2025年6月26日

京都に多い「餅」の屋号がついた大衆食堂のルーツ

大力餅食堂(京都市北区衣笠天神森町)

京都には力餅食堂や千成餅食堂など「餅」の屋号がついた大衆食堂が多く見かける。写真はご近所の大力餅食堂である。力餅食堂のルーツは1889年(明治22年)、兵庫県但馬地方の池口力造という人物が兵庫県豊岡市で饅頭店として創業したのが始まりされている。 一度廃業した後、1895年(明治28年)に京都市寺町六角で「勝利饅頭」として再開業した。経営に苦しむ時期もあったが、資金援助を受け、1903年(明治36年)に店舗を改造し「力餅」として再出発した。この屋号は、創業者の「力」と目玉商品であった「餅」に由来すると言われている。当初はあんころ餅などを目玉とする甘党食堂として成功ましたが、大正時代末期からは丼物や麺類などをメニューに加えていき、現在の大衆食堂の姿へと変わっていった。「力餅食堂」の大きな特徴は、独自の「のれん分け制度」によって京阪神一円に広く展開していったことである。8年以上働いて信頼を得た従業員が独立・新規出店を許され、組合が資金や場所選びまで援助したといいます。

ざる蕎麦
夏でも冬でもざる蕎麦でござる

特に、創業者の出身地である兵庫県但馬地方からの人々が、親戚関係などを頼りに「力餅食堂」で修業し、のれん分けによって独立していくケースが多かったようである。杵を交差させた商標ロゴマーク(1928年頃に創業者の弟が考案)や、おはぎや赤飯の店頭販売は、饅頭店や甘党食堂だった頃の名残とされているようだ。このように、京都の「餅」の屋号を持つ大衆食堂の多くは、元々は兵庫県但馬地方で創業した饅頭店が京都に進出し、その後、甘味処から大衆食堂へと業態を変化させ、さらに独自ののれん分け制度によって多数の店舗を展開していった「力餅食堂」系列にルーツを持っていると考えられる。各店舗でメニューや味付け、値段設定は異なるものの、屋号と商標ロゴマーク、そしておはぎなどの販売といった共通の要素が、そのルーツを物語っている。さてわが「大力餅食堂」は昼食の定番食堂である。最近はインバウンドのおかげで、外国人観光客が増えた。北隣のバス停が金閣寺、それこそインバウンドで乗車を諦めた客が歩いて偶然この店を見つけるらしい。季節に関わらず、ざる蕎麦を注文するが、外国人にとっては得体のしれない代物らしく、注文してるのを見たことがない。

Kyoto  京都に「餅」付く食堂が多い理由 力、千成、相生…知られざるルーツを探る | 京都新聞デジタル版

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