。今さら元に戻すことはできないが。

Blogger  蝶類漢字和名一覧(種名および掲載順は2010年公開の日本産蝶類和名学名便覧準拠:掲載328種)

2025年8月3日

色彩の卓越した表現を通して写真というジャンルを超越したデビッド・ラシャペル

Bright Eternity
Some Bright Eternity, Los Angeles, 2002
David LaChapelle

デヴィッド・ラシャペルは、アメリカの写真家、ミュージックビデオ監督である。ファッションと写真の分野で活躍し、美術史を引用し、時に社会的なメッセージを伝える作品で知られている。彼の写真スタイルは「ハイパーリアルで、巧妙に反逆的」あるいは「キッチュな「ポップ・シュルレアリスム」と評されている。写真界のフェリーニと呼ばれたラシャペルは、国際的な出版物で活動し、世界中の商業ギャラリーや機関で作品を展示している。ラシャペルは1963年3月11日、コネチカット州ハートフォードでフィリップとヘルガ・ラシャペルの息子として生まれた。姉のソニアと弟のフィリップがいる。母親はリトアニアからの難民で、 1960年代初頭にエリス島にたどり着いた。家族は彼が9歳になるまでハートフォードに住んでいた。コネチカット州の公立学校を愛し、幼少期から十代の頃まで美術の授業で活躍していたと語っているが、幼少期にはいじめに苦しんだという。彼と家族はノースカロライナ州ローリーに移り、14歳までそこで暮らした後、コネチカット州フェアフィールドに戻った。ノースカロライナ州の学校では、性的指向を理由にいじめられた。15歳の時、家出をしてニューヨークのスタジオ54で給仕として働くようになった。最終的に彼はノースカロライナに戻り、ノースカロライナ芸術学校に入学した。彼の最初の写真は、プエルトリコでの家族旅行中の母親ヘルガを撮影したものである。ラシャペルは、若い頃の家族写真のシーン構成において、母親が彼の芸術的方向性に影響を与えたと考えている。ラシャペルは1980年代に、ダグ・エイトキンなどのアーティストの作品を展示していた303ギャラリーに所属していた。『インタビュー』誌のスタッフが彼の作品展示を見た後、ラシャペルは同誌から仕事のオファーを受ける。

When Bobo Went Mad
When Bobo Went Mad, 1995

ラシャペルが17歳の時、アンディ・ウォーホルと出会い、高校生ながら『インタビュー』誌の写真家として雇われた。ウォーホルはラシャペルに「好きなことをしていい。ただ、みんなが素敵に見えるようにすればいい」と言ったと伝えられている。 その後、ラシャペルの写真は Details、GQ、iD、ニューヨーク・タイムズ・マガジン、ローリングストーン、ザ・フェイス、ヴァニティ・フェア、ヴォーグ・イタリア、ヴォーグ・パリなどの雑誌の表紙やページに掲載された。ラシャペルの作品は「高光沢で、色鮮やかで、超写実的なスタイルで細部までこだわって作られている」と評されており、彼の写真は「破壊的、あるいは少なくとも滑稽なアイデア、粗野なエネルギーと笑いがあふれている。ジューシーな生命力に満ちている」ことで知られている。1995年、ラシャペルはディーゼルの有名な「キスをする水兵」の広告を撮影した。

Alexander McQueen and Isabella Blow
Alexander McQueen and Isabella Blow, 1996

これは第二次世界大戦の平和記念式典で上演され、ゲイやレズビアンのカップルがキスをしている姿を公開した最初の広告の一つとなった。この広告が物議を醸したのは、当時アメリカで DADT(聞かない、言うな)論争が最高潮に達していた時期に掲載されたためであり、この論争によりアメリカ政府はゲイ、レズビアン、バイセクシャルであることを公言している人の兵役を禁止するに至った。 1996年に『フリーズ』誌に掲載された長文の記事では、この広告は「強引なユーモアと皮肉が全面に出た」と評された。2011年9月、バラク・オバマ大統領によって「聞かない、言わない」法が最終的に廃止された際、当初この広告を承認し推進していたディーゼルの創業者兼社長、レンゾ・ロッソは「16年前は、この広告について人々は文句を言い続けた。しかし今、ついに法的に認められたのだ」と述べた。

Coke Can
Inflatables, Coke Can, Los Angeles, 2002

ラシャペルは双極性障害を患っているが、薬が効かないと感じているため、自分の精神状態を注意深く監視している。1980年代半ば、当時の恋人をエイズで亡くした。彼はロンドンに移り住み、そこでのカウンターカルチャーが彼の美的感覚を形成する上で大きな影響を与えた。「私は全てを見てきたと思っていた。ロンドンに行った時、その創造性と狂気のレベルは…全く別の惑星にいるようだった」という。彼は特に模倣ではなく独創性を重視するロンドン文化に感銘を受けた。彼にとって、ロサンゼルスは「文字通り正反対」だった。ロンドン在住中に、彼はイギリスのポップスター、マリリンの女性広報担当者と結婚した。結婚生活は1年続いた。2006年、ラシャペルは突如ロサンゼルスを離れ「ハワイの人里離れた森の中にある場所に移り住んだ。

Cathedral
After the Deluge: Cathedral, Los Angeles, 2007

電気も通っておらず、バイオディーゼル車が走り、太陽光発電で、自家栽培の食料があり、完全に持続可能な生活だった。「よし、これで農家だ」と思ったんです。ラシャペルの進路変更は、最終的に彼を原点へと戻した。ハワイ滞在中、長年の同僚からギャラリーの撮影に誘われた。ニューヨークで駆け出しの写真家だった頃以来、このような仕事はしていなかったのだ。「本当に驚きました」とラシャペルは回想する。「商業アーティストとして、そしてファッションやセレブリティの写真家としてあまりにも有名だったので、ギャラリーが私を真剣に受け止めてくれるとは思っていませんでした。まるで生まれ変わったようで、再生のようで、最初からやり直したような気持ちです。まるで原点、子供の頃にギャラリーで初めて仕事をした場所に戻ったような感覚です。まさに原点回帰です」と述懐している。 下記リンク先は Religion Unplugged に寄稿されたジリアン・チェイニーによる「独特の宗教性と独特の人間性:デヴィッド・ラシャペルのメイク・ビリーブ(見せかける)」である。

color Uniquely Religious & Uniquely Human: David LaChapelle's 'Make Believe' by Jillian Cheney