2024年10月30日

ドナルド・トランプを後押しするイーロン・マスクの姑息

Trump and Musk

ペンシルベニア州フィラデルフィアの地方検事は10月28日、抽選で選んだ有権者に100万ドル(約1億5,000万円)を配る行為が州の法律に違反するとして米起業家イーロン・マスク氏らを提訴した。米大統領選の投票日が11月5日に迫るなか、速やかな差し止めを求めている。ソーシャルメディア Twitter を買収したマスクは二つのことを行った。名称を X と変更、この言論プラットフォームの目的を不透明にしてしまった。そして連邦議会襲撃事件を受けて「暴力行為をさらに扇動する恐れがある」として凍結されていたドナルド・ドランプのアカウントを解除した。この措置は100万ドル配布の伏線となっている。トランプは大統領に返り咲けばマスクを行政改革の要職に起用する方針を示しているが「私は関知していない」と語りマスクの個人的な活動であることを強調している。これはとんだ茶番である。X_Twitterは、暴力行為やヘイト行為の主体に加入したり、そうした主体の活動を奨励したりすることを禁止している。2024年9月25日付け SocialMediaToday によると、ヘイトスピーチでアカウントが一時停止した数がに少ないことを示すデータがあるという。以下は X_Twitter が2024年1月から 6月の間に検出された規則違反に基づいて実施した全執行措置の概要である。このリストでわかるように、憎悪的なコンテンツ、虐待や嫌がらせ、暴力的なコンテンツが、X_Twitter のレポートで従来どおり削除の主な理由となっている。

当の X_Twitterは、今年上半期に規則違反を理由に合計520万のアカウントを停止し、同様に1,070万の投稿を削除したと報告している。注目すべきは、2022年上半期を対象とした前回の「透明性レポート」で報告した内容を上回る点である。つまり増えているのである。つまり、全体的に見て、イーロン・マスがよりオープンで「言論の自由」に沿ったネットワークであると主張しているにもかかわらず、X_Twitter は実際には 旧Twitter よりも多くのコンテンツを削除し、より多くのユーザーを停止し、より多くの法的要請に対応している。そのポリシーではヘイトスピーチを助長する人々が活動を続けることが許可されており、自傷行為のコンテンツもそれほど厳しく施行されていないようだ。このような問題が積み重なることで X_Twitter のブランドイメージが低下し、広告主やユーザーの離脱につながる可能性がある。さらに懸念されるのが政治への影響である。上述したようにイーロン・マスクは大統領選に対し買収で「私物化」した X_Twitter を利用している。先の衆院戦でこの言論プラットフォームが政治的な目的で利用した日本の政治家は多い。このブログで何度か指摘提案したが、民主主義を踏みにじる億万長者の経営者が操る、限りなくグレーで不透明な X_Twitter から手をひくべきだろう。下記リンク先は「イーロン・マスクは民主主義への本当の脅威はトランプが民主主義を危険にさらしていると非難する人々だと述べた」と題した AP 通信の記事(英文)である。

AP
Elon Musk says the real threat to democracy is the people who accuse Trump of endangering it

2024年10月29日

公民権運動の活動に感銘し刑務所制度の悲惨を描写した写真家ダニー・ライアン

Leesburg Stockade
Girls imprisoned at Leesburg Stockade, Americus, Georgia, 1963
Danny Lyon

ダニー・ライアンは1942年3月16日、ニューヨークのブルックリンで生まれた。ロシア系ユダヤ人の母親レベッカ・ヘンキンとドイツ系ユダヤ人の父親エルンスト・フレデリック・ライアン博士の息子である。クイーンズ区のキュー・ガーデン地区で育ち、シカゴ大学で歴史と哲学を学び、 1963年に文学士の学位を取得した。ライアンが公民権運動に関わるようになったのは、シカゴ大学3年生の夏休みにヒッチハイクでイリノイ州カイロに行った1962年のことだった。カイロ到着初日に公民権運動活動家ジョン・ルイスが教会で行ったスピーチに感銘を受けた。ルイスはスピーチの後、座り込みに参加するために出発した。ライアンはこれに感銘を受けた。ルイスは言葉通りに行動していたのだ。その後、ライアンは近くの人種隔離されたプールまで行進することにした。デモ参加者はひざまずいて祈りを捧げたが、プール利用者は彼らをやじった。すぐにトラックがやって来て、群衆を解散させようとした。若い黒人女性がトラックにひかれ、ライアンは運動に参加したいと思った。この後、1960年代のある時期、ルイスとライアンはルームメイトになった。1962年9月、歌手のハリー・ベラフォンテからの300ドルの寄付により、SNCC: Student Nonviolent Coordinating Committee(学生非暴力調整委員会)は、有権者登録員の補佐として、ライアンをジャクソンとミシシッピ・デルタに派遣した。その直後、ライアンンは警察と衝突し、そのうちの1人が彼を殺すと脅した。警官から「ここでは人種を混ぜない」と言われた彼は、自分には黒人の祖父がいると主張したからだ。撮影したすべての写真を没収されないようにするため、町を離れた。

all-white swimming poo
Demonstration at an all-white swimming pool, Cairo, Illinois, 1962

1963年、ライアンは戻ってきたが、SNCC は彼をカメラマンとして採用することに消極的だった。ライアンが参加した仕事の一つは、リースバーグ刑務所に何の罪も問われずに収監されている女子高生たちの写真を撮ることだった。彼は車の後部座席に隠れ、誰かに車で刑務所まで連れて行ってもらい、運転手の若者が警備員の注意をそらしている間に、ライアンは後部座席に忍び込んで写真を撮った。SNCC の写真家として採用された後、ライアンは運動中のほぼすべての主要な歴史的出来事に立ち会い、その瞬間をカメラで撮影した。彼の写真は、アメリカ南部の公民権運動に関するドキュメンタリー本 "The Movement: documentary of a struggle for equality"(運動:平等を求める闘いのドキュメンタリー)に掲載された。その後、ライアンは自分の本を作り始めた。最初の本はアウトロー(ならず者)のモーターサイクリストの研究である "The Bikeriders"(バイクライダーズ/1968年)で、1963年から1967年にかけて、アメリカ中西部のバイク乗りたちの写真や旅の様子、彼らのライフスタイルを共有した。シカゴのウッドローンに賃貸アパートに住むライアンは、アウトローズ・モーターサイクル・クラブのシカゴ支部に参加し「アメリカのバイク乗りの生活を記録し称賛する試み」をした。

Cal, Elkhorn
Cal, Elkhorn, Wisconsin, 1966

自身の本 "Hell's Angels: The Strange and Terrible Saga of the Outlaw Motorcycle Gangs"(地獄の天使たち:アウトロー・モーターサイクル・ギャングの奇妙で恐ろしイ叙事詩)のために、天使たちと1年間供にしたにハンター・トンプソンに助言を求めた。トンプソンはライアンに「写真撮影に絶対に必要な場合を除いて、クラブからさっさと出て行くべきだ」と警告した。ライアンはトンプソンの反応について「彼は私にアウトローズには入会せず、ヘルメットをかぶるようにアドバイスした。私はクラブに入会したが、めったにヘルメットをかぶらなかった」と語っている。彼は1966年から1967年にかけてアウトローズの正式メンバーだった。アウトローズのメンバーだった頃について、ライアンは「最後にはちょっと怖かった。ビールを置くためのピクニックマットとして巨大なナチスの旗を広げた男と大いに意見が合わなかったのを覚えている。その時までに、これらの男の中には結局それほどロマンチックではない人もいることに気付いていた」と語っている。このシリーズは1960年代から1970年代にかけて絶大な人気と影響力を誇った。 1967年、ライアンはマグナム・フォトに招聘された。『バイクライダーズ』の後、彼はテキサスの刑務所の受刑者の生活を撮影した。

The Line
The line, Ferguson Unit, Midway, Texas, 1968

1970年代、ライアンは環境保護庁の DOCUMERICA プロジェクトにも貢献した。1969年、テキサスでの仕事からニューヨークに戻ったライアンは住む場所がなかったが、 1958年の著書 "The Americans"(アメリカ人)で当時有名だった写真家のロバート・フランクが彼を受け入れた。ライアンはその2年前、ニューヨークでライアンが参加したハプニングの終わりにフランクと出会っていた。ライアンはニューヨークの西86丁目のアパートでフランク一家と6か月間一緒に暮らした。"The Destruction of Lower Manhattan"(ロウアー・マンハッタンの破壊/1969年)は、ライアンの次の作品で、1969年にマクミラン出版社から出版された。この本は、1967年にロウアー・マンハッタン全体で行われた大規模な解体工事を記録している。間もなく解体される道路や建物の写真、その地区に残った最後の住民のポートレート、そして解体現場の内部の写真が含まれている。この本は最終的に1冊1ドルで、売れ残ったが、すぐにコレクターズアイテムの地位を獲得、2005年に再版された。"Conversations with the Dead"(死者との対話/(1971年)は、テキサス州矯正局の全面的な協力を得て出版された。1967年から1968 年にかけて14か月にわたって6つの刑務所で写真を撮影した。

Mother and Child
Mother and Child, New Mexico, August, 1979

このシリーズは、1971年に Holt 出版によって書籍として出版された。序文では、テキサスの刑罰制度は世界中の刑務所制度の象徴であるという趣旨の声明が述べられている。彼は「私は、刑務所制度が現実にどれほど悲惨なものであるかを、できる限りの力で描写しようとした」と述べている。この本には、刑務所の記録から抜粋した文章、囚人からの手紙、囚人の芸術作品も含まれている。特に、死刑判決が最終的に終身刑に減刑された強姦罪で有罪判決を受けたビリー・マッキューンの事件に焦点を当てている。序文で、精神異常と診断されたマッキューンが、ある晩、処刑を待つ間「自分のペニスを根元から切り落とし、カップに入れて、鉄格子の間から看守に渡した」と述べている。ライアンの出版物はすべて写真によるニュージャーナリズムのスタイルで制作されており、写真家が記録された主題に没頭し、その参加者となっていることを意味している。彼は出版グループ Bleak Beauty の創立メンバーである。ライアンの作品はニューヨーク近代美術館、メトロポリタン美術館、ホイットニー美術館、シカゴ美術館、アメリカ美術館、スミソニアン協会などに収蔵されている。

Museum of Modern Art  Danny Lyon (born 1942) American | Works | Wikipedia entry | Museum of Modern Art

2024年10月26日

スティーブ・ジョブズとブランデンブルグ協奏曲

バッハのチェンバロ伴奏でフルートを演奏するフリードリヒ大王(18世紀)
Steeve Jobs I・II(講談社)2012年

いささか唐突だが、私はボブ・ディランを敬愛してやまなかったスティーブ・ジョブズと、音楽に対する趣向がちょっと似てるような気がする。全く違うのはジョブスが有名で金持ちだったこと、そして私が無名で文無しであることだ。ジョーン・バエズがかつてボブ・ディランの恋人だったという興味から、ジョブスは彼女と親密に付き合うことになった。いささか赤裸々な告白だが、アメリカ人だったとしても、これまた私には到底考えられない逸話だ。ウォルター・アイザックソン著『スティーブ・ジョブズ』(講談社2012年)によると、彼の iPod にはディランやビートルズの曲の他に、ヨハン・ゼバスティアン・バッハの「ブランデンブルグ協奏曲2番」がストレージされていたそうである。クラッシックの中ではバッハが好きなんだとジョブズは言っていたというが、私もバッハが好きである。その「ブランデンブルグ協奏曲」は典雅なバロック音楽だが、旋律に律動感が溢れてると感ずる。ただ何故ジョブズは「2番」が好きだったのか、伝記には説明されていない。映画『スティーブ・ジョブズ』(2015年)には LSD を服用し、幻覚で麦畑が突如バッハの曲を奏で始めるというシーンがある。流れていたのは第3番第3楽章だった。映画制作者が「3番」を選んだ根拠もまた不明である。余談ながらアップルの iPod ファイルは MP3 形式で音質の劣化を招き、順不同のシャッフル再生は、アルバムという概念を破壊した張本人と言われている。しかしジョブズ自身はオーディオマニアで高価な機器を揃えていたようである。

YouTube  Bach: Brandenburg Concerto No. 2 in F major, BWV 1047 | Freiburger Barockorchester

2024年10月24日

アマゾンに頼らない暮らし

Make Amazon Pay demo

写真は2023年11月24日金曜日、イングランドのマンチェスターで行われた "Make Amazon Pay"(アマゾンに払わせる)キャンペーンである。世界で最も忙しいショッピングデーであるブラックフライデーの起源はアメリカにあり、アメリカでは感謝祭の翌日の金曜日がクリスマスショッピングシーズンの始まりとみなされるようになった。この抗議活動は、生活費の高騰、世界的な債務危機、気候変動という緊急事態に直面する中で、アマゾンが「労働者、地域社会、地球」から「搾り取れる最後の一滴まで」搾り取っている状況を告発するものである。抗議活動の一環として、アマゾンの最高経営責任者ジェフ・ベゾスの邸宅には「パンデミックで不当に利益を得た者」という言葉が掲げられたという。アマゾンは私たちの町からかわいい本屋を追い出し、今度はオンライン商取引を独占し自動化して、全納税者を犠牲にして少数の幹部の利益マシンにした。アマゾンは販売者に価格を下げるよう強制し、偽の商標違反者が販売することを許可しているという。この理由でアマゾンから自社製品を削除したものの、アマゾンを離れてから売上が減った例も多いようだ。経済雑誌フォーブスは2024年4月1日、世界の富豪上位10人を発表した。彼らの資産の合計は1兆5900億ドル(約240兆円)で、1カ月前から280億ドル(約4兆2000億円)増加している。ジェフ・ベゾスは世界で最も裕福な億万長者の一人だが、保有資産額は1984億ドル(約約29兆9,261億円)である。納税者である私たちは、アマゾンの悪いビジネス慣行の代償を払っている。信じられないほど強欲で非人道的である。巨額の売り上げを出しているはずなのに、税金を取れない。各国の税務当局が巨大プラットフォーム事業者を相手に地団太を踏んでいたころ、実は日本の国税当局はアマゾンに戦いを挑んだことがあった。当時、その一端は報じられたが、その後、アマゾン対東京国税局はどう決着したのか。当時、アマゾンはすでに世界各国にネット通販市場を持っていたが、売り上げと中枢機能は本社のある国に集まる方法を採っていた。従って当然、納税もアメリカに集中する。

Boycott_Amazon

これに疑問を持ったのが東京国税局だった。いわゆる 「恒久的施設(PE: Permanent Establishment)なければ課税なし」という国際課税の基本ルールに基づき、利用客のいる日本には応分の納税を求められないか検討していた。2009年に東京国税局が、アマゾンの物流会社を調査した結果、単なる倉庫以上の業務が行われていると認定して恒久的施設として課税処分を行った。この事件について、双方とも結果を公表していないので詳細は不明だが、アマゾン側は納得せず日米間の相互協議となり、その結果、日本側の主張はほとんど認められず、法人税はわずかしか負担していないと言われているのである。それでも納税するようになったのは、外国法人が契約主体では医薬品や医療機器販売に参入できず、他にも日本で事業を展開する上で制約が多くなっていたからである。ところでアマゾンへのボイコットは納税問題ではない理由でお膝元のアメリカで起きている。アマゾンはシオニスト政権イスラエルに対するクラウドサービス提供を目的として、2021年に「プロジェクト・ニンバス」と呼ばれる12億ドル相当の契約を同政権と結んだ。両社が提供する技術によりイスラエルはパレスチナ人を違法に監視し、彼らに関するより多くの情報を収集できるようになり、またパレスチナ領におけるシオニストの違法な入植地開発も円滑化されるという。120校以上の大学の学生が、グーグルやアマゾンといった企業がイスラエルとの協力関係を解消しないかぎり、これらの企業への就職や内部研修を受け入れないとした誓約書に署名したのである。かつては書籍やレコードを購入していたが、今ではアマゾンに全く頼らない暮らしをしている。パソコンやスマートフォンで商品を「買い物カゴ」に入れると、それが玄関先に届く。確かに便利ではあるが、莫大な利益が吸い取られ、パレスチナでのイスラエルの残虐行為を助ける遠因になっているのは我慢できない。下記リンク先は1,100人を超える学生と若手労働者が、グーグルとアマゾンがイスラエル軍と政府と結んだ12億ドル規模のクラウド・コンピューティングによる「プロジェクト・ニンバス」に関与していることを理由に、同社での就職やインターンシップをしないと誓約したというアンドロイド・ヘッドラインの記事である。

android  Over 1,100 students and young workers boycott Google & Amazon over Project Nimbus

2024年10月22日

スティーブン・フォスター『つらい時代はもう来ないで』に胸打たれる

Hard Times
Sheet Music Cover 1854  loupe

遥かなる昔、まだ子どもだった頃、アメリカ人と結婚して渡米した叔母が一時帰国したとき、お土産にとプレゼントしてくれたのが、ギターの形をした黄色いプラスティック製の手回しのオルゴールだった。曲はスティーブン・フォスター(1826–1864)の『おおスザンナ』だった。無論、よく知っているメロディだった。今は音楽の教科書から姿を消してしまったようだが、小学校、中学校と、フォスターの曲を教室で何曲歌わされただろうか。『草競馬』『故郷の人々(スワニー河)』『主人は冷たい土の中に』『懐かしきケンタッキーの我が家』『オールド・ブラック・ジョー』『夢路より』などなど、よく憶えている。ところがボブ・ディランをはじめ、ジョニ-・キャッシュ、ジェイムス・テイラー、エミルー・ハリス、ブルース・スプリングスティーン、ナンシー・グリフィス、そして日本の矢野顕子など、多くのシンガーが取り上げてるにも関わらず、かつて学校などで聴いた記憶がない名曲がある。パーラーソング 『つらい時代はもう来ないで』で、黒人教会で聴いた歌が元になったと想像される。貧困生活に疲れ果てた人たちのため息を歌ったものだが、後半のフレーズ「人生を苦労して生きる青白い顔の泣く乙女がいる」がキーワードとなって歌のイメージを模っている。しみじみとした心に響く素晴らしい歌である。アメリカ南北戦争の7年前に発表されたこの曲から生まれたパロディ、兵士たちの食事を風刺した『堅パンはもう二度と来ない』も広く流布されるなど、苦難と苦難の表現として同戦争中に大きな人気を博した。

Let us pause in life's pleasures and count its many tears,
While we all sup sorrow with the poor;
There's a song that will linger forever in our ears;
Oh! Hard times come again no more.

人生の喜びを一旦止めて たくさんの涙を数えよう
貧しい人々とともに悲しみを分かち合う一方で
私たちの耳に永遠に残る歌がある
おお つらい時代はもう来ないで
'Tis the song, the sigh of the weary,
Hard Times, hard times, come again no more.
Many days you have lingered around my cabin door;
Oh! Hard times come again no more.

それは歌 疲れた人のため息
つらい時代 つらい時代はもう来ないで
君は私の小屋のドアの周りに何日もたむろしてきた
おお つらい時代はもう来ないで
While we seek mirth and beauty and music light and gay,
There are frail forms fainting at the door;
Though their voices are silent, their pleading looks will say
Oh! Hard times come again no more.

私たちが陽気さと美しさと明るく楽しい音楽を求めている一方で
ドアの前で気絶する弱々しい姿がある
声は出なくても 懇願するような表情で
おお つらい時代はもう来ないで

There's a pale weeping maiden who toils her life away,
With a worn heart whose better days are o'er:
Though her voice would be merry, 'tis sighing all the day,
Oh! Hard times come again no more.

人生を苦労して生きる青白い顔の泣く乙女がいる
心は疲れ果て 最良な日々は過ぎ去った
彼女の声は陽気であろうとも 一日中ため息をついている
おお つらい時代はもう来ないで

'Tis a sigh that is wafted across the troubled wave,
'Tis a wail that is heard upon the shore
'Tis a dirge that is murmured around the lowly grave
Oh! Hard times come again no more.

それは荒波に漂うため息
それは岸辺に聞こえる嘆き
それは卑しい墓の周りでささやかれる哀歌
おお つらい時代はもう来ないで
Minstrel Show poster (ca. 1899)

フォスターが作った曲の多くは、ミンストレル・ショーで演奏するためのものだった。ミンストレル・ショーは白人が顔を黒く塗ってアフリカ系アメリカ人の格好を真似て歌い踊るエンターテイメント形態だった。南北戦争が始まると、ミンストレル・ショーが行われなくなり、フォスターの曲が人々に触れる機会が徐々に減っていったという。この歌は『金髪のジェニー』と同じ年、1854年に作られたもので、後の大恐慌時代にも歌われたという。カーター・ファミリーが1928年に録音した "Keep On the Sunny Side"(陽が当たる方にとどまろう)はまさにその「つらい時代」のトピカルソングであった。レコードとラジオという新しいメディアに乗ってヒットしたが、フォスターの時代にはまだそれがなかった。1864年、37歳の若さで非業の死を遂げたが、エジソンが蝋管式蓄音機を実用化したのはその13年後の1877年である。そしてこの歌が初めて録音されたのは1905年だった。下記リンク先で「エジソン男性四重唱団」の合唱を聴くことができる。フォスターの祖先はアイルランドからの移住して来たが、何故かそのルーツを彷彿させるものが希薄である。教科書に載っていたこともあるだろうけど、結局、彼自身が残したのは楽譜だけだったからかもしれない。下記リンク先は蝋管録音によるエジソン男性四重唱団の『つらい時代はもう来ないで』(1905年)である。

SoundCloud
"Hard Times Come Again No More" Sung by Edison Male Quartet in 1905 (Wax Cylinder Recording)

2024年10月20日

物作り日本の凋落:その原因と未来への展望

各国の賃金
全労連調べ(2023年12月)

いわゆる「物作り日本の凋落」という言葉を、よく耳にするようになった。日本列島がラストベルト(錆びた工業地帯)化し、非製造業を含めた賃金の抑制の遠因になっているのではないだろうか。かつて世界を席巻した製造業が、なぜ今のような状況に陥ってしまったのだろうか。この問題に対して、様々な角度から分析し、その原因と未来への展望を探っていきたい。日本の製造業の凋落には以下のような複合的な要因が考えられる。

    少子高齢化と労働力不足
    若年層の労働力減少は、製造業の生産性を低下させ、技術継承の断絶を招いている。
    グローバル化と競争激化
    新興国の台頭や技術革新により、日本の製造業は厳しい国際競争にさらされている。
    内需の低迷
    日本国内の消費が低迷し、製造業の成長を阻害している。
    規制の厳しさ
    環境規制や労働規制など、日本の製造業は他の国に比べて厳しい規制に縛られており、新たな技術開発や投資を妨げている側面がある。
    リスク回避の風土
    日本企業は、失敗を恐れて新しいことに挑戦しにくくなり、イノベーションが生まれにくい土壌が生まれている。
    GDP の低下
    製造業は、日本の GDP に大きな割合を占めており、その衰退は経済成長の鈍化につながる。
    雇用への影響
    製造業の雇用減少は、社会全体に波及し、失業率の上昇や経済の活性化の阻害につながる。
    技術力の低下
    世界的な技術競争の中で、日本の技術力が低下することは、国際的な地位の低下を招き、日本のプレゼンスを弱める可能性がある。
 
貿易収支の推移(原数値十億円)財務省よりマネックス証券作成

近年、日本において「イノベーション不足」という言葉が頻繁に耳にするようになった。イノベーションとは、ビジネスでは主に「技術革新」の意味で使用され、モノ、仕組み、サービス、組織、ビジネスモデルなどに新たな考え方や技術を取り入れることで新しい価値を生み出し、社会に大きな変革をもたらす取り組みを指す。かつて世界を牽引する存在であった日本の技術力や創造性が、なぜ停滞しているように見えるのだろうか。その背景には、様々な要因が考えられる。成果主義よりもプロセス重視、失敗を恐れる風土が、新しいアイデアの芽を摘んでしまうことがある。長期的な視点よりも、短期的な利益追求が優先される傾向も、イノベーションを阻害する要因の一つである。部署間の連携不足や、外部との交流が少ないことで、多様な視点やアイデアを取り入れることが難しくなりる。若手社員が自由に意見を言えるような環境が不足しているケースが多く、創造性を育む土壌が育まれていない。イノベーション不足は、日本経済の停滞や国際競争力の低下につながる可能性がある。また、社会全体の活性化にも悪影響を及ぼす恐れがある。例えばかつてソニーはウォークマンという独創的な製品を生み出した。ところがアップルの創業者の一人で当時の CEO でもあったスティーブ・ジョブズの陣頭指揮により開発され、これを凌駕した。そして iPod 機能を取り入れた、スマートフォンというコンセプトで発売された iPhone が iPod を上回る成功となった。iPhone の日本でのシェアは高く、MMD研究所の調査では50%に達する勢いである。今やこの製品だけでも多額の金が日本からから流失しているのである。

book 宇土寿和「物作り大国・日本の中小製造業が衰退しているワケ」幻冬舎メディアコンサルティング

2024年10月19日

ランド・アートを通じて作品を地球と共同制作するアンディ・ゴールドワージー

Sticks and stalks
Sticks and stalks, Sculpture Park, Yorkshire, England, 1987
Andy Goldsworthy

アンディ・ゴールズワージーは、イギリスの彫刻家、写真家、環境保護活動家であり、自然や都市の環境を舞台とした特定の場所を舞台にした彫刻やランド・アートを制作している。ゴールズワージーは1956年7月25日、イングランドのチェシャー郡で、ミュリエル(旧姓スタンガー)と、リーズ大学応用数学教授だった F・アリン・ゴールズワージーの息子として生まれた。彼はノース・ヨークシャーのハロゲイトで育った。13歳のときから、農場で労働者として働く。彼は「私の仕事の多くはジャガイモの収穫に似ています。リズムに乗らなければなりません」と農場の仕事の反復性を彫刻制作のルーチンに例えている。1974年から1975年までブラッドフォード芸術大学で、1975年から1978年までプレストン工科大学(現在のセントラル・ランカシャー大学)で美術を学び、後者で学士号を取得した。大学卒業後、ゴールズワージーはヨークシャー、ランカシャー、カンブリアに住んだ。1985年にスコットランドに移住し、最初はラングホルムに住み、1年後にペンポントに定住し、現在もそこに住んでいる。彼が徐々に北へ向かったのは「完全にはコントロールできない生活様式による」と言われているが、その一因にはこれらの地域で働く機会と願望、そして「経済的な理由」があったという。1993年、ブラッドフォード大学から名誉学位を授与される。 2006年から2008年にかけてコーネル大学彫刻科の A・D・ホワイト特任教授に師事した。

Ice Arch
Ice Arch, Cumbria, England, 1982

2003年、サンフランシスコのデ・ヤング美術館のエントランスの中庭に "Drawn Stone"(引き石)という委託作品を制作した。これはサンフランシスコで頻繁に起こる地震とその影響を反映している。彼のインスタレーションには、舗装にできた巨大な亀裂が小さな亀裂に分かれたり、ベンチとして使えるように砕けた石灰岩が含まれていた。小さな亀裂はハンマーで作られており、彼が作品を制作する際に予測不可能な要素を加えている。彼の作品に使われる素材には、鮮やかな色の花、つらら、葉、泥、松ぼっくり、雪、石、小枝、とげなどが含まれることが多い。彼は「花や葉、花びらを使って作品を作るのは信じられないほど勇気がいることだ。しかし、私はそうしなければならない。私が扱う素材を編集することはできない。私の使命は、自然全体を使って作品を作ることだ」と語ったと伝えられている。

Sycamore
Sycamore, Glasgow, Lanarkshire, Scotland, 1986

作品は自然のプロセスに干渉するのではなく、意図的に景観への介入を最小限に抑えることで、既存のプロセスを拡大している。ゴールドズワージーは「私は、硬い生きた岩を彫ったり、壊したりすることには抵抗があります...大きな、深く根を張った石と、崖のふもとに横たわっている瓦礫、浜辺の小石には違いを感じます...これらは、まるで旅の途中のように、ゆるく不安定で、長い間休んでいる石ではできない方法で作業することができます」と述べている。入手可能な自然素材で作業することにこだわることで、作品に固有の希少性と偶然性が注入されるのである。このような儚い作品では、しばしば素手、歯、拾った道具だけを使って素材を準備し、並べる。彼の制作過程からは、時間性へのこだわりや、目に見えて古くなり朽ち果てていく素材への特別な関心がうかがえるが、それはランド・アートにおけるモニュメンタリズムとは対照的である。

Red Tree
Red Tree, North Yorkshire, England, 2022

ウェスト・サセックス州ウェスト・ディーン近郊のサウス・ダウンズにある「屋根」「石の川」「三つのケアン」「月明かりの小道」「白亜の石」などの恒久的彫刻作品には、工作機械が使用されている。「屋根」の制作には、助手と5人のイギリス人空積み石工とともに作業し、構造物が時間と自然に耐えられるよう配慮した。ゴールズワージーは、石を絶妙なバランスで積み上げるロックバランシングの現代の創始者と考えられている。ところで写真は、その儚い一時的性質ゆえに、彼の芸術において重要な役割を果たしている。場所を限定した環境作品を自身が撮影した写真は、場所との重要なつながりを断ち切ることなく作品を共有することができる。ゴールドスワーシーによると「それぞれの作品は成長し、存続し、衰退する。これは、写真が最高潮に達したときに示すサイクルの不可欠な部分であり、作品が最も生きている瞬間を示す。作品のピーク時には強烈な雰囲気があり、それが画像に表現されているといいと思う。

Earth Wall
Earth Wall, Presidio Park, San Francisco, California, 2013

過程と衰退は暗黙のうちに存在している」という。写真はゴールドワーシーの作品を理解するのに役立ち、また作品を観客に伝えるのにも役立っている。彼は「写真は、私の芸術について話し、書き、考えるための手段です。写真は、他の方法では明らかにならなかったかもしれないつながりや展開に気づかせてくれます。写真は、私の芸術全体を貫く視覚的な証拠であり、私がやっていることについて、より広く、より遠くから見る視点を与えてくれます」と語っている。ゴールズワージーは2001年にドイツ人監督トーマス・リーデルスハイマーが監督したドキュメンタリー映画 "Rivers and Tides"(河川と潮汐)の題材となった。 2018年、リーデルスハイマーはゴールズワージーに関する2本目のドキュメンタリー "Leaning Into the Wind"(風に寄り添う)を公開した。1982年、ゴールズワージーはジュディス・グレッグソンと結婚し、4人の子供をもうけたが、その後別れた。現在は恋人で美術史家のティナ・フィスクとともにスコットランドのペンポン村に住んでいる。

university  How to Inspire Your Students with Andy Goldsworthy | The Art of Education University

2024年10月17日

コメンテーターというシステムはニュース番組には要らない

CNN
世界初 24 時間放送のケーブルテレビ・ニュースチャンネルのCNN

テレビはコマーシャルを避けるという単純な理由で NHK を観ることが多い。私は民放の特に死亡保険、葬儀場、サプリメント、そして様々な通販などの執拗なコマーシャルには辟易とする。ことさら NHK を持ち上げる気は毛頭ないのだが、夕方7時のニュースはなるべく観るようにしている。同局 BS の「ワールドニュース」もしばしば視聴している。世界の放送局のニュースをダイレクトに伝える番組で。日本で流れるニュースが海外ではどのように報道されているのか、日本語通訳つきの2か国語放送で伝えてくれる。さまざまな言語に触れることもできる番組である。例えば10月18日にはイギリス・BBC、フランス・F2、スペイン・TVE、カタール・アルジャジーラ、中国・CCTV、シンガポール・CNA、インド・NDTV、オーストラリア・ABC、韓国・KBSなどの番組が放送された。この番組で学んだのだが、平均的なアメリカのニュース番組は、番組全体で取り上げられる記事の概要を示すことから始まる。主な焦点は、各メインストーリーの視覚的な概要を示すビデオ映像であり、視聴者はほんの数秒間画面をざっと見るだけで情報を収集できる。この方法は NHK の夕方7時のニュースも採用している。民放を避けるもう一つは「情報バラエティ番組」を忌避したいからだ。我が家のテレビは居間兼食堂にあるが、食事時、家人がスイッチを入れていることが多い。何気なく観ていると気に触ることがしばしばある。インターネット百科事典ウィキペディアは「情報番組」を以下のように説明している。

日本のテレビ局において、1990年代前半では「情報番組」は「生活情報番組」およびニュースとワイドショーを合わせた「朝の情報番組」を指していた。朝の情報番組はワイドショーを制作している部署が番組を制作しているため、報道局報道部が番組制作している「報道」とは別ジャンルとして扱われてきた。そのため、番組の中では「ニュース」という呼称が使えなかった。 しかしながら、1999年からワイドショーの報道化が進んだ一方で2000年以降、ニュース番組が従来ワイドショーで扱ってきたソフト・ニュースも扱うようになり、夕方のニュース番組を「情報番組」と呼ぶようになった。
World News

つまりニュースを扱うようになったので、ニュース番組と誤解されがちである。問題は番組に登場するコメンテータの資質である。テレビプロデューサーの鎮目博道はプレジデント・オンラインに、コロナ問題を機に「コメンテーター不要」の思いが強くなったと書いている。曰く「そもそも、ひとりの人間が専門分野を超えてどんな話題にでも『個人的意見』をいう『コメンテーター』というシステムはニュース番組には要らないのではないか、と考えるようになったのです」云々。稀に例外があるかもしれないが、元スポーツ選手や音楽家に政治問題を語らせるのは無理だし、逆に政治ジャーナリストにスポーツや音楽の話題を振るのも所詮無理難題である。テレビ局にとって彼らは番組を飾るタレントに過ぎない。だから彼らの学歴や肩書、果ては女性の場合は容姿まで看板にしている可能性がある。下記リンク先はグローバリゼーションとローカライゼーションの研究者で、シアトルの任天堂テクノロジー開発のオフィスに勤務している、カイル・チョウが LinkedIn(リンクトイン)に寄稿した "What's Up With Japanese TV?"「日本のテレビはどうなっているのか?」(英文)である。

Linkedin
日本のテレビはどうなっているのか | 精緻な字幕 | ニュース番組のテキスト | インタラクティブ放送 | その他

2024年10月15日

芸術のレズビアン・サブカルチャーに深く関わった写真家ルース・ベルンハルト

In the Circle
In the Circle, New York, 1934
Ruth Bernhard

ルース・ベルンハルトは1905年10月14日、ドイルのベルリンで、ルシアン・ベルンハルトとガートルード・ホフマンの間に生まれた。ルシアン・ベルンハルトは、ポスターや書体のデザインで知られており、その多くに彼の名前が付けられ、現在も使用されている。彼女が2歳のときに両親が離婚し、離婚後に母親に会ったのは2回だった。彼女は2人の学校の教師の姉妹とその母親によって育てられた。ベルンハルトの父ルシアンはルースの仕事の主要な支持者であり、頻繁に彼女に助言していた。ベルンハルトは、1925年から1927年までベルリン芸術アカデミーで美術史とタイポグラフィを学ぶ。その後ニューヨーク市に移り住み、父と合流した。彼女はラルフ・シュタイナーのアシスタントとして月刊女性誌『デリニエーター』誌で働いたが、仕事に熱心でなかったため解雇された。退職金を使って、ベルンハルトは自分のカメラ機材を購入した。1920年代後半までに、マンハッタンに住んでいたベルンハルトは、写真家のベレニス・アボットや彼女の恋人で批評家のエリザベス・マコーズランドと友達になり、芸術コミュニティのレズビアン・サブカルチャーに深く関わった。彼女が他の女性に惹かれていることに初めて気づいたのは、1928年の大晦日、画家のパティ・ライトと出会ったときだったとは回顧録に「バイセクシュアルの逃避行」について書いている。1934年、ベルンハルトは女性のヌード写真を撮り始めた。彼女が最終的に最もよく知られるようになったのはこの芸術形式だった。

Creation
Creation, 1936

1935年、彼女はロサンゼルスのダウンタウンの西側、サンタモニカのビーチでエドワード・ウェストンに偶然出会った。彼女は後に「彼の写真を初めて見るという経験には、心の準備ができていませんでした。圧倒されました。それは暗闇の中の稲妻でした...私の目の前には、私が可能だと思っていたこと、つまり写真撮影を媒体とする非常に生命力のあるアーティストの議論の余地のない証拠がありました」と言っている。と。ベルンハルトはウェストンの作品に非常に感銘を受け、1935年に彼と出会った後、彼が住んでいたカリフォルニアに引っ越した。1939年、ベルンハルトはニューヨークに戻り、写真家のアルフレッド・スティーグリッツと出会った。ベルンハルトは、彼女の人生の小さなことに触発された。1999年のフォトグラファーズ・フォーラムのインタビューで「私が最も興味を持っているのは、誰も観察しない、誰も価値がないと思っている小さなこと」と述べている。同じインタビューで彼女は「すべてが普遍的」であり「それを非常に認識している」と述べた。このミニマリズムのアイデアが、彼女の写真への情熱を駆り立てたのである。

Hand with Dandelion
Hand with Dandelion, 1936

1934年、MoMA(ニューヨーク近代美術館)から、マシンアート展カタログの作品撮影の依頼を受ける。ルシアン・ベルンハルトが彼女のために MoMA との折衝を設定した。のである。1943年頃、彼女は布地、壁紙、ウィンドウ ディスプレイ、ブロードウェイ ショーのセットなどをデザインしていたエヴェリン・フィミスターと出会った。彼らカリフォルニアで約10年間一緒に暮らした。バーンハードは多くの恋愛関係を持ったが、フィミスターは彼女が一緒に暮らした唯一の人物だった。ここでストレートフォトグラフィの実践を標榜した写真家のグループ f/64 に参加した。しかしカーメルが生計を立てるのが難しい場所であることに気づき、彼らはハリウッドに移り、彼女は商業写真家としてのキャリアを築いた。1953年、彼らはサンフランシスコに移り、そこで彼女はアンセル・アダムス、イモージェン・カニンガム、マイナー・ホワイト、ウィン・ブロックなどの写真家の仲間となった。彼女の作品のほとんどはスタジオベースで、シンプルな静物画から複雑なヌードまでさまざまである。 1940年代には、貝殻学者のジャン・シュヴェンゲルと共に働いた。

Hips Horizontal
Hips Horizontal, 1975

彼女はほぼモノクロで仕事をしていたが、カラーの仕事もやったという噂もある。彼女はまたレズビアンをテーマにした作品、特に "Two Forms"(二つの形態/1962年)でも知られている。その作品では、現実の恋人であった黒人女性と白人女性が、裸体を押し付け合って登場する。1980年代初頭、カーメルにあるフォトグラフィー・ウェスト・ギャラリーのオーナー、キャロル・ウィリアムズと仕事を始めた。ベルンハルトはウィリアムズに、彼女の死後に彼女の写真集が出版されることを知っていたが、彼女の生きている間に1冊が出版されることを望んでいると語った。ウィリアムズは "New York Graphics Society"(ニューヨーク・グラフィックス・ソサエティ)や、他のいくつかの写真集の出版社に声をかけたが「モノクロの写真集を売れるのはアンセル・アダムスだけだ」と忠告された。ベルンハルトとウィリアムズは、ルース・ベルンハルトのヌードの優れた品質の本を出版するために必要な資金を調達するために、5つの限定版プリントを販売することを決定した。

Teapot
Teapot, 1976

その後の版は、ガードナー・リトグラフのデイヴィッド・グレイ・ガードナーによって制作され "The Eternal Body(『永遠の体)と呼ばれた。こ。この写真集は、2005年10月のルース・ベルンハルトの生誕100周年を記念して、クロニクル・ブックスから再版され、その後、デラックス限定の100周年記念版として再版された。キャロル・ウィリアムズは、ルース・バーナードが彼女に本の出版に挑戦するように促したと信じており、後に他のいくつかの写真モノグラフを出版した。1980年代にはジョー・フォルバーグとも仕事をするようになった。フォルバーグは、1982年にサンフランシスコのダグラス・エリオットからビジョン・ギャラリーを買収した。ベルンハルトとフォルバーグは、フォルバーグが亡くなるまで一緒に働きました。ギャラリーは分裂し、デブラ・ハイマーディンガーが北米での運営を引き継ぎ、フォルバーグの息子ニールが「ビジョン・ギャラリー」をエルサレムに移した。アンセル・アダムスによって「ヌードの最も偉大な写真家」として讃えられたベルンハルトは2006年12月18日、サンフランシスコで101歳で亡くなった。

ICP  Ruth Bernhard(1905–2006) American, born Germany | Biography | Archived Items

2024年10月12日

鳥寄せ小道具バードコールでアウトドア気分

英国製釣り用バッグにぶら下げたオーデュボン協会のバードコール

バードウォッチング(作者不詳)

通販サイトでアメリカの鳥獣保護団体オーデュボン協会のバードコールを見つけ、懐かしかったので取り寄せた。全長約5cmの小道具で、木筒と金属をこすり合わせると、小鳥の鳴き声が出る。さっそく釣り用バッグにぶら下げてみた。1980年代初頭、私は週刊誌 のアウトドア欄のフォトエディターをしていた。どちらかというとインドア派の私だったが、シェラデザインのデイパックを街中で背負い、アウトドア派を気取っていた。今でこそ老若男女、デイバックを背にしているが、何しろ40年以上前の昔、当時としては珍しいファッションだったと思う。バードコールに革ひもをつけ、ペンダントにしていた。試しに鳴らしてみたことはあるが、実際に屋外で鳥寄せをした記憶はない。通販サイトには「アメリカでは100年以上も前から狩猟に使われていた」と説明されている。しかしこれは間違いで、100年以上前というのはヨーロッパの話である。

製作中のロジャー・エディ(1983年)

コネチカット・エクスプロアード誌によると、オーデュボン協会のバードコールは、1952年にコネチカット州のロジャー・エディが発明したという。彼は第二次世界大戦中にイタリアの第10山岳師団に従軍したが、そこで猟師たちが使っていたバードコールを、アメリカに持ち帰ってオーデュボン協会に持ち込んだ。協会は狩猟に使うことには興味を示さなかったが、野鳥観察の道具として採用したようだ。ところで通販サイトのカスタマーレビューに「近所の公園でキュッキュと鳴らしていたら、その音を聞きつけて中年の女性が寄ってきました」「部屋でこっそり鳴らしたら、旦那が嬉しそうにベランダに見に行った」などとあり、吹き出してしまった。私も似たようなもので、アウトドア気分を味わうだけになりそうだ。ここで蘊蓄。小鳥がチッチッチと囀(さえず)ることを英語で Tweet と言うが、これがソーシャルメディア X/Twitter の語源になった。だから Tweet は「つぶやき」ではなく「囀り」と訳すべきだろう。オーディオの世界では、高音用スピーカーを Tweeter(ツイーター)と呼ぶ。そして低音用は Woofer(ウーファー)だが、こちらは犬の唸り声に由来する。ネーミングの妙に感心する。

Audubon Society  Our Work | About Us | Explore Birds | Get Involved | Membership | Audubon Society

2024年10月10日

杉田水脈の水脈は安倍晋三

杉田水脈
女性を叩く女性政治家 ©2024 大塚 努

久しぶりに杉田水脈の名を目にした。水脈(みお)は父親が万葉集の「泊瀬川流水尾之湍乎早井提越浪之音之清久(初瀬川流るる水脈の瀬を速みゐで越す波の音の清けく)」からとったという。水脈は流れの深いところをさすそうだが、確かに美しい名前ではある。石破政権から公認されなくても、来年の参院選へのくら替え出馬などの「あらゆる可能性を検討する」とし、政治活動を続ける考えを明らかにしたという。政治資金パーティーを巡る裏金事件で、清和政策研究会(旧安倍派)に所属していた彼女は2018~22年に安倍派から受け取った寄付金計1,564万円を政治資金収支報告書に記載しなかったとして、党役職停止6カ月の処分を受けた。山口県連は比例中国ブロック単独候補として党本部に公認申請したと発表した。第2次岸田改造内閣で総務政務官に、よりもよって過去に性的少数者をめぐる発言などが問題となった衆議員議員の杉田が起用された。問題は杉田が女性やマイノリティを過激な言葉で攻撃することで、政治家としての地位を得てきたという事実である。曰く「LGBTだからといって、実際そんなに差別されているものでしょうか」「LGBTのカップルのために税金を使うことに賛同が得られるものでしょうか。彼ら彼女らは子供を作らない、つまり『生産性』がないのです」云々。

coronavirus

さらに「国や自治体が少子化対策や子育て支援に予算をつけるのは『生産性』を重視しているからです。生産性のあるものとないものを同列に扱うのは無理があります。これも差別ではなく区別です」とは恐れ入るが、これを繰り返し主張しているのである。「伊藤詩織氏の事件が、それらの理不尽な、被害者に全く落ち度がない強姦事件と同列に並べられていることに女性として怒りを感じます」「私は、女性差別というのは存在していないと思うんです。女子差別撤廃条約には、日本の文化とか伝統を壊してでも男女平等にしましょうというようなことが書いてあって、これは本当に受け入れるべき条約なのか」といった暴言を列挙したらキリがない。人間として如何なものかと思うが、こんな女性が国会議員であることに、この国の政治風土を嘆かざるを得ない。かつては日本維新の会に所属していたが、現在は自由民主党の議員である。時計の針を逆に回せば、極右ジャーナリストの櫻井よしこが安倍晋三に推薦し、安倍も杉田を気に入り出馬するに至ったというわけである。何のことはない、地下で水脈は繋がっている。安倍晋三の負のレガシーなのである。

Japanese Government  杉田水脈衆議院議員「委員会発言一覧」(全期間)| 国会議員白書 | 国立国会図書館サーチ| 菅原琢

2024年10月9日

ジェイムズ・ジョイス『ユリシーズ』を読んでみよう

80年後のジェイムズ・ジョイス
シェイクスピア&カンパニー書店

アーネスト・ヘミングウェイ(1899–1961)の『移動祝祭日』(高見浩訳・新潮文庫)を読んでいたら、ジェイムズ・ジョイス(1882–1941)との交遊エピソードが目に止まった。ヘミングウェイは結婚したばかりのハドリーを伴って1921年12月、パリに移住した。そこでジョイスと知り合うのたが、翌年2月2日に小説『ユリシーズ』が、オデオン通りに書店「シェイクスピア・アンド・カンパニー」を構えていたアメリカ人女性、シルヴィア・ビーチ(1887–1962)によって刊行された。20世紀を代表するふたりの文学者が異国の地で親交を温めたことは、当時のパリが芸術家のいわば聖地であったことの証でもあった。パブロ・ピカソ(1881-1973) スコット・フィッツジェラルド(1896-1940)マルク・シャガール(1887-1985)マン・レイ(1890-1976)藤田嗣治(1886-1968)など、巡礼者の名を上げたらキリがない。そういえば『ユリシーズ』を持っていたと思い出し、書架の奥に隠れていた集英社刊、丸谷才一 ・永川玲二・高松雄一訳の3冊を捜し出した。

ユリシーズ I・II・III(集英社)

今でこそ文庫本化されているが、1996年から翌年にかけて出版されたハードカバーの初版本である。ところがこれは購入したものの、眠らせたままで読んでいなかった。二度にわたるアイルランド旅行のあと、ジョイスの作品に興味を持ち『ダブリン市民 』(安藤一郎訳・新潮文庫)を読んでみたが、途中で放り投げてしまった。何故かその記述に馴染めないものがあり、いささか辟易したと記憶している。しかし今また手に取れば。おそらく違う感触を持つのではないだろうか。この短編集はむしろ読みやすいほうで『ユリシーズ』は難解だと言われている。というわけで入手したものの、何となく億劫になってしまったのかもしれない。しかし今は少なくとも10年前より書籍を読む根気が増したような気がする。その根底には歳を重ねるうちに、若い頃と違って「読まなくては」という心理的束縛から解放され、放棄したときの挫折感が遠のいたのだろう。もしかしたら再び途中で投げ出すかもしれないが、のんびり読み始めてみようかと思う。

amazon  ジェイムズ・ジョイス『ユリシーズ』文庫版 全4巻完結セット (集英社文庫ヘリテージ 2012年)