Martin Parr |
マーティン・パー はイギリスのドキュメンタリー写真家、フォトジャーナリスト、写真集コレクター。特にイギリスの社会階級、そしてより広く西洋世界の富を記録することを中心に、現代生活の側面を親密で風刺的、人類学的に捉えた写真プロジェクトで知られている。1952年5月23日、サリー州エプソムで生まれパーは 、 14歳の頃からドキュメンタリー写真家を志していた。アマチュア写真家であり、王立写真協会会員でもあった祖父のジョージ・パーが初期に影響を与えたという。1970年から1972年までマンチェスター工科大学で同時代のダニエル・メドウズやブライアン・グリフィンとともに写真学を学んだ。パーとメドウズは様々なプロジェクトで協力し、バトリンズで巡回写真家として働くことなどがあった。彼らはドキュメンタリー写真家の新波の一員であり緩やかな集団で、自らに名称を与えたことはなかったが「若手イギリス写真家」「独立系写真家」「新イギリス写真術」など様々な名前で知られるようになった。1975年、ウェスト・ヨークシャーのヘブデン・ブリッジに移住し、そこで最初の成熟した作品を完成させた。彼は暗室と展示スペースを備えた芸術活動の中心地、アルバート・ストリート・ワークショップに参加した。パーは5年間、その地域の田舎暮らしを撮影し、1970年代初頭に閉鎖されつつあった孤立した農村の中心地であったメソジスト(および一部バプテスト)の非国教徒の礼拝堂に焦点を当てた。ノスタルジックな性質と、この過去の活動を祝う彼の見方に適していたため、モノクロで写真を撮った。当時の写真家は、真剣に受け止められるためにはモノクロでで撮影する必要があった。
シリーズ "The Non-Conformists"(不適合者たち)が広く展示され、2013年に書籍として出版された。評論家のショーン・オハガンはガーディアン紙に寄稿し「モノクロ写真家としてパーがいかに静かに観察していたかを忘れがちだ」と述べている。1980年にスーザン・ミッチェルと結婚、彼女の仕事のためにアイルランド西海岸に移住した。パーはロスコモン州ボイルに暗室を設置した。1982年に最初の出版物である "Bad Weather"(悪天候)が芸術評議会の助成金を受けてズウェマー社から出版された。1984年に出版された "Calderdale Photographs"(カルダーデールの写真)そして1984年に出版された"A Fair Day: Photographs from the West Coast of Ireland"(フェアな一日:アイルランド西海岸の写真)では、いずれも主にイングランド北部とアイルランドのモノクロ写真を掲載している。35mmレンズを装着したライカM3を使用したが『悪天候』ではフラッシュガンを装着した水中カメラに切り替えた。
1982年にパー夫妻はイングランドのウォラシーに移住し、そこでモノクロからカラー写真に転向した。これは主にジョエル・マイヤーウィッツ、そしてウィリアム・エグルストン、スティーブン・ショア、ピーター・フレイザー、ピーター・ミッチェルといったカラー写真家の作品に触発されたからである。パーは「1970年代初めにバトリンズで働いていた時にジョン・ハインドの絵葉書にも出会ったことがあり、その明るく鮮やかな色彩は私に大きな影響を与えた」と書いている。ニュー・ブライトン近郊の海辺で労働者階級の人々を撮影したが、1986年に "The Last Resort: Photographs of New Brighton"(最後のリゾート:ニュー・ブライトンの写真)として出版され、リバプールとロンドンで展示された。ジョン・バルマーは1965年からイギリスのカラードキュメンタリー写真の先駆者であったが、 ジェリー・バジャーは『最後のリゾート』について次のように語っている。
ほぼ四半世紀を経た今、イギリス写真界やマーティン・パーのキャリアにおいて、『ラスト・リゾート』の重要性を過小評価することは難しい。両者にとって『最後のリゾート』は、モノクロームからカラーへという写真表現の基本様式の激変を象徴するものであり、ドキュメンタリー写真の新たな基調の発展を告げる根本的な技術的変化であった。
カレン・ライトはインディペンデント紙に寄稿し「パーは労働者階級を厳しく批判したため一部の批評家から攻撃されたが、これらの作品を見ると、パーの揺るぎない目が、利用可能なあらゆる形態の余暇を受け入れる社会階級の真実を捉えていることがわかる」と述べている。1987年から1994年にかけて、世界を旅して次の主要シリーズであるマスツーリズム批判を制作し、1995年に『スモールワールド』として出版された。写真を追加した改訂版は2007年に出版された。この作品は1995年から1996年にかけてロンドン、パリ、エディンバラ、スペインのパルマで展示され、その後も様々な場所で展示され続けている。1990年から1992年までヘルシンキ芸術デザイン大学で写真の客員教授を務めた。1985年、パーはマンチェスターのドキュメンタリー写真アーカイブからの依頼でサルフォードのスーパーマーケットの人々を撮影し『サルフォード自治区の小売業』を完成させた。
この作品は現在アーカイブに保管されている。1987年に彼と妻はブリストルに引っ越し、現在もそこに住んでいる。1987年から1988年にかけて、彼は次の主要プロジェクトを完成させた。それは、当時サッチャー政権下で裕福になりつつあった中流階級に関するものだった 。主にイングランド南西部のブリストルとバース周辺で、ショッピング、ディナーパーティー、学校のオープンデーなど中流階級の活動を撮影した。これは1989年 "The Cost of Living"(生計費)と題され出版され、バース、ロンドン、オックスフォード、パリで展示会が開かれた。1995年から1999年にかけて、グローバルな消費主義をテーマにしたシリーズ『コモンセンス』を制作した。350枚のプリントによる展覧会で、1999年には158枚の写真を収めた本が出版された。この展覧会は1999年に初めて開催され、17カ国41会場で同時に開催された。これらの写真は消費文化の細部を描写しており、人々がどのように娯楽を楽しむかを示すことを目的としている。
写真は鮮やかで色彩豊かな35ミリ高彩度フィルムで撮影された。1988年にマグナム・フォトの準会員となった。 1994年にパーを正会員として迎え入れる投票は賛否両論で、フィリップ・ジョーンズ・グリフィスが他の会員にパーを受け入れないよう嘆願する文書を配布したが、1票差で3分の2の多数を得た。マグナムの会員であることで、彼は編集写真の仕事に就くことができ、ポール・スミス、ルイ・ヴィトン、ギャラリー・デュ・ジュール・アニエスベー、マダム・フィガロなどの編集ファッション写真にも携わった。写真集の収集家であり評論家でもある。評論家のジェリー・バジャーとの共著 "The Photobook: A History"(フォトブック:歴史)には、19世紀から現代までの写真集1,000点以上が収録されている。最初の2巻は完成までに8年を要した。2014年に設立され、2015年に慈善団体として登録されたマーティン・パー財団は、2017年に彼の故郷であるブリストルに施設を開設した。ロンドンのテート・モダンで開催された森山大道回顧展では、パーから借り受けた森山の本が多数、ガラスケースに展示された。なお 2021年10月5日付けのガーデアン紙電子版によると、同年5月にがんと診断され、化学療法を受けたようだ。完治していることを祈りたい。
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