2024年7月3日

一休宗純『狂雲集』を読む

紙本淡彩一休和尚像
紙本淡彩一休和尚像 伝:墨斎筆(東京国立博物館蔵)

南海電鉄住吉大社駅を降りて、路面電車の軌道を横切ると、大きな朱色の太鼓橋が見えた。反橋(そりはし)と呼ぶそうだ。川端康成は小説『反橋』(1948年)に「上るよりもおりる方がこはいものです」と書いている。人は階段にせよ、坂道にせよ、登りより下りのほうが怖いのである。これは今も変わらない道理であろう。やはり一瞬躊躇ったが、登ることにした。遠目には半円形だが、中央部を頂点として半円状に反っている。地上と天上を結ぶ虹に例えられていたため、このような構造になっていると考えられる。床は平らではなく木製階段になっている。かつて階段がなく、足を引っ掛ける穴が開いていたが、滑りやすく危険だったという。橋のてっぺんからは登山用のステッキを頼りにおそるおそる降りた。四角柱の鳥居をくぐると、第一本宮から第四本宮にいたる住吉造と呼ばれる四棟の本殿が視界に入った。富士正晴『一休』(日本詩人選27 筑摩書房)掲載の白文(原文の漢文)および読み下し文を引用してみよう。一休宗純は次のような漢詩を詠んでいる。[※]

優遊且喜薬師堂  優遊して且つ喜ぶ薬師堂
毒気便々是我腸  毒気便々是れ我が腸
慙愧不管雪雲鬂  慙愧管せず雪雲の鬂
吟尽厳寒秋点長   吟じ尽す厳寒秋点長し
筑摩書房(1971年)

柳田聖山はこれを「ぶらりとやってきて、何とまあ嬉しいことか、薬師さまの御堂ではないか、毒気で肚いっぱいの、救われぬボクであった。ありがたや、雪か霜のような、髪の白さを気にかけず、悲しい歌にききほれて、長い厳しい冬の一夜が(あっという間に)過ぎたのである」(柳田聖山訳『狂雲集』中公クラシックス)と訳している。1470(文明二)年、一休が盲目の旅芸人、森女(しんにょ)が歌う艶歌に聞き惚れたときのことを詠んだものである。さて薬師堂は何処にあるのだろうか。水上勉著『一休を歩く』(集英社文庫)によると、住吉大社の第一本宮だという。同書には元々は神仏混合の社で、第一本宮に薬師如来を祀ったいう記述がある。社務所に尋ねたところ、第一本宮に薬師如来はないが、かつて広大な敷地を有した神宮寺があったことは確かで、本尊は薬師如来だったという。ただ『狂雲集』に登場する薬師堂が現在の第一本宮とは言い切れないという。水上氏はここで舞楽舞を観て、森女は巫女ではなかったかと逞しい想像をしている。しかし盲目の女性がはたして巫女を務められるか、ちょっと疑問である。一休が艶歌を聴いたと明記しているし、たぶん瞽女(ごぜ)の身分ではなかったかと私は想像している。翌1471(文明三)年、一休は住吉大社で森女と再会、以後南山城の酬恩庵で同棲することになった。78歳の高僧と30歳前後の女性の恋である。

楚台応望更応攀  楚台応に望むべし応に攀ずべし
半夜玉床愁夢顔  半夜の玉床愁夢の顔
花綻一茎梅樹下  花は綻ぶ一茎梅樹下
凌波仙子遶腰間  凌波の仙子腰間を繞る
中央公論社(2001年)

これは「美人陰有水仙花香」(美人の陰〔ほと〕に水仙の花の香〔か〕有り)という題がついた漢詩だが、要するに性愛を赤裸々に詠んだものである。柳田聖山はこれを「楚王が遊んだ楼台を拝んで、今やそこに登ろうとするのは、人の音せぬ夜の刻、夫婦のベッドの悲しい夢であった。たった一つだけ、梅の枝の夢がふくらんだかと思うと、波をさらえる仙女とよばれる、水仙の香が腰のあたりに溢れる」と訳している。1474(文明六)年に一休は第47世大徳寺住持となり、戦火に焼亡した大徳寺の復興を手がける。そして現京田辺市薪里ノ内の酬恩庵一休寺に移り、1481(文明十三)年に同庵で入寂するまで、二人は仲良く一緒に暮らしたのである。臨終に際し「死にとうない」と述べたと伝わっている。そして以下の辞世の句を残した。

朦々として三十年 淡々として三十年
朦々淡々として六十年 末期の糞をさらして梵天に捧ぐ
借用申す昨日昨日
返済申す今日今日
借りおきし五つのもの(地水火風空)を
四つ(地水火風)返し
本来 空に いまぞもとづく

[※] 柳田聖山訳『狂雲集』には白文の記載がなく、読み下し文に句読点がついている。漢字は象形文字でありそれ自体が美しいので富士正晴『一休』掲載の白文および読み下し文を引用、現代語訳のみ柳田聖山訳を引用した。なお『狂雲集』自体の理解のためには後者が分かりやすいので、併せて写真と共に紹介した。

PDF  芳 澤元「一休宗純と三途河御阿姑」― 地獄辻子と遊女観 ―(東京大学史料編纂所研究紀要第28号)

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