2024年8月30日

フォトジャーナリズムと芸術写真の境界を歩んだカラー写真の先駆者エルンスト・ハース

Rush Hour
Rush Hour, New York City, 1980
Ernst Haas

写真界で最も影響力のある人物のひとりであるエルンスト・ハースは、カラー写真の先駆者であり、その深く魅惑的なイメージは写真という媒体の芸術的可能性を表現し、何世代にもわたる著名な写真家に影響を与えた。1921年3月2日にオーストリアのウィーンで生まれたハースは、高級公務員のエルンスト・ハースとフレデリケ・ハース=ツィプサーの息子で、フリッツ・ハースという兄がいた。教育と芸術を非常に重視していた両親は、幼い頃から彼の創作活動を奨励した。父親は音楽と写真を楽しみ、母親は詩を書き、芸術家になることを志していた。ハースは世界をカラーで見ており、当時のカラー写真に対する業界の偏見にもかかわらず、自分のビジョンを妥協することを拒否した。25歳のとき、ローライフレックスを10キロのマーガリンと交換して初めてのカメラを手に入れた。この決断について彼は後にこう語っている。

私は写真家になりたいと思ったことは一度もありません。それは、探検家と画家というふたつの目標を両立させたいと願った少年の妥​協からゆっくりと生まれたものです。私は旅をし、見て、経験したいと思っていました。絶えず変化する印象に圧倒され、ほとんど急いでいる画家のような写真家という職業よりも、もっと良い職業があるでしょうか?しかし、私のインスピレーションは写真雑誌よりも、あらゆる芸術から多くを得ました。

それ以来、彼は熱心なドキュメンタリー作家となり、わずか10年後には MoMA(ニューヨーク近代美術館)の歴史的な "Family of Man"(人間家族)展の出展者に選ばれた。 かつてピクトリアリズム運動を支持した写真家のエドワード・スタイケンは、MoMA で写真を通して現代人の歴史を語る展覧会を企画する機会を得た。

Homecoming Prisoners
Homecoming Prisoners of War, Vienna, 1947

この展覧会は、20世紀の写真界にとって今でも最も重要な瞬間のひとつであり、特定の名前やプロジェクトを私たちの集合的記憶に定着させ、特定の個人をその技術の達人として証明している。しかし、この画期的なプロジェクトを実現したスタイケンは、展覧会の実施が前任者のジョン・シャーコウスキーに委ねられていることを知らなかった。シャーコウスキーは違った視点を持っており、スタイケンとは反対の考えを主張し、残念ながらエルンスト・ハースの作品を同じように評価していなかった。写真という媒体に対する飽くなき情熱により、著名な雑誌から仕事を得ることになり、1953年には『LIFE』誌に帰還捕虜に関するカラー写真エッセイを初めて掲載した。この写真エッセイにより、ハースはヴェルナー・ビショフ、アンリ・カルティエ=ブレッソン、ロバート・キャパといった有名写真家の仲間入りを果たした。キャパはカラー写真の道を追求するよう勧め、ハースはライカとカラーフィルムで撮影を始めた。

Motion Crosswalk
Motion Crosswalk II, New York City, Undated

1950年5月、ニューヨークに渡ったハースが撮影した最初の写真は、エリス島に到着した移民たちを写したものだった。ハースが到着した頃には、ニューヨークの街路は、人生のあらゆる側面を記録しようとする写真家にとって、すでに人気の被写体となっていた。ハースのアプローチは、リセット・モデルやウィリアム・クラインなどの同僚たちほど直接的でも対立的でもなかった。批評家のA・D・コールマンは「ジェスチャードローイングの写真版追求した抒情詩人だった」と書いている。 1951年、『LIFE』誌に24ページのカラー写真エッセイ "Images of New York"(ニューヨークのイメージ)が掲載され、これはハースと同誌の両方にとって初の長編カラー特集印刷物となった。ハースは当時の代表的なドキュメンタリー作家のひとりとして認められてが、煙草の広告、マールボロマンを撮影した最初のひとりとして商業作品で記憶されている。

Lights of New York City
Lights of New York City, 1970

しかし、彼の真の感性はプライベートな作品でこそ明らかにされている。ハースの作品に対する賞賛は、異なる趣向を強めており、ほのかにしか感じられない。しかし紛れもない才能は、芸術写真がどうあるべきかという犠牲となり、ハースはカラー写真の規範から排除されることになったが、彼の作品と貢献は時の試練に耐え、論争にもかかわらず、1959年にハースはマグナム・フォトの代表に選出された。カラーフィルムを使った実験や、写真というよりは精巧に構成された絵画のような抽象的な構成で最もよく知られているハースは、写真における詩の重要性を信じた真の優れた写真家であり、批評家からは「カメラで描く絵画」と評されている。「あなたとあなたのカメラだけがある。写真の限界はあなた自身にある。私たちが見ているものが私たち自身なのだから。明白な現実に飽き飽きして、それを主観的な視点に変えることに魅力を感じます。

Western Skies Motel
Western Skies Motel, Albuquerque, New Mexico, 1977

被写体に触れることなく、純粋に集中して見ることで、構成された写真が撮影されたというより作られたものになる瞬間に到達したいのです。その存在を正当化する説明的なキャプションがなければ、それはそれ自体で語るでしょう。説明的ではなく、より創造的。情報的ではなく、より示唆的。散文的ではなく、より詩的に」と彼は主張した。被写界深度を狭くし、動きをぼかし、フォーカスを絞り、シャッタースピードを遅くするといった先駆的な手法を駆使し、当時の慣習にとらわれない異端者として知られている。染料転写法を駆使した最初の写真家のひとりであるハースの作品は、今日に至るまで比類のない視覚的な真実味を保っている。彼の作品は観客やアーティストを魅了し、刺激を与え続けている。1985年12月に脳卒中を起こした後、ハースは出版したいと思っていた2冊の本のレイアウトに集中した。1冊は白黒写真、もう1 冊はカラー写真だった。1986年9月12日に脳卒中で他界、65歳だったが、自伝の執筆を準備していた。

Magnum Photos  Ernst Haas (1921–1986) | Early Color Images of New York City | The Magnum Photos

2024年8月29日

地下鉄の乗客をキャンディッドしたウォーカー・エヴァンス

Two Women in Conversation
Two Women in Conversation, New York City, 1941

ウォーカー・エヴァンス (1903-1975) は世界大恐慌下のアメリカの農業安定局 (FSA) の写真記録プロジェクトに加わり、南部の農村のドキュメントタリー写真を撮ったことで有名になった。そして1938年から1941年にかけてエヴァンスはニューヨークの地下鉄で注目すべき一連のポートレートを撮影した。35ミリのコンタックスを胸に装着し、冬用コートのふたつのボタンの間からレンズを覗かせて、密かに至近距離から乗客を撮影したのである。公共の場である地下鉄の中にもかかわらず、ポーズをとらず、考えに耽っている被写体は、好奇心、退屈、楽しみ、落胆、夢想、消化不良など、さまざまな雰囲気や表情を絶えず変化させていることに気づいた。フランスの画家オノレ・ドーミエの『三等客車』の鋭い写実性に触発されたエヴァンスは、従来のスタジオポートレートの虚栄心、感傷性、人為性を避けようとした。この地下鉄シリーズは「ポートレートとはこうあるべきだという私の考え、つまり匿名で記録的な、そして人類の率直な描写」だったと述べている。

Subway
Subway Passengers, New York City, 1941, Woman and Two Men
Subway Passenger
Subway Passengers, New York City, 1938, Many Are Called
Subway Passenger
Subway Passengers, New York City, 1938, Many Are Called
Subway Passengers
Subway Passengers, New York City, 1941, Two Women in Conversation

日本で同じような撮影をして見つかれば、警察沙汰になるかもしれない。スチル写真ならぬスチール写真、すなわち「盗撮」という汚名を冠されてしまうだろうからだ。エヴァンスがニューヨークの地下鉄で撮影した無名の人々の写真には、撮影されていることに気づかない、無防備な瞬間の人間が写っている。しかし別の意味での無自覚、つまり、周囲の環境や向かい合った人、時間を意識せず、過去、現在、未来の夢を意識していない。読書に夢中になっていたり、ぼんやりと天井を見つめていたり、深く沈思黙考していたり、信じられないほどの悲しみを抱えていたりしている。毛皮のついたコートと先の尖った帽子をかぶった女性は、厳格で、気難しく、金持ちで、母性的であるという、正反対のふたりの女性が一緒にいたりする。「孤独な寝室以上に、地下鉄の中では人々の顔は裸の休息状態になっていた」とエヴァンスは述懐したという。(2024年8月28日更新)

museum  Search the Collection "Walker Evans Subway Passengers" Metropolitan Museum of Art

2024年8月27日

ボブ・ディランが登場する前のフォークシーンの重要な人物だったデイヴ・ヴァン・ロンク

Dave Van Ronk's jug band
Dave Van Ronk's jug band performs at the the Gaslight Cafe in 1963 ©Jack Kanthal

2013年に公開されたジョエルとイーサンのコーエン兄弟のブラックコメディ作品『インサイド・ルーウィン・デイヴィス』は、60年代初頭のニューヨークのフォークシンガーの物語を描いている。オスカー・アイザックが演じるキャラクターは、主にデイヴ・ヴァン・ロンクからインスピレーションを得ている。当時の新しいグリニッジ・ヴィレッジのフォークシーンの重要な人物だった。2002年にほとんど忘れ去られていたが、ヴァン・ロンクは約30枚の LP と、アメリカのフォーク・ブルース・ギタリストで音楽ジャーナリストのイライジャ・ウォルドとともに制作したコンピレーションアルバム 『マクドゥーガル通りの市長』を残した。その回顧録は『マンハッタンのフォーク物語』というタイトルで初めてフランス語に翻訳された。カナダのケベック州モントリオールで発行されているフランス語のオンライン新聞『ラ・プレッセ』のジャン=クリストフ・ローレンスが、亡くなった友人に今も深い愛情を抱いている共著者ウォルドにインタビューしているので紹介しよう。

Inside Llewyn Davis
Inside Llewyn Davis: Produced by Coen brothers and starring Oscar Isaac
コーエン兄弟はデイヴ・ヴァン・ロンクのどこに惹かれたと思いますか?
デイヴは人生を超えた存在でした。彼は大きなユーモアのセンスを持った、ひげを生やした大きなクマでした。彼らは、ボブ・ディランが登場する前の彼の物語の語り方やグリニッジ・ヴィレッジの描写が気に入っていたのだと思います。デイヴはこのシーン全体に関して非常に明晰な印象を持っていました。当時を振り返るほとんどの人は、彼らがどれほど素晴らしかったかを言うでしょう。彼ではありません。彼は常にあらゆるものから健全な距離を保っていました。彼には比例感があった。彼はニューヨークの他の場所にもっと優れたミュージシャンがいることを知っていました。
ボブ・ディランやジョニ・ミッチェルなど、彼の友人の中には名声を得た人もいます。彼ではありません。
私は彼らに代わって答えることができません。しかし、デイヴは決して敗者ではなかったと私は言いたいと思います。政治的には社会主義者でした。彼は国王や大統領になりたくなかった。彼はただミュージシャンになりたかっただけで、まさにそれを生業としていたのです。もちろん、彼は金持ちになって成功したかったでしょう。しかし、それがそのようです。彼は宝くじに当たりませんでした。宝くじに当たる人は少ない…。
彼は辛かったですか?
彼は70年代だったと思いますが、その頃はまだお金がほとんどありませんでした。しかし、彼はそれをすぐに乗り越えました。 1980 年代に、彼はグリニッジ・ヴィレッジのフォークミュージシャンの新しい波によって再発見されました。 スピークイージーなど、彼は近所の灰色の名士になっていた。彼は自分の貢献を認識していました。
音楽的に、私たちは彼に何の借りがあるでしょうか?
私にとって、それは何よりもその味です。彼のレパートリーは当時の他の誰よりも多様で豊かでした。彼はフォーク、ブルース、ジャズ、ジャグバンド、ラグタイムなどあらゆるジャンルで演奏し、ベルトルト・ブレヒトやロックさえも歌いました。彼は常に自分らしく聞こえる方法を見つけていました。ほとんどの都市部の白人の若者とは異なり、彼は借り物ではないブルースの歌い方を持っていた。彼は話しながら歌いました。彼は素晴らしいアレンジメントも書きました。最後に、彼はジョニ・ミッチェルとボブ・ディランを最初に信じた人の一人でした...。
Village Troubadour
Village Troubadour (L-R) Bob Dylan, his girlfriend Suze Rotolo and Dave Van Ronk in 1963.
ディランは恩返しをしていないようだ。彼らの関係は急速に悪化した。
デイヴ・ヴァン・ロンクはこのシーンの中心にいました。彼は他人の才能を見出す方法を知っていました。ディランの場合、彼は正しかったし、それをとても誇りに思っていた。しかし、彼がスーパースターになった瞬間、彼らは自分たちが別の世界にいることに気づきました。ディランの取り巻きは特に醜かった。彼らは自分たちを王族であると考えていましたが、他の人は単なる廷臣でした。デイブはこのゲームをプレイしたくありませんでした。
どのようにして彼の自伝に共同署名することになったのでしょうか?
私たちはこの本を一緒に書くことに同意しましたが、彼はわずか2章を書いた後に亡くなりました。化学療法中、突然の出来事でした。しかし、私は彼のことをよく知っていたので、この仕事をやり遂げることができると確信していました。デイブは私にとって第二の父親のような存在でした。 12歳のときに彼のパフォーマンスを見て、私の人生が変わりました。それから70年代に彼とギターのレッスンを受けて、とても良い友達になりました。彼のソファで何回寝たか数え切れません。彼がどう思ったか私は知っています。この本のために、私は彼の声に身を埋めました。それが私にとって悲しむ最良の方法でした。
コーエン兄弟の映画が彼を更生させると思いますか?
それはすでに始まっています。 1年前、ディランが登場する前のグリニッジ・ヴィレッジはどんな感じだったかを尋ねられても、人々は何と答えるべきか分からなかっただろう。今日、彼らはディランの前にデイヴ・ヴァン・ロンクがいたと言います...本の売れ行きにもそれが見られます。先月は過去5年間よりも多く販売されました。

コーエン兄弟の映画は、デイヴ・ヴァン・ロンクだけでなく、彼の音楽への関心も再燃させた。彼のカタログ全体がデジタル形式で再発行された。イライジャ・ウォルドは「中には1960年代以来入手できなくなったものもあと」と言う。 23枚のアルバムはすべて iTunes 購入できる。どこから始めればよいかわからない場合は、ウォルドの「デイヴ・ヴァン・ロンク・リスナーズ・ガイド」 を読むことを勧めたい。下記リンク先はカナダの『ラ・プレッセ』紙によるイライジャ・ウォルドへのインタビューの原文(フランス語)である。

presse  Redécouvrir Dave Van Ronk | Jean-Christophe Laurence | Mis à jour le 23 déc. 2013

2024年8月25日

もしドナルド・トランプ前大統領がホワイトハウスに戻ったら

Old White House
Old White House ©2020 Vasco Gargalo

ドナルド・トランプ前大統領がホワイトハウスに戻れば、支援者が増え、敵対者に対する報復の計画がより的を絞ることになるだろう。人間の想像力は、その素晴らしい創造力にもかかわらず、未来に目を向けると失敗することが多い。おそらく、慣れ親しんだものへの渇望によって鈍くなってしまうのだろう。過去には、深刻な不安定、危機、さらには革命的な激動の瞬間が数多くあったことを、みな理解している。そのような出来事が何年も、何十年も、あるいは何世紀も前に起こったことはわかっている。それが明日起こるかもしれないとは信じられない。トランプが話題になると、想像力はさらに衰える。トランプは通常の政治行動は言うまでもなく、人間の通常の行動範囲をはるかに超えて行動するため、たとえ彼が自分の意図を公然と宣言したとしても、実際に何をするかを受け入れるのは難しい。さらに、すでにトランプは大統領職を一度経験している。その過去の経験から、私たちは偽りの安心感を得ることができる。アメリカの民主主義は生き残った。最初の任期では、トランプの腐敗と残虐行為は彼の無知と怠惰によって増幅された。二期目ではトランプは体制の脆弱性をより深く理解し、より積極的に支援する人々を引き連れ、敵対者への報復と自身の免責というはるかに焦点を絞った政策を掲げて登場するだろう。2024年の選挙日までに、トランプは複数の刑事裁判の真っ最中だろう。少なくともそのうちの一件ですでに有罪判決を受けている可能性も否定できない。選挙に勝てば、トランプは就任式の正午二2期目の最初の罪を犯すことになる。米国憲法を守るという宣誓は偽証となる。ところでトランプはかつて「NATO のことなどどうでもいい」とアメリカ最古かつ最強の軍事同盟についての気持ちをこのように表明した。当時国家安全保障担当大統領補佐官だったジョン・ボルトンの前でなされたこの発言は、意外なものではなかった。

Burning of the White House
The Burning of the White House ©2021 Zach

ドナルド・トランプは政治家になるずっと前から、アメリカの同盟の価値を疑問視していた。ヨーロッパ諸国については 「彼らの紛争はアメリカ人の命に値しない。ヨーロッパから撤退すれば、この国は年間何百万ドルも節約できる」と書いたことがある。1949年に設立され、75年間民主党、共和党、無所属を問わず支持されてきた NATO は、長い間、特にトランプの怒りの的となってきた。大統領としてトランプは何度も NATO からの脱退をちらつかせている。しかしトランプが大統領の在任中、撤退は一度も実現しなかった。それは、いつも誰かが彼を説得して撤退を思いとどまらせたからだ。ジム・マティス、ジョン・ケリー、レックス・ティラーソン、マイク・ポンペオ、そしてマイク・ペンスでさえもそうしていたと考えられている。しかし、彼らは彼の考えを変えなかった。そして、トランプが2024年に再選された場合、これらの人々は誰もホワイトハウスにはいないだろう。トランプが大統領に就任した当初、彼はいわゆる「セントラル・キャスティング」採用を重視した。つまり理想的な政権高官のイメージに合致する素晴らしい経歴を持つ人材だ。確かに、彼はスティーブ・バノンやマイケル・フリンといった人物を何人か連れてきた。しかし、国防総省を引き継いだ勲章を授与された四星将軍のジェームズ・マティスや、国家経済会議議長に任命されたゴールドマン・サックス最高執行責任者のゲーリー・コーン、そして世界で最も収益性の高い国際コングロマリットの一つを離れ国務長官となったレックス・ティラーソンもいた。トランプはこれらの重要人物全員が突然自分のために働く気になったことに、とても喜んでいるようだった。そして彼のポピュリスト支持者たちは政権内に沼地の生き物がこれほど多くいることを嘆いたが、ワシントンの体制側は、その選出に驚きを示した。新政権に最も必要なのは「大人」だというコンセンサスが形成されていた。しかしトランプがホワイトハウスに帰館しても、もはやそこには「大人」はいないだろう。なお下記リンク先はタイム誌がフロリダ州パームビーチのトランプ邸で行ったインタビュー記事である。

TIME   How Far Trump Would Go by Eric Cortellessa in Palm Beach, Florida, on April 30, 2024

2024年8月22日

タンポポのお酒:少年レイ・ブラッドベリが発見した夏

タンポポのお酒
レイ・ブラッドベリ『たんぽぽのお酒』晶文社(2023年11月)

イリノイ州の片田舎、小さな町、グリーンタウンの1928年の夏が始まった。12歳の少年ダグラスと弟のトムは、おじいさんに訊く。「みんな用意はいいの? もういいの?」「五百、千、二千はあるな。よし、よし、けっこうな量だ…」 少年たちが摘んだのは金色の花、タンポポ。絞り器がぐるぐる回転し、タンポポを押しつぶす。金色の潮流、夏のエキスが流れ出し、それを甕(かめ)に入れる。酵母を掬い取り、ケチャップのふりかけ容器につめて、地下室の薄暗いところに、キラキラ光る列を作って並ばせる。タンポポのお酒である。父親に連れられて森に出かけたダグラスは、ふとしたことから、弟のトムと取っ組み合いになる。拳が口に当り、ダグラスは錆色の温かい血の味を感じ、弟に掴みかかる。押さえ込んだあと、ふたりは横になる。すると「世界は、彼よりもいっそう巨大な目に虹彩で、同じようにいま片目を開けてすべてを包みこもうと広がったように」ダグラスを見返す。そして「とびかかってきて、いまはそこにとどまり、逃げていこうとしないものの正体」を知るのだった。「ぼくは生きているいるんだ」と彼は思う。1928年の夏、少年ダグラス、いや少年ブラッドベリが発見したのは、夏の歓喜、生命の躍動とともに、それに相対する死という宿命であった。だからこそ「ぼくは生きているいるんだ」と大声で、といっても声は出さすに叫んだのである。

松岡正剛千夜千冊(求龍堂)

そして「12歳になって、たったいまだ! いまこのめずらしい時計、金色に輝く、人生70年のあいだ動くこと保証つきのこの時計を、樹の下で、取っ組み合いしている最中に見つけた」のである。レイ・ブラッドベリは1920年8月22日、イリノイ州ウォーキーガンで生まれた。晩年はロサンゼルスに在住し、著作活動を続けて2012年6月5日に91歳で他界した。少年ダグラスの夏は1928年で、ブラッドベリは8歳である。ダグラスを12歳に設定したのは、ブラッドベリが12歳からオモチャのタイプライターで物語を書き始めたからだろう。レイ・ブラッドベリを初めて手にしたのは何時ごろだったろうか。少なくとも1970年代に戻るだろう。いくつか脳裏に残っているが、何よりも印象深く、記憶から離れないのがこの自伝的長編小説『たんぽぽのお酒』である。しかし『十月はたそがれの国』もそうだが、『火星年代記』『華氏451度』など、一般には SF 作家として名高いようだ。今月12日に80歳で他界した実業家で編集者、著述家で、出版社「工作舎」を設立した松岡正剛もファンで、その著作のほとんど読破したという。書評サイト「千夜千冊」で『華氏451度』を取り上げていたが、ブラッドベリと実際に会ったときのエピソードが面白い。地下室に案内されて「ミッキーマウスをはじめとする、厖大なぬいぐるみや人形のコレクションを自慢されたときは、これがあのブラッドベリなのかと疑った」というのである。興味をそそられる逸話だけど、詳細は「千夜千冊」に譲り、私は知らなかったことにしよう。地下室といえば、やはりぬいぐるみや人形ではなく、たんぽぽのお酒を連想してしまうからだ。

book  レイ・ブラッドベリ(著)北山克彦(訳)荒井良二(絵)『たんぽぽのお酒』晶文社(2023/11)

2024年8月21日

危険な停電時用ポータブル蓄電装置

UN3480

南海トラフ地震情報に煽られて停電時用ポータブル蓄電装置を購入したけど、未使用のまま返送した。使われているリチウムイオン電池は間違えると発火するので、危険物になると気づいたからである。販売元に返送する梱包物に貼るラベルには国連番号 UN3480 はリチウムイオン電池の危険物船舶運送及び貯蔵規則、船舶による危険物の運送基準等を定める告示、航空機による爆発物等の輸送基準等を定める告示等で規定されている容器・包装の方法や品名、分類、積載方法、危険性等について規定である。リチウムイオン電池はいまや、スマートフォンからタブレット、パソコン、デジタルカメラ、電気自動車、パルスオキシメーターなどの医療機器、ハンディターミナル、電子タバコ、電動工具や掃除機、身の回りから専門分野まで、様々な製品の電源として使われている。リチウム電池は内部に金属を用いており、その金属に付着した材料とガス発生の元になる電解液が化学反応を繰り返している。常に動いている、生きている状態といってもいいだろう。

リチウムイオン電池の仕組み

不適切な使用法、高温や振動といった衝撃が加われば、ショートする可能性があり、温度上昇で発生したガスに引火して発火に至る場合がある。多くの法律や規制が安全のために整備されており、輸送や輸送に関する梱包の規定は複雑で、適宜変更され、簡単には判断できない。返送した段ボール箱に貼ったラベルには航空便は駄目と書いてあった。だからと言って陸上便が安全とは言い切れず、電池が爆発しているイラストが描かれている。広く普及していると思われる携帯電話用モバイルバッテリーも「危険物」である。モバイルバッテリー本体にはリチウムイオン電池が付いている。これは外から強い衝撃を加えられると発熱・発火する可能性があるため、航空貨物において「危険物」 に分類されている。そのため、スーツケースに入れて預け入れしてもらうことができない。もし誤って手荷物として預け入れしてしまった場合、アナウンスで呼び出され検査を受けたり、無断でスーツケースを開けられ、没収されたりといったことが考えられるという。なんのことはない、災害に備えたつもりが災いに転じてしまうのである。

fire リチウムイオン電池など蓄電デバイスを輸送するための国際ルール | 武蔵エナジーソリューションズ

2024年8月18日

政治家は危険なプラットホームX(旧ツイッター)をなぜ使うのか

X-men
X-men: A weird but dangerous bromance ©2024 Maarten Wolterink

アメリカの共和党の大統領候補ロナルド・トランプ前大統領と実業家のイーロン・マスクが8月12日、X(旧ツイッター)で公開対談、トランプはジョー・バイデン大統領を「この大統領は IQ が低い、非常に低い。ちなみに30年前も IQ は低かったが、今では IQ が全くないかもしれない」と人格を否定する暴言を吐いた。さかぼること2021年1月8日、トランプは「私に投票した75,000,000人の偉大なアメリカの愛国者たち、アメリカファースト、そしてアメリカを再び偉大な国には、将来にわたって巨大な声を持つだろう。彼らはいかなる形であれ、軽視されたり、不当に扱われたりすることはない!」とアメリカ合衆国議会議事堂襲撃事件を擁護。これによって旧ツイッターのアカウントを凍結された。以下は凍結直前のツイートである。

その凍結を解除したのが、旧ツイッターを乗っ取り、Xと改称したイーロン・マスクである。しかしトランプは自らの言論プラットフォーム「トゥルース・ソーシャル」があるためか、Xを利用することがなかった。しかし、この秋の大統領選を秋に控え、利用者数が多い Xでの発言を開始したのである。その第一弾がイーロン・マスクとの公開対談だった。しかし、大統領選を秋に控え、利用者数が多いツイッターでの発言を開始したのである。つまりXはトランプの返り咲きを主眼とした共和党の宣伝ツールと化したと言ってもよいだろう。前置きが長くなったしまった。本題はこのようなプラットフォームを利用し続けてる日本の政治家、あるいは政治アナリスト、著名人たちが、無頓着にXで発言し続けてることの不可解である。アメリカの大統領選の結果は日本にも大きな影響をもたらすだろう。あなたがたはトランプ支持者ですか、大丈夫ですか、いいんですかと一言も二言も苦言を呈したい。下記リンク先はイーロン・マスクとの対談でのトランプの発言の BBC ニュースによるファクトチェックである。影響力が大きい人物の「嘘」がソーシャル・メディアを通じて拡散されている。

BBC News  Donald Trump's chat with Elon Musk on the Platform X/Twitter fact-checked | BBC News

2024年8月15日

北方領土は「スターリンが手に入れた」の背景を読み解く

Putin become Starlin
Putin has gone full Stalin ©2022 Bart van Leeuwen
Joseph Stalin (1878–1953)

いささか旧聞に属するが、2019年9月5日、安倍晋三元首相は極東ロシアのウラジオストクでプーチン大統領(1952-)と会談し「ゴールまでウラジミール、ふたりの力で駆けて、駆け、駆け抜けようではありませんか」と述べた。まるで三文役者の台詞のようで、ここに書くのも恥ずかしい。北方領土について大統領は、第2次世界大戦の結果手に入れ、領有権が決まったと強調した。そして友だち呼ばわりは迷惑と言わんばかりに「スターリンがすべてを手に入れた。議論は終わりだ」と切り捨てた。ソ連のヨシフ・スターリン(1878–1953)の名が飛び出したのだが、首相がどのような返答をしたのかという報道はなかったようだ。何ひとつ反論できず、すごすごと帰国したのだろう。平和条約締結に向けて「ロシアと未来志向で作業することを再確認した」というが、平和条約締結は国境を確定することである。北方領土は永遠に還って来ないだろう。1945年2月4日から11日にかけてヤルタ会談が行われたが、アメリカのフランクリン・D・ルーズベルト(1882-1945)は、スターリンに日ソ中立条約の破棄、すなわち対日参戦を促した。イギリスのウィンストン・チャーチル(1874–1965)も後で加わり、秘密協定が結ばれた。この頃、近衛文麿首相を中心としたグループは、戦争がこれ以上長期化すればソ連軍による占領の危惧が高まり、和平すべきと昭和天皇裕仁に献言した。しかし天皇はこれを却下する。同年4月5日、ソ連は日ソ中立条約を一方的に破棄した。

Yalta_Conference
Winston Churchill, Franklin D. Roosevelt and Joseph Stalin at the Yalta Conference in 1945
吉田 茂(1878-1967)

背景には上記ヤルタ会談での密約があったからであろう。1945年8月8日、対日宣戦布告をし満州国、樺太南部、朝鮮半島、千島列島への侵攻を開始、日本軍と各地で戦闘になったのである。終戦間際だったので、どさくさに紛れての参戦だったという指摘もある。日本政府はポツダム宣言を受諾し、連合国に無条件降伏し同年9月2日降伏文書に調印した。これによって千島列島はソ連の占領下になった。そして1951年、サンフランシスコ平和条約を批准、日本は千島列島の放棄を約束してしまったのである。アメリカ代表は「千島列島には歯舞群島は含まないというのが合衆国の見解」と発言したが、ソ連代表のアンドレイ・グロムイコ(1909–1989)第一外務次官は「千島列島に対するソ連の領有権は議論の余地がない」と主張した。条約受諾演説で吉田茂首相(1878-1967)は「千島列島及び樺太南部は、日本降伏直後の1945年9月20日、一方的にソ連領に収容されたのであります」「日本の本土たる北海道の一部を構成する色丹島及び歯舞諸島も終戦当時たまたま日本兵営が存在したためにソ連軍に占領されたままであります」と述べている。これが日本政府が不法占拠だと主張してきた所以だろう。歴史に「もしも」は禁物だが、敗戦必死の状況下、遅くとも1945年初頭に降伏していれば、沖縄戦も、広島、長崎への原爆投下もなかったし、北方領土を失うこともなかったのである。

university_red  サンフランシスコ平和会議における吉田茂総理大臣の受諾演説(1951年)東京大学東洋文化研究所

2024年8月14日

ドナルド・トランプが「ジョー・バイデンは今では IQ が全くないかもしれない」と過激暴言

Trump and Musk on X
Donald J. Trump & Elon Musk on X/Twitter

ニューヨークポスト紙デジタル版によると、共和党の大統領候補ロナルド・トランプ前大統領と実業家のイーロン・マスクが現地時間8月12日、X(旧ツイッター)で公開対談した。トランプはジョー・バイデン大統領のロシア政策をぶった切り「この大統領は IQ が低い、非常に低い。ちなみに30年前も IQ は低かったが、今では IQ が全くないかもしれない」と過激発言をした。過去にも「ジョー・バイデンの IQ が低い」と侮辱したことがある。 またトランプはバイデンが「ウクライナが NATO 加盟国になる可能性がある」と発言したことを特に批判し、バイデンの発言がなければプーチン大統領はウクライナに侵攻しなかっただろうと主張した。 そしてカマラ・ハリス副大統領を「三流のニセ候補者」と呼び捨てたのである。まことに口汚い批判で、どう考えても大統領候補にはなり難い人物である。その根底には、バイデンが次期期大統領選から撤退、ハリスを押したことで風向きが変わったことにある。バイデン相手なら「ほぼトラ」すなわち「ほぼトランプが当選」と思われたが、参入宣言でハリスの支持が急速に広がったのである。最近の世論調査では、カマラ・ハリスとロナルド・トランプの支持率が拮抗、わずかに前者の数字が上回るという結果が出ている。内心ただならぬ心境で、その焦りがおよそ大統領候補にふさわしくない、バイデン、ハリスへの下品な罵詈雑言となったのだろう。

Trump vs. Harris

ところでJ・D・バンスの『ヒルビリー・エレジー』(田舎者の哀歌)は製造業が衰退したラストベルト(錆ついた工業地帯)の一角の、オハイオ州の貧困家庭で育った生い立ちを綴った自伝的小説で、ベストセラーになった。 そしてトランプの支援を受けて2022年の上院議員選で初当選、トランプを熱烈に支持する「MAGA(Make America Great Again = アメリカ合衆国を再び偉大な国にする)」の急先鋒として知られるようになった。トランプはこの著書を参考にラストベルトの復興を訴え、2016年の大統領選に共和党から出馬して当選した。11月のアメリカ大統領選で4年ぶりの政権奪還を狙う共和党の全国大会が7月15日、中西部ウィスコンシン州ミルウォーキーで開幕し、ロナルド・トランプ前大統領を党候補に指名、J・D・バンス上院議員を副大統領候補にした。しかしヴァンスはカマラ・ハリス副大統領などを名指しで「惨めな人生を送る子供のいない猫好きおばさん」という過去の発言が明るみになったからだ。旧来の自動車産業は電気自動車と対峙する存在と思われた。トランプは実業家である。バイデン政権が注力する電気自動車の普及を後押しする政策を繰り返し非難しているが、最近は風向きが変わったようだ。もしトランプが大統領に返り咲けば、イーロン・マスクのテスラに恩恵を与える可能性があると指摘されている。トランプは実業家である。今回の公開対談に象徴されるように、イーロン・マスクを悪友、いや盟友として扱いつつあるようだ。繰り返しになるが、世論調査によるカマラ・ハリス対ロナルド・トランプの支持率は僅差である。選挙戦はこれから、蓋を開けてみないと分からない。

election2024  2024 Presidential Election Polls: Kamala Harris vs. Donald J. Trump | FiveThirtyEight.com

2024年8月13日

クリスティーナ・ガルシア・ロデロが話したいのは時間も終わりもない出来事だった

Refugees from Kosovo
Refugees from Kosovo Conflict, Macedonia, 1999
Cristina García Rodero

スペインの写真家クリスティーナ・ガルシア・ロデロは、1949年10月14日、スカスティーリャ=ラ・マンチャ州シウダ・レアル県プエルトラーノに生まれた。特に伝統的な祭りや現代的な儀式の写真で知られている。彼女の最初の作品は1960年代の終わりに大学のコンテストに出品された。 1973年、スペイン全土の風習や祭りを撮影するという課題を自らに課し、そのために奨学金を受け取った。はさまざまな国の伝統に関するレポートを作成した。当初はスペインの地方を中心に作品を発表し、1989年に出版された写真集 "España oculta"(隠れたスペイン)にも反映されているが、その後、ハイチやインドなどの現実も扱った。マドリードのコンプルテンセ大学で美術を卒業した彼女は、1974年にマドリッド美術工芸学校でデッサンを教える教職に就いた。1983年にマドリードのコンプルテンセ大学美術学部で写真のクラスを教え始め、2007年までその活動を続けた。2005年に彼女はスペイン国籍の人物として初めて写真報道機関マグナム・フォトの会員になった。全米写真賞(1996年)、美術功労金メダル(2005 年)を受賞しており、2024年にはプロとしてのキャリアに対し、スペインの思想家でジャーナリストのホセ・オルテガ・イ・ガセットを追悼して、エル・パイス紙によって1984年に創設されオルテガ・イ・ガセット賞を受賞している。

Eleven O'clock
At Eleven O'clock at Cuenca, El Salvador, 1982

2018年、彼女は女性として初めてカスティーリャ・ラ・マンチャ大学の名誉博士号を授与された。彼女は教職の仕事と写真の制作、およびスペインおよび海外のさまざまな定期刊行物でのコラボレーションを組み合わせてきた。2013年、サン・フェルナンド王立芸術アカデミーの新しい映像芸術部門の正会員に選ばれ、ルイス・ガルシア・ベルランガが保持していた空位のメダルを獲得した。2023年には、カルロタ・ネルソン監督によるドキュメンタリー映画 "Cristina García Rodero: La mirada oculta"(クリスティーナ・ガルシア・ロデロ: 隠された視線)が公開された。ロデロは自分自身をフォトジャーナリストとは考えていない。

Seeing the Masquerades
Seeing the Masquerades, Sarracín de Aliste, Zamora, Spain, 1990

非常に個人的な観点からではあるが、彼女の写真作品は報告書に組み込まれる可能性がある。2020年12月のインタビューで「そうですね、ジャーナリズムを学んだわけではないので、私は自分をフォトジャーナリストとは思っていません。私は常に、時事問題、報道機関、そして私が一致することがあると言いますが、私のメンタリティは主にジャーナリストのメンタリティではありません。私は美術を勉強しましたが、それはむしろクリエイターの精神です。私が話したいのは、時事問題について話すことよりも、時間も終わりもないもの、つまり、私が移り住む先の地理的特性を伴う日常生活についてが話したいことです」と語っている。

Women Sing Sorrow
Women Sing Sorrow for Death of Christ, Puglia, Italy, 2000

ニュースについてはあまり話さず、人生について話しましょう。多くの場合、人々の生活に影響を与える現在の出来事が私にとって注目の軸ですが、私は特に特別な瞬間、つまりお祭り、結婚式、人生の儀式、宗教的な儀式、お楽しみパーティーについて話したいと思っています」と語っている。クリスティーナ・ガルシア・ロデロはさまざまな国で個人およびグループの両方で多数の展覧会を開催してきた。最初の個展は「スペインの伝統的な祭り」というタイトルでメキシコで開催された。

Children at the Carnival
Children with makeup at the Carnival of Jacmel, Haiti, 2001

作品展「"España oculta"(隠れたスペイン)はマドリッド現代美術館、アルル、カルカソンヌ、ブラガの写真会議、ヒューストンのフォトフェスト'90、ロンドンのフォトグラファーズ・ギャラリー、ミラノのディアフラマ、ケルンのフォトキナ、ゼントルム・ファー・オーディオヴィジュエル・メディアンなど、複数のスペースを巡回している彼女の出身地であるプエルトリャーノ市は、2018年に「クリスティーナ・ガルシア・ロデロ」美術館を開館した。美術館はプエルトリャーノの旧市立美術館に位置し、3階建てで2,100平方メートル以上の広さがあり、このアーティストの写真約200点が展示されている。

Magnum Photos  Cristina García Rodero (born 1949) | Profile | Highlight | Most Recent | Magnum Photos

2024年8月11日

何故か妖しいハイブリッド楽器

Guitar Accordion built by Sam Moore circa 1920 Courtesy of MMRF
Prosper Moitessier 1838

右の写真はヴァイオリンとヴィオラを背中合わせに合体させたハイブリッド弦楽器で、プロスパー・アントワン・モワテシエ(1807-1867)が製作した。フラン語版ウィキペディアによると、オルガン職人だったが、ヴァイオリン製作にも挑戦したという。1838年と記録されているこのヴァイオリン・ヴィオラは、フランスのアルザス・ロレーヌ地方のミルクールにある、ヴァイオリンと弓作りの博物館(Musée de la Lutherie et de l'Archèterie françaises)が所蔵している。極めて独創的な楽器だが、その後普及した痕跡はないようだ。ヴァイオリンは高い絃から順に EADG、ヴィオラは ADGC なので、ADG の3本は共通している。従ってGより5度低いCの絃を張ればもっと単純な、ヴァイオリンとヴィオラ音域をカバーする楽器、すなわち五弦ヴァイオリンができるからだろう。リュート属の弦楽器の場合だと、生涯にわたって評価が高かった、パリの楽器職人で弦楽器演奏家でもあった、ニコラス・アレクサンドル・ヴォボアムII世(1634/46–1692/1704)が製作した、ダブルネックギター(写真下)がユニークである。復絃5コースのバロックギターだが、小さいほうがおおきいほうより音程が五度高いと思われる。まるで母親が子どもを抱いているようだ。現代に引き継がれたダブルネック電気ギターが「双頭の鷲」なら、さしずめ「母子鷹」といった風情だろうか。

Alexandre Voboam 1690

19世紀半ばにウィーンで発達したコントラギターは、通常の6弦のフレット付きのネックに、サブベース弦を張ったフレットレスネックが付いている。これはハープギターとも呼ばれ、ギブソンも1930年代まで製作した。ザ・バンドの解散コンサートを記録した映画『ラスト・ワルツ』の中で、ロビー・ロバートソンが弾いていたのが鮮やかに脳裡に刻まれている。ところで上掲の写真だが、78回転レコードや蝋管の音源情報ブログ "78 Records, Cylinder Records & Vintage Phonographs" に投稿された「ギター・アコーディオン・パイプオルガン」である。写真を提供した音楽制作救援基金(Music Maker Relief Foundation)のアーロン・グリーンフッド氏によると、フロリダ州モンティチェロ出身のサム・ムーア(1887-1959)が1920年ごろ作ったという。ムーアは風変りな楽器を演奏したが、残念ながらこの楽器による演奏の録音は残っていないらしい。しかし、もっと残念なのは、この楽器の演奏法の解説がないことだ。アコーディオンを弾くには両手が必要だ。ギターを弾くにも両手が必要。合計4本の手が必要になる。ふたりで演奏するなら、それぞれ個別の楽器のほうがベターだ。実に不可解で妖しい楽器である。その妖しさゆえか、多くのハイブリッド楽器が歴史の彼方に消えている。弦楽器でかろうじて残ったのは、ダブルやマルチネックの電気ギターぐらいかも知れない。カテゴリ―を広げれば、ドラムスが思いつく。英語の Drums が明示しているように、複数の楽器が合体した打楽器である。一台で異なった楽音を合成、奏でることができる電子楽器がいろいろある。100年にわたる歴史を経て成熟、現在の形になったシンセサイザーは、やはり究極のハイブリッド鍵盤楽器と呼んでよいかも知れない。

museum_bk  Hybrid Instruments | The Virtual Museum of Musical Instruments | Rio de Janeiro, Brasil

2024年8月10日

ペリー提督の黒船来航は西洋音楽の来航だった

高川文筌『米利堅船燕席歌舞図』1854年
高川文筌『米利堅船燕席歌舞図』1854年(真田宝物館蔵)
マシュー・ペリー提督

バンジョーが19世紀から20世紀初頭にかけてアメリカで流行り、顔を黒く塗った白人によって演じられた、踊りや音楽、寸劇などを交えたミンストレル・ショーに欠かせない楽器となった。黒塗りフェイスは人種差別を助長するものとして批判され、ミンストレル・ショーは消滅したが、ショービジネスの歴史の観点に立つと重要な役割を果たしたといえる。1854年、そのミンストレル・ショーが日本で演じられたことは案外知られていないかもしれない。主催したのは黒船来航で日本を驚愕させたマシュー・ペリー提督(1794–1858)で、軍艦ポーハタン号の艦上で艦隊員によるショーが上演された。ご存知ペリーは1853年、アメリカ合衆国海軍東インド艦隊の蒸気船2隻を含む艦船4隻を率い、浦賀沖に停泊させ、アメリカ合衆国大統領国書が幕府に渡した。そして翌年に横浜沖に停泊、日米和親条約締結に至った。開国交渉中に幕府の高官が招待され、歌と踊りの両方があるミンストレル・ショーが演じられた。公演の様子を描いた高川文筌の絵を見ると、バンジョー、ギター、フィドル、フルート、タンバリン、トライアングル、ボーンなどの楽器が使われている。笠原潔著『黒船来航と音楽』(吉川弘文館2001年)によると、交渉の節目ごとに横浜以外の函館と下田でも行われたという。プログラムを見ると、第1部、第2部に続き、ヴァイオリンの独奏をはさんで、ブルレスクの『リヨンの娘』で終わっている。ミンストレル・ショーの音楽も手掛けた、19世紀半ばのアメリカ合衆国を代表する歌曲作曲家、スティーブン・フォスター(1826-1864)の『アンクル・ネッド』『主人は冷たい土の中』などの新作も披露された。ペリー遠征隊の公式画家だったウィリアム ・ハイネ(1827-1885)は「日本人は音楽が好きなようだ。提督が下田に合唱団を連れて来たとき、町の半分の人が彼らの演奏を聴きに集まったという。次に提督が合唱団なしで上陸したとき、多くの下町人が提督の後について行き、あらゆる手振りで、歌がどれほど気に入ったか、また合唱団を連れて来てほしいと伝えた」と書いている。

下田上陸北亜墨利加人
作者不明『下田上陸北亜墨利加人』1853~1917年頃(オレゴン州日系人博物館蔵)

この絵はペリー遠征隊の最初の航海に同行したウィリアム・ H・ハーディがオレゴン州ポートランドに持ち帰った作者不明の「黒船の巻物」(1853~1917年頃)の一コマで『下田上陸北亜墨利加人』(下田に上陸した北アメリカ人)という説明がついている。バンジョー、ラッパ、そして小太鼓を手にした男たちが活写されている。顔を黒く塗ってないのでミンストレル・ショーではなく、小編成のバンドのようだ。小太鼓には巴の紋が描かれていて、これは和楽器である。高川文筌の『米利堅船燕席歌舞図』と同様、貴重な史料である。ハーディーは1918年に日本から帰国したが、警察に出頭した。ペリー提督との関係を捏造し、国民を欺いたと告発されたからである。口論は銃撃戦に終わり、彼は自らを銃で撃って傷を負い、1年後に短い闘病の末に亡くなった。ハーディの家族は、この巻物と彼が日本を旅行中に受け取った多くの贈り物をオレゴン日系人博物館に寄贈した。ペリー提督と共に日本に上陸したアメリカ音楽、黒船来航は西洋音楽の来航だった。

museum  Black Ship Scroll | William H. Hardy Collection | Japanese American Museum of Oregon