Bert Hardy |
ロンドンのブラックフライアーズ地区で1913年5月19日に生まれたバート・ハーディは質素な労働者階級出身だった。7人兄弟の長男だった彼は、14歳で学校を辞め、写真の加工も手がける化学者のもとで働いた。1936年、シルバー・ジュビリーの祝典の際に、通りすがりの馬車に乗ったジョージ5世とメアリー王妃を撮影し、国王を捉えたベスト判の小さなプリント200枚を販売、これが彼の最初の大きな収入となった。23歳のときの最初の仕事は、メイフェア・ホテルでハンガリー人俳優サコールを撮影することだった。ハーディは雑誌『自転車』とフリーランス契約、初めて35ミリの小型カメラ、ライカを購入した。ライカ写真家としてジェネラル・フォトグラフィック・エージェンシーと契約し、後に自身のフリーランス事務所クライテリオンを設立する。1941年、1930年代から1950年代を代表するグラフ誌『ピクチャー・ポスト』の当時の編集者トム・ホプキンソンにスカウトされる。同誌は1938年から1957年まで英国で発行されていた写真を中心にした雑誌である。フォトジャーナリズムの先駆的な例とされ、わずか2ヶ月で週100万部を売り上げるなど、たちまち成功を収めた。米国の『ライフ』誌に相当する雑誌と呼ばれている。ハーディの写真家仲間は、競争相手ではなく、一緒に取材に出かける同僚として働いた。
フェリックス・H・マン(別名ハンス・バウマン)、ジョン・チリングワース、サーストン・ホプキンス、カート・ハットン、レナード・マッコーム、フランシス・ライス、ハンフリー・ スペンダー、グレース・ロバートソン、ビル・ブラントらがいた、彼ら家、競争相手ではなく同僚として働いた。独学でライカの使い方を学び、当時の報道写真家しては型破りな機材を使っていた。1941年2月1日、ナチス・ドイツによるロンドン大空襲でストレスを受けた消防士たちを撮影した写真エッセイで初めて写真のクレジットを獲得し、グラフ誌『ピクチャー・ポスト』のチーフ写真家となった。1944年6月6日の連合国ノルマンディー上陸作戦に参加、そしてパリ解放、ライン川を渡る連合軍の前進を取材した。
ナチス・ドイツのベルゲン・ベルゼン強制収容所入り、そこでの収容者の苦しみを記録した最初の写真家のひとりである。また、オスナブリュック市でドイツ警察が放火した火事からロシア人奴隷を救い、その余波を写真に収めた。第二次世界大戦末期、ハーディはアジアに渡り、短期間ルイス・マウントバッテン卿の専属写真家となった。その後、ジャーナリストであるジェームズ・キャメロンとともに『ピクチャー・ポスト』誌で朝鮮戦争を取材し、1950年に釜山で国連旗の下に李承晩の警察によって行われた残虐行為を報道し、その後、朝鮮戦争の転機となったインチョンの戦いでミズーリ年間写真賞を受賞した。
テレビの台頭と発行部数の減少に屈したグラフ誌『ピクチャー・ポスト』は1957年6月に休刊。労働党の「新しいイギリス」と「万人に公平な分け前」との同一視はますます不人気となり、同党は1951年の選挙で敗北した。他に活躍の場がなかったため、ハーディは広告写真家になったが、1964年に農夫になるためにこのメディアを完全に諦めたのである。エドワード・スタイケンの有名な『人間家族』展にハーディの作品3点が展示された。2点はビルマで撮影されたもので、そのうちの1枚は机に向かって深く考え込む僧侶の写真である。
もう1枚は、1949年1月8日に発行された『ピクチャー・ポスト』誌の特集 "Scenes From The Elephant"(象の情景)の一部で、南ロンドンのエレファント・アンド・キャッスル地区の日常を撮影した。地下の小さなアパートの窓際でくつろぐラブラブな若いカップルが写っている。アマチュア写真家向けに、良い写真を撮るのに高価なカメラは必要ないという記事を書いたハーディは、1951年、風薫るブラックプールの遊歩道で、コダックのボックスカメラ「ブラウニー」を使って手すりに座る2人の若い女性を撮影、これは戦後の英国を象徴する写真となった。1995年7月3日、イングランドのサリー州オックステッドで他界、82歳だった。2024年2月から8月まで、ハーディの回顧展がロンドンのフォトグラファーズ・ギャラリーで開催された。
Bert Hardy (1913-1995) Photojournalism in War and Peace | Photographers Gallery 2024
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