2026年8月6日

世界史遠望(24)三島由紀夫の割腹自殺 と楯の会

三島由紀夫
陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地で演説する三島由紀夫 ©1970 日本経済新聞

1970年(昭和45年)11月25日、市ヶ谷の陸上自衛隊駐屯地で作家の三島由紀夫が割腹自殺を遂げた。益田兼利東部方面総監の身柄を拘束、自衛隊員の集合を求め、その前で演説をした後のことだった。三島は1968年(昭和43年)10月、保守系の学生を集めて、私兵組織ともいわれた「楯の会」を結成した。定員は100名。当時は、多くの人々が革命を呼号し、学生運動が吹き荒れた時代だった。彼らは自衛隊で軍事訓練を行なうなどの活動を積みつつ、左翼運動と対峙していく。そして三島は、この「楯の会」から森田必勝をはじめ。4人のメンバーを選抜し、事件へと向かったのである。正午を告げるサイレンが市ヶ谷駐屯地の上空に鳴り響き、太陽の光を浴びて光る日本刀「関孫六」の抜身を右手に掲げた三島がバルコニーに立った。日本刀が見えたのは一瞬のことだった。

楯の会
三島由紀夫が結成した楯の会 ©1970 柿沼 隆

三島はなぜこの事件を起こしたのか。そして想いはどこにあったのか。様々なことが言われているが、この事件の時、三島は檄文を配布していた。以下に抜粋してみよう。

われわれは戦後の日本が経済的繁栄にうつつを抜かし、国の大本を忘れ、国民精神を失ひ、本を正さずして末に走り、その場しのぎと偽善に陥り、自ら魂の空白状態へ落ち込んでゆくのをみた。われわれは今や自衛隊にのみ、真の日本、真の日本人、真の武士の魂が残されてゐるのを見た。しかも法理論的には、自衛隊は違憲であることは明白であり、国の根本問題である防衛が、御都合主義の法的解釈によつてごまかされ、軍の名前を用ひない軍として、日本人の魂の腐敗、道義の頽廃の根本原因をなして来てゐるのを見た。われわれが夢みてゐたやうに、もし自衛隊に武士の魂が残ってゐるならば、どうしてこの事態を黙視しえよう。自らを否定するものを守るとは、なんたる論理的矛盾であらう。男であれば、男の矜りがどうしてこれを容認しえよう。我慢に我慢を重ねても守るべき最後の一線をこえれば、決然起ち上がるのが男であり武士である。われわれはひたすら耳をすました。しかし自衛隊のどこからも「自らを否定する憲法を守れ」といふ屈辱的命令に対する男子の声はきこえては来なかつた。あと二年のうちに自主性を回復せねば、左派のいふ如く、自衛隊は永遠にアメリカの傭兵として終るであらう。われわれは四年待つた。最後の一年は熱烈に待つた。もう待てぬ。自ら冒涜する者を待つわけには行かぬ。しかしあと三十分、最後の三十分待たう。共に起つて義のために共に死ぬのだ。日本を日本の真姿に戻して、そこで死ぬのだ。生命尊重のみで、魂は死んでもよいのか。生命以上の価値なくして何の軍隊だ。今こそわれわれは生命尊重以上の価値の所在を諸君の目に見せてやる。それは自由でも民主主義でもない。日本だ。われわれの愛する歴史と伝統の国、日本だ。これを骨抜きにしてしまつた憲法に体をぶつけて死ぬ奴はゐないのか。もしゐれば、今からでも共に起ち、共に死なう。われわれは至純の魂を持つ諸君が、一個の男子、真の武士として蘇へることを熱望するあまり、この挙に出たのである。

この日は朝から快晴で正午の気温は11.4度だった。三島の頭には「七生報國」(七たび生まれ変わっても朝敵を滅ぼし国に報いるの意)と書かれた日の丸の鉢巻が巻かれていた。

三島由紀夫の棺
陸上自衛隊の駐屯地から運び出される三島由紀夫の棺 ©1970 時事通信

右背後には同じ鉢巻の森田が仁王立ちし、正面を凝視していた。12時10分頃、森田と共にバルコニーから総監室に戻った三島は、誰に言うともなく「20分くらい話したんだな、あれでは聞こえなかったな」とつぶやいた]。そして益田総監の前に立ち「総監には、恨みはありません。自衛隊を天皇にお返しするためです。こうするより仕方なかったのです」と話しかけ、制服のボタンを外した。三島は、小賀が総監に当てていた短刀を森田の手から受け取り、代わりに抜身の日本刀・関孫六を森田に渡した。そして、総監から約3メートル離れた赤絨毯の上で上半身裸になった三島は、バルコニーに向かうように正座して短刀を両手に持ち、森田に「君はやめろ」と三言ばかり殉死を思いとどまらせようとした。割腹した血で「武」と指で色紙に書くことになっていたため、小賀は色紙を差し出したが、三島は「もう、いいよ」と言って淋しく笑い、右腕につけていた高級腕時計を「小賀、これをお前にやるよ」と渡した。そして「うーん」という気合いを入れ「ヤアッ」と両手で左脇腹に短刀を突き立て、右へ真一文字作法で切腹した。

ペン  井上隆史(白百合女子大学教授)「割腹自殺によって“作品”を完成させた三島由紀夫」nippon.com

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