2024年8月7日

カリブ海から始まるバンジョーの歴史物語

ヴィクトル・シュルシェールが収集したハイチの Banza(パリ音楽博物館蔵)

写真は1841年、奴隷制度廃止運動に取り組んでいたフランスの作家、ヴィクトル・シュルシェール(1804–1893)がハイチに旅行したときに収集した楽器だ。パリの音楽博物館で160年間も眠り続け、ベルギーの首都ブリュッセルの楽器博物館のキュレーター、サスキア・ウィラートが2003年に再発見するまで目を醒まさなかった。Banza はバンジョーを意味する呼び名のひとつで、ポルトガルのギターにもこの名がついている。奴隷商人によって強制的に運ばれたアフリカ人が作った楽器である。皮を張った瓢箪に絃をつけた楽器がバンジョーのルーツだが、17世紀にジャマイカやハイチなど、カリブ諸島の奴隷が作って演奏していた、というのが定説になっている。奴隷の積出港はセネガルのゴレ島、ガンビアのクンタキンテ島、シエラレオネのバンス島など、アフリカの西海岸にあった。そのセネガルを旅行した際に、大きな瓢箪に絃をつけた、リュート型撥弦楽器を見たことがある。KORA と呼ばれているが、絃の数が多い複雑な楽器で、現在でも演奏されている。演奏方法はハープに近く、バンジョーの原型とは断言でない。アフリカ西海岸の3絃楽器 Akonting について興味深い記事がアメリカの公共放送 NPR のウェブサイトに掲載されている。いずれにしても、瓢箪絃楽器がどのようにしてアフリカから大西洋を渡り、広まったのだろうかという素朴な疑問を持っていた。 しかし奴隷船の図を見ると奴隷たちは蚕棚にぎっしり積まれ、立錐の余地がなかったことが分かる。

奴隷船ブルックス

文字通り裸一貫、船に楽器を持ち込むことは、到底無理だったと考えられる。従って楽器自体が船で渡ったわけではないと考えられる。バンジョーは北米大陸で生まれたと思われがちだが、カリブ海の奴隷たちが新たに作った民俗楽器で、のちにアメリカ合衆国南部に伝播したと思われる。ハイチの Banza で特筆すべきは4絃でフレットレスであることだ。第4絃は他の絃より短く、ネックの途中から張るようになっている。常に開放のまま奏でられるドローン絃である。このドローン絃は5絃バンジョーの特長でもある。ミンストレル・パフォーマーだったジョエル・スウィーニーが発明したという説があるが、間違いである。彼は1810年生まれで、17世紀に作られたバンジョーのネックの途中にペグがついているからである。下の絵は奴隷所有者でもあった画家のジョン・ローズがろ描いた水彩画で、サウスカロライナ州ビューフォートの農園で踊る奴隷たちの貴重な記録である。クリックすると拡大するので細部を見て欲しい。右から二人目の男が演奏しているのも瓢箪バンジョーで、これはバンジョーを描いた最古の絵画として知られている。また西アフリカ起源とする頭飾り描かれている。楽器はハイチの Banza と酷似していて、ペグヘッドの形状や、平らなネック、胴体に刻まれたサウンドホールなどに共通性を見ることができる。カリブ海とは距離的に離れているが、18世紀に南部の農園に到達したのだろう。

Old plantation in Beaufort County
サウスカロライナの農園で踊る奴隷たち(1785-1795年頃)ジョン・ローズ画

しかしながらどのようにしてカリブから渡ったのか、残念ながらその点の文献に乏しいので、詳細は不明である。ビューフォートが海に面している点が問題を解くカギかもしれない。いずれにせよ地理的条件を勘案してみると、南部の農園生活で使われていた楽器が、現在のバンジョーに進化したのではないかと推測される。瓢箪ではなく、木製の丸い胴に牛または山羊の皮をつけた片面太鼓に、5本の絃を張ったバンジョーで、今日のものに近いものだった。そして19世紀から20世紀初頭にかけて流行った、ミンストレル・ショーに欠かせない楽器となった。現代では胴の背に共鳴板をつけたものと、ないものの2つのタイプがある。ポリエステルの皮を張ったバンジョーが主流で、演奏方法も多様化、フォークやオールドタイム、特にブルーグラス音楽の花形楽器になっている。太鼓に絃を張った楽器としては日本の三味線が馴染み深い。中国を経て琉球から伝播したが、元を辿れば古代ペルシャに起源を求めることができる。バンジョーのルーツも同様という仮説は成り立つだろうか? もしそうであるならば、バンジョーと三味線は同地域のルーツを持つことになる。何時ごろ、どのようなルートでペルシャから西アフリカに伝わったのだろうか。史料を探し、私論がまとまれば、ここに投稿したい。

museum  Luth "Banza" Banjo avant 1841 / Haïti / Le Musée de la musique Philharmonie de Paris

2024年8月6日

古代オリンピックはバラ色ではなかった

Terracotta Panathenaic prize amphora

西暦165年のオリンピック大会は最悪の結末を迎えた。メインスタジアムからほど近い場所で、大勢の観衆に見守られながら、ペレグリナス・プロテウスという老人が燃え盛る火炎に飛び込んだ。この焼身自殺は、この競技会の創設者のひとりであるヘラクレスの神話的な死を模したものであり、人間界の腐敗した富への抗議の意思表示であると同時に、教祖の信奉者たちへの苦しみに耐える方法の教訓でもあった。ペレグリナスの物語は、目撃者である古代の風刺作家ルキアノスによって語られていまる。彼は、老人の最後の瞬間を描いただけでなく、古代オリンピックの交通問題についても言及している。ルキアノスは「悪評」を立てようとしている「酔狂な老いぼれ」だと彼は嘲笑した。しかしこの話は、ローマ支配下でのオリンピックの衰退を示すものではない。ペレグリヌスが芝居がかった自殺の機会を選んだのは、オリンピックが依然として大きな魅力を持っていたからであり、この事件がこれほど大きく書かれたのは、その文化的意義が大きかったからである。現代のオリンピックの起源について考えるとき、ローマ時代を避け、代わりに古典ギリシャの栄光の日々に集中する。

OlympicSymbol

紀元前2世紀中頃から紀元後4世紀末にキリスト教皇帝によって廃止されるまで、ローマの支配下で祝われていたという意味で、古代競技は「ギリシャ」と同じくらい長い間「ローマ」だったという事実を無視しがちだからだ。現代の多くの説では、ゲームの真の起源は、紀元前6世紀から4世紀にかけての古代ギリシャ時代にあるとされているが、もしかしたらもっと前かもしれない。伝説では、古代ゲームは紀元前776年に創設されたとされているが、その年代を正当化する史料は見つかっていない。私たちにとって、この「元祖」オリンピックの話は、勇敢なアマチュア競技者たちの姿を思い起こさせる。男性だけだが、猛烈な愛国心を持ち、非常に限られた範囲のスポーツで気高く競い合っていた。徒競走、戦車競技、レスリング、ボクシング、円盤投げ、槍投げなどだ。余談ながらパナテナイア祭の花瓶に描かれた選手たちは素っ裸である。紀元前720年にメガラ出身のランナーであるオルシッポスが、スタディオンレースでパンツを脱ぎ捨てて初めて裸で走ったという。また紀元前8世紀にスパルタ人がオリンピックに裸体を導入したという伝聞がある。紀元前776年にスタディオンレースで優勝したコロイボスは、オリンピアでの最初の勝利者として記録されているが、短パンをはいていたかどうかは定かではない。しかし8世紀後半に、選手の裸体が一般的になっていたことは確かなようだ。

パリ2024オリンピック
オリンピック2024年パリ大会

競技は個人で行われ、勝利という純粋な栄光のために、物質的な報酬はなかった。オリンピックの競技で1位になってもメダルはもらえず、オリーブの葉の花輪が贈られるだけで、運が良ければ競技場の近くや故郷に自分の銅像が建てられることもあった。また、最も幸運な人は、詩人のピンダルやその弟子が特別に作った「勝利のオデッセイ」の中で祝福された。さらに、すべての競技は神々を讃えるために行われた。オリンピアはスポーツの場であると同時に宗教的な聖地であり、競技はギリシャ世界を一つの宗教文化の旗の下に統合していた。ギリシャの都市国家は、普段は戦争ばかりしていたが、4年に一度、オリンピック休戦宣言が出され、大会期間中は紛争が中断され、ギリシャ世界のどこからでも参加できるようになった。それは、スポーツやフェアプレーが、私利私欲のための軍事的な紛争や対立に勝る瞬間だったのである。例えば、古代オリンピックにはメダルも女性も存在しなかった。しかし、全体として、当時のオリンピックが実際にどのようなものであったかを示す絵画が大きな誤解を招いている。それは、古代ギリシャ人自身よりも、近代オリンピック運動の創始者たちの関心事に負うところが大きい。1896年に近代オリンピックを成功させたピエール・ド・クーベルタン男爵のような人たちは、アルコールを嫌ったり、世界の平和と調和についてのかなり漠然とした考えを持っていたりと、自分たちの強迫観念をオリンピックに体系的に投影させたのである。

OlympicSymbol

1980年代までの近代オリンピックの責任者たちがこだわっていたのは、アマチュアリズムへの崇拝だった。クーベルタンとその後継者たちは、現代のオリンピック選手として温かく迎えられたアマチュア競技者と、絶対にそうではないプロの妨害者との間の境界線を、時に残酷なまでの線引きをした。近代オリンピックの歴史の中で最も悪意に満ちた事件の一つは、1912年のストックホルム大会で五種競技と十種競技の両方で優勝した優秀なアメリカ人選手、ジム・ソープの話である。スウェーデンのグスタフ国王から記念の胸像を贈られたとき「国王、ありがとう」と答えたと言われている。後にアメリカのマイナーリーグでプレーしていた際に、週に25ドルという些細な報酬を受け取っていたことが明らかになり、プロに再分類され、メダルを剥奪され、胸像の返却を求められた。しかし1983年になって、ようやく遺族にレプリカのメダルが送られてきたのである。ソープは、1953年に貧困の中で亡くなっていた。いずれにせよ、古代および近代オリンピックは負の側面を持っている。国家という重荷を背負ったアスリートたちがパリでメダル争奪闘争を続けている。家賃相場が値上がりし、市民生活を圧迫。市内のホームレスの人々を郊外へ移動させる行政の対応が「ソーシャル・クレンジング」(社会の浄化)ではないかと批判が起きた。アスリートファーストと謳いつつ、大腸菌で汚染されたセーヌ川でトライアスロン選手を泳がせた。華やかな祭典では隠しきれない「オリンピック災害」の存在を忘れてはならない。

PDF  The Ancient Olympic Games: Being Part of the Experience ©The Eurographics Association

2024年8月5日

2024年の大統領選挙をリセットしたカマラ・ハリス副大統領

Surfin' U.S.A.

若者、アフリカ系有権者の関心が高まり投票する可能性が高まっていること、そして女性たちがハリス副大統領が自分たちの利益をより優先するだろうと確信していることに後押しされ、カマラ・ハリス副大統領は2024年の大統領選挙をリセットした。7月30日から8月2日の間に全国の登録有権者3,102人の代表サンプルを対象に実施された CBS ニュースの世論調査によると、彼女は全国で1ポイントのリードを保っているが、これはバイデン大統領がこれまで持ったことのないことである。またハリスとドナルド・トランプ前大統領は、激戦州全体で同点となっている。ハリスはバイデンにはなかった、より幅広い有権者に対する強みを持っている。そして政策全般において、ハリスはバイデンとは少し異なると見られており、いずれにせよ、有権者に対してハリスの立場を明確に示す可能性が残っている。しかしトランプにとって有利なことに、いくつかの重要な点は変わっていない。彼は自分と一緒にいれば経済的に豊かになる、また自分の政策によって国境の移民が減るだろうと答えた有権者に対して、大きなリードを保っている。「必ず投票する」と答えた民主党員の割合は今年最高に達した。これにより、選挙戦を通じて見られた党派間の「投票率の格差」が縮小した。バイデンが候補者だった7月と比べて、投票すると答えた黒人有権者の数ははるかに増えているのである。例えば一般的には「時々」または「めったに」投票しないと言いながらも、今は必ず投票すると言っている人たちの間では、ハリスが現在優勢だ。

Trump vs Harris
Boosts in Democratic excitement help Harris reset the race against Trump ©CBS

そしてハリスは女性有権者の間でリードしている。これは近年民主党が持ち、必要としていた優位性だが、少なくとも1つの大きな理由がある。女性有権者の大多数が、ハリスが当選すれば女性の利益に貢献すると考えているからだ。トランプについてそう言う女性ははるかに少ない。有権者は全体的にトランプが女性の利益よりも男性の利益に貢献すると考える傾向がある。男女間の格差は選挙戦の初期に比べていくらか拡大している。女性の間ではハリスがバイデンよりも大きな差でトランプをリードしている一方、男性の間ではバイデンとほぼ同じ支持を得ているのである。民主党支持者の大半、そして全体の支持者のほぼ半数が、ハリスが民主党候補になったことで投票意欲が増したと述べている。反対の効果もある。トランプ支持者の約3分の1も、ハリスが候補になったことで投票意欲が増したのである。ハリスは職務を遂行するのに十分な精神的・認知的健康を備えていると見られており、トランプより有利だが、これはバイデンにとって決定的な欠点だった。幅広い有権者層から見ると彼女は精力的で集中力があるという点でトランプを上回っている。彼女は認識されている能力ではトランプと互角で、厳しさと実力ではバイデンよりも近い。あるほど、彼女を非常にリベラルだと見る傾向が高い。また有権者はトランプを、非常に、あるいはある程度保守派だと見ている。そのため、その選択は有権者全体よりも二極化しているのである。カマラ・ハリスはアメリカの大統領になるのだろうか。

election2024  Key Polls | 2024 United States General Election: Trump vs Harris | RealClearPolitics.com

2024年8月4日

写真家集団「マグナム・フォト」所属するただ一人の日本人メンバー久保田博二

Pyongyang 1978
Pyongyang, North Korea, 1978
久保田 博二

世界を舞台に活躍する写真家集団「マグナム・フォト」に所属するただひとりの日本人メンバーである久保田博二は、これまで多くの国々を駆け巡り取材してきた。彼が写真家として国際舞台で活動するきっかけとなったのは、人々との出会いと、2つの国アメリカとビルマだった。1939年8月2日に千代田区神田に生まれた。早稲田大学で政治学を学び、1962年に卒業した。1961年にマグナムのメンバーが日本に訪れた際に、写真家のルネ・ブリ、エリオット・アーウィット、ブライアン・ブレイク、バート・グリンらと知り合いになった。彼らの仕事ぶりに魅了された久保田は写真家になろうと決心した。そして翌年、家族の反対を押し切って、ライカM3と2本のレンズを持ってニューヨークへ渡った。自由に渡米することが許されなかった時代のことである。その後、シカゴ大学でジャーナリズムと国際政治を学び、そこで日本食のケータリング事業で働きながら生計を立てながら写真を撮り続けた。エリオット. アーウィットが身元保証人となり、アメリカでの写真生活が始まった。イギリスの『タイムズ』紙でイーストハンプトンにあるジャクソン・ポロックの墓を初めて取材した。1963年からアメリカ各地を訪れた久保田は、最初の訪問地、首都ワシントンで「ワシントン大行進」の場に居合わせるという体験をした。

Anti-Vietnam Wa
Anti-Vietnam War gathering, Washington, D.C., 1965

また、先住民が居住する南西部や、南部を訪ねた。自分が日本人である事を意識させられた最初の撮影旅行だった。そして、1969年には復帰前の沖縄を取材し、ベトナムへ派兵される米軍の兵士だけではなく、沖縄の人々の取材にもそれ以上の時間を費やした久保田は、彼らの独自の生活、文化などにふれ、その格調の高さに感動する。この時、自分がアジア人であることに気づかされ、これからはアジアを中心に仕事をすべきだと心に固く決めたと語っています。アメリカで写真家になった久保田は、アメリカかぶれしていたに違いない自分に沁みこんだ「アカ」をまず洗い流すために、アメリカと最も対極にあるアジアの国はどこかと考え抜いた。ある時、それはビルマ(現ミャンマー)だとの結論が出す。

private bridal schoo
A private bridal school to seek future husbands, Kanagawa, 1966

1967年まで滞在するなかで、ベトナム戦争を境にアメリカが著しく変わっていく様を目の当たりにした。その後、一時帰国していた日本で任せられた仕事の成功報酬で、世界一周旅行の機会を得た久保田は、1968年、東京からニューヨークを経由して、西ヨーロッパ、中近東、インド、ビルマ、タイと香港を10カ月以上かけ旅をした。何よりも世界の多様性と複雑さに驚かされた忘れられない体験だったと振り返っている。1970年からビルマに通い始めた久保田は、78年までの間に70回ほどビルマを訪ねた。かつて東南アジアで最も豊かであったこの国の人々は、軍事政権のひどい圧政下のもとでも信仰深く、優しく、そして考えられないほど寛容であり、そのような人々に久保田は感銘を受けた。このビルマ撮影はやがてアジアの撮影に繋がる。

 Golden Rock
The Golden Rock at Shwe Pyi Daw, Kyaiktiyo, Burma, 1978

1972年に日本に返還される前の琉球諸島を撮影した。久保田は1975年にサイゴン陥落を目の当たりにし、アジアに再び目を向けるようになった。中国で撮影許可を得るのに数年かかった。最終的に1979年から1984年にかけて、久保田は1,000日間の旅に乗り出し、その間に20万枚以上の写真を撮影した。1985年には写真集と展覧会『中国』が出版された。1980年に毎日芸術賞、1981年に日本写真協会年度賞を受賞した。彼の出版物のうち3つは、1970年に第1回講談社出版文化賞を受賞した。「ブラック・ピープル」「カルカッタ」そして沖縄に関するエッセイ「沖縄・その二つの顔」である。1989年、久保田はマグナム・フォトの正会員になった。アジア大陸を撮影した写真集 "Out of the East"(東の国から)を1997年に出版した。

Steel Production
Steel Factory, Anshan, China, 1981

この写真集は2年間のプロジェクトに発展し、最終的に "Can We Feed Ourselves?"(自給自足は可能か?)という書籍になった。久保田はこれまで、東京、大阪、北京、ニューヨーク、ワシントン、ローマ、ロンドン、ウィーン、パリなど世界各地で展覧会を開催してきた。回顧写真集 "Hiroji Kubota: Photographer"(久保田博二:写真家)が2015年に Aperture 社より出版された。現在は、数冊の新しい本のために重要な作品をまとめている。「私は美しいものが大好きで、人々の心を高揚させる写真を撮りたいと思っています。写真を贈ったり受け取ったりすることは、美しく個人的なことだと思っています」― 久保田博二

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