図は松浦武四郎(1818-1888)著『北蝦夷余誌』の挿絵の一枚で北蝦夷、すなわち樺太(今のサハリン)のアイヌの男が鉄口琴を奏でている様子が描かれている。鉞(まさかり)を肩に担ぎ、弁取り付け型鉄口琴をそれに押し当てた状態で弾く「鉞奏法」の貴重な史料である。武四郎は幕末から明治にかけての探検家・浮世絵師・著述家・好古家で、名前は竹四郎とも表記される。津軽海峡を越えて蝦夷地に渡ることは簡単なことではなかったが、武四郎は28歳ではじめて蝦夷地へ渡ることができた。函館から太平洋側の海岸線を歩いて知床岬まで行きそこに「勢州一志郡雲出川南松浦竹四郎」などと記した標柱を建てて函館に戻った。弘化3年(1846年)29歳の武四郎は、再び蝦夷地を訪れ、蝦夷地の北にある樺太の調査を行っている。嘉永2年(1849年)の第3回目の蝦夷地調査では、国後島、択捉島を詳細に調査した。アイヌの人びとに案内を頼んで調査する中で、異なる文化をもつアイヌの人びとの理解に努める。武四郎は蝦夷地調査のかたわら、アイヌ語を積極的に勉強した。そして誰から命令されたわけでもなく、個人の意志でおこなった3度の蝦夷地調査を通して、蝦夷地を支配する松前藩の圧政や、豊富な海産物に目をつけた商人たちによって、アイヌの人びとがおかれている過酷な状況を知ったのである。明治になり、政府から蝦夷地開拓御用掛の仕事として蝦夷地に代わる名称を考えるよう依頼された。武四郎は「道名選定上申書」を提出し、その六つの候補の中から「北加伊道」が取り上げられる。「加伊」はアイヌの人々がお互いを呼び合う「カイノー」が由来で「人間」という意味である。政府は「加伊」を「海」に改め、現在の「北海道」としたのである。国名、郡名についての上申書も提出、その意見が取り上げられた。その名前も蝦夷地を調査しているときにアイヌの人々から教えてもらった土地名が由来となっている。
口琴は古くから世界各地で親しまれてきた小型の有簧楽器で、その起源は明らかではないが、数千年前から存在していたと考えられている。一枚または複数の簧を空気の流れで振動させて音を出すが、簧の振動数によって音程が決まる。口琴は、単音のみを発音するものから、和音を出すものまで様々な種類がある。日本では古来から親しまれている雅楽の楽器である笙(しょう)や龍笛(りゅうてき)などが口琴の一種とみなされている。ヨーロッパでは、19世紀にドイツで近代的な口琴が開発された。アフリカには、様々な形態の口琴が古くから存在する。特に西アフリカでは、カリンバと呼ばれる親指ピアノの一種が有名である。アメリカ大陸には、先住民独自の口琴が古くから存在する。樺太(今のサハリン)のアイヌの鉄口琴は、ムックリと呼ばれる竹製のものよりも珍しく、独特な音色と文化的な背景を持っている。奏者は口琴を親指と人差し指で持ち、息を吹き込むようにするが、口の形や舌の動きによって音色を変化させることもできる。鉄口琴は、金属製の簧を使用しているため、他の地域の口琴よりも明るくシャープな音色が特徴である。また奏者の技量によって様々な音色を表現することができる。樺太アイヌにとって鉄口琴は娯楽や儀式の際に演奏される重要な楽器であった。また魔除けや占いなどの呪術的な目的で使用されることもあった。日本のアイヌ文化の中でも独特な存在で、その美のしい音色と力強い演奏は、聴く人を魅了した。20世紀に入ってから徐々に衰退し、現在では演奏できる人がほとんどいなくなったという。近年ではその貴重な文化を保存しようと、演奏技術の継承や研究活動が行われている。口琴を英語では Jew's harp と総称するが、ユダヤ人とは何の関係もないし、民俗差別を伴う誤解を招き兼ねない。日本語の口琴に近い Mouth harp の方が適切な呼び方であると私は思う。
松浦武四郎(1818-1888)著『北蝦夷余誌』(早稲田大学図書館蔵)の表示(PDF File 13.1MB)
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