2023年12月1日

近代化によって消滅する前のパリの建築物や街並みを記録したウジェーヌ・アジェ

Solar Eclipse
During solar eclipse, Paris, April 17, 1912
Eugène Atget ©1927 Berenice Abbott)

ウジェーヌ・アジェは1857年2月12日、フランス南西部のボルドー近郊のリブルヌに生まれた。アジェ家はナポレオン戦争後にプロヴァンスからドルドーニュ川流域に移り住んだ馬具職人であった。5歳の時に父親が亡くなり、母親もすぐに亡くなった。青年期の数年間は船員として海で過ごした。1879年、演劇を学ぶために国立音楽演劇学校に入学したが、2年で退学。その後数年間は、地方の下層の観客を相手にする旅回りの劇団で俳優を務めた。1880年代後半、アジェが30代前半の頃に、彼は写真に興味を持つようになった。アジェによる最も古い写真は、フランス北部で撮影されたものと思われる。これらの作品には田園風景、植物、耕運機、馬具をつけた馬、風車など)が描かれており、おそらく画家やイラストレーターのための習作として撮影されたものと思われる。20世紀初頭、写真の仕事の中心をパリに移住した。この時期の名刺に自らを「パリ旧市街の眺望写真コレクションの制作者兼販売者」と記している。アジェは雇われ写真家として依頼を受けて仕事をすることは避けようとし、ネガを売ることもほとんどしなかった。むしろ、20世紀の最初の10年間は、フランス文化の結晶である家、街路、商店、建築の細部などの偉大な視覚的カタログを作ることが彼の野心であったように思われる。主な顧客は、古い建築模型を求める建築家や職人、古いパリの記録を残したい図書館や公文書館、19世紀後半にパリの大部分を破壊し再建したナポレオン3世とその代理人ジョルジュ=ウジェーヌ・オスマン男爵の近代化計画を嘆く古都のアマチュアたちだった。

Porte d' Italie
Porte d' Italie, La Zone, Paris, 1913

また挿絵画家や独立画家にも絵を売っていたが、それは彼の収入のごく一部に過ぎなかった。おそらく、アジェのクライアントのニーズが多様であったことが、専門化によって生じがちな定型的な解決策を避けるのに役立ったのだろう。ドア、ドアノッカー、階段、手すりなど、一見ありふれた被写体であっても、アジェが撮影した写真は、経済性と知性にあふれ、写真描写の可能性を大胆に捉えており、見る者の心と目を楽しませてくれる。アジェの作品に特徴的なのは、広角レンズによる急速な前景の短縮、より親密な視点と引き換えに被写体の名目を頻繁に切り捨てること、さまざまな照明条件での撮影を厭わないことである。理由は定かではないが、アジェは第一次世界大戦中、ほとんど仕事をしなかった。実際、彼の作品は1910年以降、年々減少し、戦時中はほぼ停止し、1920年まで再開されなかった。この年、美術大臣ポール・レオンに手紙を書き、ネガ・コレクションの一部を売りに出した。アジェは「この膨大な芸術的、記録的コレクションは完成し私はパリ旧市街のすべてを所有していると言えるでしょう」と語っている。

Fireplace
Fireplace, Hôtel Matignon, former Austrian embassy, 1905

間もなく、政府は1万フランでアジェの2,600点を購入し、国の歴史登録簿に登録した。ネガの売却は、アジェにとって、人生のひとつの章の終わりと新たな章の始まりを意味したのかもしれない。1920年、アジェは新たな活力を取り戻し、自分のテーマに対する新たな、より拡大された感覚をもって仕事に復帰した。晩年には、店のウィンドウ、ストリート・フェア、サン=クルー公園を撮影した最高の作品や、パリ近郊の田園風景を撮影した最も感動的な作品など、最も美しく、最も独創的な作品を驚くほど高い割合で制作した。1925年の春には、おそらく彼の生涯で最も驚くべき持続的な創作活動であった、手入れが行き届いていないスソー公園を撮影した66枚の写真(10番から75番まで)を制作した。スソー城はフランス革命末期に破壊されたが、荒れ果てた公園は残った。アジェの写真は、壊れた彫刻や絡まった植え込みよりも、老朽化、喪失、芸術の不可解な慰めに重きを置いている。1926年夏、30年来の伴侶であった元女優のヴァランティーヌ・コンパニョンが亡くなった。

ontagne-Sainte-Genevièv
Rue de la Montagne-Sainte-Geneviève, June 1925

遺言執行人のアンドレ・カルメットは「アジェは悲嘆に暮れたと」語ったが仕事は続けた。アジェが存命中、彼の作品は比較的知られていなかった。彼の作品は、当時の芸術写真に対する考え方のいずれとも関連していなかった。それは、自分たちの作品が既知の芸術的美点、一般的には世紀末の象徴主義絵画の美点を体現すべきであると考えていた古いピクトリアリズム派の芸術写真を反映するものでもなければ、新しい写真は構成主義やシュルレアリスムといった戦後の実験芸術のプログラムに参加すべきであるとするモダニズム派の考え方を表現するものでもなかった。1926年、彼の写真はシュルレアリスムの雑誌 "La Révolution Surréaliste"(シュルレアリスム革命)に数点掲載されたが、それは芸術作品としてではなく、むしろ人生そのものが本質的に超現実的であることを示すものだった。結局のところ、アジェの作品の成功は、写真の芸術は、従来の絵画的戦略に従うことよりも、直感的に立つべき正しい場所を知ることの方が重要であることを示唆しているようだ。

ragpickers
Porte d'Asnières, Valmy, ragpickers, 1913

1925年、ベレニス・アボットは、アジェのプリントを数点目にする。その後、1927年8月4日にアジェが亡くなるまで、彼女は何度かアジェを訪ねている。1928年、アボットはアジェの遺品である1,000点以上のガラス板と、おそらく1万点にものぼる版画のコレクションを買い取った。(彼の遺品は現在、ニューヨーク近代美術館に収蔵されている)。その翌年、アボットはアジェの作品に関する数多くのエッセイの最初のものを書き、その中で彼女は「ウジェーヌ・アジェの作品を見ることで、創造的表現の世界に新しい世界が開かれる」と述べている。1931年末までに、この賞賛は、当時の他の2人の傑出した若手写真家、ウォーカー・エヴァンスとアンセル・アダムスにも響いていた。実際、新世代の写真家たち、特にエヴァンスは、アジェの模範に助けられながら、明白な事実が持つ詩的な可能性に基づく、創造的な写真という新しい考え方を発展させていった。

MoMA  Eugène Atget (1857–1927) | Biographyr | Works | Publications | Museum of Modern Art

2023年11月29日

かつてニューヨークも電線蜘蛛の巣城だった

これは19世紀末、ニューヨーク市街に蜘蛛の巣のごとく張りめぐされた電話線である。アメリカ合衆国の掲示板型ソーシャルニュースサイト Reddit などに掲載されている米国議会図書館蔵の写真だが、提供者の情報に関してはリンク切れになっている。関連写真を載せている「メトロポリタンポスカードクラブ」の解説によると、初期の電話線は多量のメッセージを送受信することができず、普及するにつけこのように夥しい数の電話線が至るところに張られてしまったようだ。豪雪により電線が垂れ下がって危険だったし、視覚的障害物でもあった。そんなこともあって地下に埋められることになったようだ。かつて私は旧ブログで「京都は国際電線都市なのである」という一文を書いたことがある。

電柱電線(京都市東山区祇園町北側)

京都は確かに魅力ある古都だが、その景観を台無しにしているのが、空を覆う電線である。市街の外周、三山の麓の神社仏閣や、洛中の御所などは流石に電線を目にしない。祇園の花見小路や上七軒通り、先斗町通りの地下化が行われた。なぜ花街優先なのか不思議だが、肝心の町中はまるで進んでいない。テレビなどで映される欧米の美しい街並みにため息をつくことがしばしばだが、その要因のひとつが電線が目立たないことである。欧米にできて、何故日本でできなかったのか。それは電話および電力会社、そして行政の見識のなさと怠慢である。前者はいわば独占企業で、料金は取り放題で市民に還元しない、その傲慢ぶりが腹立たしい。特に関西電力。原発もさることながら、電柱電線を無作為に設置、景観を破壊してきた責任は重い。

Kyoto City  京都市道建設局「無電柱化の取組みについて」の表示とダウンロード(PDF ファイル 1.97MB)

2023年11月28日

サラ・カーターの秘められた愛憎物語

12 years old Sara
Sara Elizabeth Dougherty about 12 years old

カーター・ファミリーのサラ・カーター(サラ・エリザベス・ダウアティー)は、19世紀末2年前の1898年7月21日、ケンタッキー州との州境からほど近い、ヴァージニア州の150マイルに及ぶクリンチ・マウンテンの北側にあるコッパー・クリークの近くで生まれた。1901年に母親が亡くなると叔父と叔母の家に身を寄せた。近所の人がオートハープを持っていたので、10代のサラはグリーティングカードを売ったりして、シアーズのカタログで注文、初めてこの楽器を手に入れた。膝の上に乗せてコード伴奏で歌を歌うもので、最低限の音楽知識と技術があればよい。そのためには、曲をシンプルで規則的な形にアレンジする必要があった。サラはギターやバンジョーの伴奏も覚えたが、最も注目されたのは彼女の印象的で力強い、表現力豊かな歌声だった。クリンチ・マウンテンの反対側から、果樹のセールスマンであるA・P・カーターが訪ねてきた。彼はサラの歌声を聴き、彼女に言い寄るようになった。彼女は彼を好きではないと言っていたが、17歳の誕生日の1カ月前に結婚した。そしてグラディス、ジャネット、ジョーの子供たちが加わった夫妻は、メイセス・スプリングに移り住み、自宅や地元の教会で一緒に歌っていた。A・P・は落ち着きのない性格で、家を空けることが多かった。

Carter Family
The Carter Family (L-R) A.P., Maybelle & Sara Carter.

主な収入源は、鍛冶屋、大工、苗木の販売、伐採などであった。借りた車で親戚を訪ねた時に、故障してお金がなくなってしまった。どうしたらいいかと聞かれたサラは、地元の学校で歌を披露することを提案した。それは、彼らがプロの歌手になるための初めての試みだった。A・P・はブランズウィック・レコード社が人材を募集していることを聞きつけ、オーディションを受けた。夫妻は "Log Cabin By the Sea" "Poor Orphan Boy" などのフィドル曲を演奏した。しかしブランズウィック社が求めていたのは、家族での演奏ではなく、歌うフィドラーだったため A・Pはその申し出を断った。コッパー・クリークには、メイベルとマッジ・アディントンという2人の年下の従妹がいて、サラは彼女と一緒に音楽を楽しんでいた。メイベルがA・P・の弟エズラと結婚して山の向こう側に引っ越してきた後、A・P・とサラはギターとヴォーカルのハーモニーで参加してほしいと頼んだ。1927年、RCAの辣腕ディレクター、ラルフ・ピアがテネシー州ブリストルでオーディションを行った。後に「ブリストル・セッション」と呼ばれるようになったヒストリカル・レコーディングで、2週間に渡って行われた。これに応募したのが、A・P・カーター夫妻と、ふたりに説得されて参加した妊娠中のメイベルだった。これをきっかけに一躍有名になった彼らは、ラジオとレコードという新しいメディアを通じて一世風靡することになる。

Sara Carter and Coy Bayes
Sara Carter and Coy Bayes, courtesy of Norman Boling.

サラは1932年にA・P・と別れ、山の反対側にあるカッパー・クリークに戻った。「ハリウッド映画のカップルは別れても一緒に演奏している」というラルフ・ピアの妻アニタの勧めもあり、サラは演奏と録音のアンサンブルのメンバーとして残った。家族や友人によると、距離を置くことでA・P・との関係は改善された。1939年2月、何の前触れもなく、サラはメキシコのボーダーラジオ局 XERA で「カリフォルニアにいる友人のコイ・ベイズに曲を捧げたい」と発表し "I'm Thinking Tonight of My Blue Eyes" を感動的に歌い上げたのである。

Oh, I'm thinking tonight of my blue eyes
Who is sailing far over the sea
Oh, I'm thinking tonight of my blue eyes
And I wonder if he ever thinks of me

長い年月が隔てていた想いが成就、サラはA・P・の従弟であるコイ・ベイズと再婚したが、A・P・とは友好的な関係を保っていたという。戦時中にノースカロライナ州シャーロット都市圏の WBT で演奏した1年を経て、オリジナルのカーター・ファミリーは16年間の活動の後、1943年に解散した。サラとコイはカリフォルニアに移り住んだ。メイベルとその娘たちは自分たちのカントリー・アクトを確立、そしてA・P・はメイセス・スプリングに食料品店を開いた。1970年代初頭、サラとメイベルはジョニー・キャッシュのネットワーク・テレビ番組に出演し、ヴァージニア州ヒルトンズで開催された第1回A・P・カーター・メモリアル・フェスティバルで共演した。サラは循環器系と呼吸器系の病気で入院、1979年1月8日に80歳で他界した。カーター・フォールドでの葬儀の後、近くのマウント・バーノン・メソジスト教会墓地のA・P・カーターの墓の2列目に埋葬された。

YouTube  The Carter Family "I'm Thinking Tonight of My Blue Eyes" Camden Session May 10, 1928

2023年11月26日

若きバーバラ・デインの姿が脳裡から離れない

Barbara Dane at Newport Folk Festival, Rhode Island, circa 1964

初めて欧米の音楽に強く惹かれたのは確か高校生のころで、FEN(米軍極東ネットワーク)から流れた軽快な5弦バンジョーの響きだった。それはのちに「ブルーグラス音楽」ということがわかり、大学に進学した翌年、病嵩じてC&W研究会なるサークルを結成した。1963年だったことははっきり覚えているが、そのサークルのために "Bluegrass" と題したガリ版刷りの冊子を作成した。そこに「NLCR(ニュー・ロスト・シティ・ランブラーズ)がボブ・ディランやジョーン・バエズなどと共にニューポート・フォーク・フェスティバル出演した」と紹介した。何をソースに書いたか記憶にないが、今のようにインターネットもなく、いささかマニアックな一冊だったようだ。当時はNLCRのような黎明期の商業レコードの音源を再現していたグループや、伝承音楽を引き継いだブルーグラス音楽アーティストなどに傾倒、所謂フォークは脇に置いていたような気がする。だからニューポートにバーバラ・デイン(1927年5月12日生まれ)が出演していたことは知らなかったのである。

Tradition Everest – TR 2072 (1967)

彼女に注目をし始めたのはずいぶん前のことで、スミソニアン・フォークウェイズからリリースされたオムニバスCD "Classic Folk From Smithsonian Folkways" に入っていた "Deportees (Plane Wreck at Los Gatos)" を聴いてからだった。これはパレドン・レコードの "I Hate the Capitalist System"(1973年)に収録された1曲である。1948年におきたメキシコの出稼ぎ労働者が犠牲になった飛行機事故を扱ったウディ・ガスリー作詞の曲で、息子のアーロなど多くのフォークシンガーに歌い継がれてきた。何と表現したらいいのだろう、とにかく聴いて欲しい。

YouTube  Barbara Dane - Deportees (Plane Wreck at Los Gatos)

初期のアルバム "Anthology of American Folk Songs" で伝承民謡を披露しているが、独特の歌唱スタイルを持った素晴らしいシンガーである。何故彼女がリアルタイム、つまり60年前に私の視野に入らなかったのだろうかと、今さらながら悔やまれる。1927年5月12日生まれ。2012年6月初めにボストングローブ紙が85歳になった彼女の功績を称える記事を掲載したが、残念ながら現在では有料購読者しか全文を読むことができない。少し前に96歳になった彼女の写真をニューヨーク・タイムズ紙デジタル版で見たが、元気そうだった。しかし半世紀以上も経ってしまったニューポート・フォーク・フェスティバルでの若き姿が焼きついて脳裏から離れない。写真やレコードは時間を止める魔術師なのだろう。なお下記リンク先は90年の生涯を描いたド長編ドキュメンタリー映画「バーバラ・デインの9つの人生」である。ボニー・レイット、ジェーン・フォンダ、ルイ・アームストロング、ザ・チェンバース・ブラザーズなどがなどがフィーチャしたモーリーン・ゴスリング監督作品である。90歳代半ばのいまだ健在なデーンのダイナミックな現代生活は、彼女がいかにして多くの挫折をチャンスに変えたかを語り、何世代ものミュージシャンや活動家に深いインスピレーションを与えている。クラウドファンディング「キックスターター」で資金調達、2023年に制作された。

cinema  The 9 Lives of Barbara Dane | A documentary political activist across nine decades life<