Toni Frisosell 1942 |
アントワネット・フリッセルは、トニ・フリッセルとして知られるアメリカの写真家で、1907年3月10日にルイス・フォックス・フリッセルとアントワネット・ウッド・モンゴメリーの子として生まれた。彼女の兄弟はフェルプス・モンゴメリー・フリッセルと映画製作者のヴァリック・フリッセルで、ヴァリックは1931年にニューファンドランドで『ヴァイキング』の撮影中に亡くなった。フリッセルは、ニューヨークのフィフス・アベニュー銀行の創設者で頭取のアルジャーノン・シドニー・フリッセルの孫娘であり、メアリー・ホイットニー・フェルプスおよびミズーリ州知事ジョン・S・フェルプスの曾孫である。先祖には、コネチカット州選出の米国下院議員のエリシャ・フェルプスや、独立戦争の英雄ノア・フェルプス少将がいる。フリッセルは若い頃、演劇に熱中していたが、マックス・ラインハルトの作品に2回出演した後、自分には向いていないと気づいた。20代前半で写真を撮り始めたのは、映画監督で写真家の兄ヴァリック・フリッセルが写真の基礎を教えてくれたことが一因だった。1932年9月9日、数ヶ月の交際の末、フランシス・マック・ベーコンと結婚した。スキーが趣味で、娘の卒業後、夫と娘と3ヶ月に及ぶスキー旅行に出かけたこともある。トニと夫はロングアイランドのセントジェームズにあるストーニーブルック港のほとりに「シェレウォーグ」という名の大きな白い家を購入し、家族と50年近くそこで暮らした。
1970年代初頭、彼女は記憶障害に悩まされ始めた。これを克服するために、彼女は回想録を書き始めたが、それはほぼ1,000ページとなった。幼少期から晩年までを詳細に語り、恵まれた生い立ち、ヨーロッパ探検、20代のパーティ、青春時代の恋愛、より豊かな生活様式への憧れなどを詳細に述べている。キャリアの初めには『ヴォーグ』誌で短期間働き、キャプションを付けたり、少し文章を書いたりした。スペリングが下手だったため解雇されたが、同誌のファッション編集者カーメル・スノーに写真を始めるよう勧められた。母親の病気、兄ヴァリックの死、セルジュ・オルロフ=ダビドフ伯爵との婚約解消に対処するために写真を始めた。彼女の最初の写真が掲載された『タウン・アンド・カントリー』誌だった。その後『ヴォーグ誌』と契約した。そしてセシル・ビートンの弟子になった。彼女は当時の多くの有名な写真家と仕事をした。1931年にコンデ・モントローズ・ナスト社から『ヴォーグ』誌のファッション写真家として最初の仕事を得た。
後に『ハーパーズ・バザー』誌でも写真を撮った。イブニングドレスなどでさえ、彼女のファッション写真は屋外で撮影されていることが特徴的で、活動的な女性を強調していた。彼女はファッション写真でスタジオの外へ出た最初の写真家のひとりで、この分野のトレンドを作った。彼女は主に「スタジオでどのように写真を撮ればいいのか分からない。技術的な点については今まで知らなかったし、今でも分からない」という理由で屋内で撮影しなかった。彼女のスタイルはキャリアを通じてこの「戸外」スタイルで続いた。このような革新と実験で彼女はよく知られていた。1941年、アメリカ赤十字社に写真撮影のボランティアとして参加した。その後、第8陸軍航空隊に勤務し、女性陸軍部隊の公式カメラマンとなった。女性陸軍部隊を代表して、看護師、前線の兵士、アフリカ系アメリカ人の飛行士、孤児の写真を何千枚も撮影した。彼女はヨーロッパ戦線に2度赴いた。『ライフ』誌に最初に掲載された彼女の写真は、1942年に爆撃されたロンドンの写真だった。
エリート332戦闘機グループの女性軍人とアフリカ系アメリカ人 戦闘機パイロットを撮影した彼女の感動的な写真は、軍隊における女性とアフリカ系アメリカ人への国民の支援を促すために使用された。戦時中、彼女は子供たちの写真シリーズを制作し、それらはロバート・ルイス・スティーブンソンの多くの出版された『子供の詩の庭』に使用されたが、これは児童文学の挿絵に写真がうまく使われた初期の例であった。1950年代には、ウィンストン・チャーチル、エレノア・ルーズベルト、建築家のスタンフォード・ホワイト、ジョン・F・ケネディとジャクリーン・ケネディなど、アメリカやヨーロッパの著名人や権力者の非公式のポートレートを撮影した。活動的な女性とスポーツへの関心を持ち続け、1953年に『スポーツ・イラストレイテッド』誌の女性スタッフとして採用され、数十年にわたり数少ない女性スポーツ写真家のひとりとして活躍した。1950年以降は、1967年に引退するまでフリーランスとして活動した。
後期の作品では、彼女はあらゆる階層の女性を撮影することに集中し、それはしばしば人間の状態についての論評として行われた。1944年に彼女が撮った象徴的な写真 "My Shadow"(私の影)は、海砂に伸びた自分の長い影を眺めながら両腕を広げた少年を写したもので、エドワード・スタイケンによって選ばれ、ニューヨーク近代美術館で開催 された世界巡回展 "The Family of Man"(人間家族)に展示された。この展覧会は900万人の来場者を集めた。1957年には、この写真は人気の心理学書の表紙に使用された。1963年には、ライフ誌の特集が彼女のキャリア全体にわたる "The Loving Embrace"(愛の抱擁)の写真に充てられた。その3年後『ライフ』誌は「消えゆく時代の貴族写真家」と題して彼女に敬意を表した。トニ・フリッセルは1988年4月17日、ロングアイランドの老人ホームでアルツハイマー病のため亡くなった。国際写真センターによると、フリッセルのファッション写真への主な貢献は、1930年代と1940年代に、演出されたものではなく現実的なファッション写真を開発したことである。彼女はモデルと屋外や現場で撮影することで、ファッション写真に無意識の自然さを表現することを習得した。彼女は1971年にフィルムネガのアーカイブをアメリカ議会図書館に寄贈している。
Toni Frissell (1907-1988) Photograph Collection | The Library of Congress Online Catalog
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