この絵は秋里籬島・竹原春朝斎『都名所図会』の後編、天明七(1787)年に刊行された同じ著者の『拾遺都名所図会』の一コマで、祇園会(祇園祭)の稚児社参の様子が描かれている。四条通を祇園社(八坂神社)から帰る行列の一行が、鴨川を渡っている。右上には「祇園会鉾の児は其町々の当家よりゑらび出し、六月朔日本社へ参詣する事、厳重にして肩輿に駕し、先キ歩徒後丁従者多く烈を正し、其行粧威風凛々として宛高貴の往来の如し。是なん神の威徳のいちじるしきなるべし」と書かれている。左上に「しばらくは雲のうへ也鉾の児」とあるように、鉾の稚児は祇園祭の期間中、雲上人になるのである。絵を見ると、一行が渡っている橋は、中州を流れるせせらぎに架かっているが、どう解釈しても四条大橋と言い難い小橋である。実は仮橋なのである。天野太郎監修「イラストで見る200年前の京都『都名所図会』で歩く京都案内」には次のような説明がある。
江戸時代、四条大橋は簡素な仮橋にしか過ぎず「大橋」とは呼ばれていなかった。『都名所図会』で当時の姿を眺めてみると、賑わいを見せる鴨川の河原の東西に架けられた橋が簡易な板橋であることがわかるだろう。これは、三条大橋や五条橋が幕府の管理する公儀橋だったのに対し四条橋は祇園社(八坂神社)の氏子や僧侶などが管理する橋であったためだ。つまり橋が壊れた場合、三条大橋や五条橋は幕府の費用によって修理を行うことができたが、四条橋は氏子や僧侶らの負担で修繕する必要があったのである。当時、鴨川はしばしば氾濫を起こし、幾度も四条橋を流し去った。四条橋は祇園社へのさん経路にあたっていたことから、その都度、橋の再建がなされたが、人々にのしかかる負担は甚大なものがあった。そのため、費用がかからず、維持・補修がしやすい簡易な仮橋が架けられたのである。仮橋から恒久的な橋へそんな四条橋が、初めて恒久的な橋となったのは、安政四(1857)年のことだった。
都林泉名勝図会「四条河原夕涼其一」 クリックで拡大 |
神社に僧侶とあるのは、祇園社は元々仏教寺院であったからだろう。寛文九(1669)年に石垣の堤防「寛文新堤」が築かれたため、先斗町や宮川町などの花街が形成された。北座・南座などの常設の芝居小屋なども設けられると、両岸の茶屋からは、中州の床几に加えて張出式の床も出されるようになる。特に祇園社の御輿が四条寺町下るの御旅所に遷されている期間の、旧暦6月7日から6月18日にあわせて人々が集まり、京の夏を彩る年中行事として全国的にも知られるようになった。寛政十一(1799)年に刊行された『都林泉名勝図会』の「四条河原夕涼其一」にその賑わいぶりが活写されている。床几は増水すると撤去作業が必要なため、固定式の床が出されるようになったようだ。水辺に近い場所のほうが涼しいはずだが、明治頃から高床式が立ち並び始めた。大正時代の治水工事により中洲が取り除かれ、流れが早くなったため、床几形式の床が禁止された。しかし屋根を付けたり、鉄柱を立てたりする店が後を絶たなく、昭和四(1929)年に半永久的な床を出すことが禁じられた。昭和十(1935)年6月29日の集中豪雨によって床はすべて流された。そして右岸の高水敷に人工水路の禊川を開削、その上に床が建てられ、現在のようになったという。
記念講演「四条河原の歴史的環境」川嶋將生立命館大学文学部名誉教授(PDFファイル 3.18MB)
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