2023年8月29日

福島原発の放射性物質を含む廃水の海洋放出は安全か?

汚染水

東京電力福島第1原発にたまり続ける廃水の海洋放出が今月24日に始まった。マスメディアは汚染水という言葉を避け、いつの間にか処理水と報道している。汚染水をALPS(多核種除去設備)で浄化処理すれば、大半の放射性物質は取り除かれ、検査しても検出できない水準まで低い濃度になるという。しかし除去できないトリチウムが残ったままである。東電は今後発生する汚染水も含め「廃炉目標とする2051年に処理水の保管をゼロにできる」と説明している。しかし汚染水の発生を止めない限り処理水の放出も終わらない。デブリに触れた冷却水が建屋に流入した雨水や地下水と混ざって汚染水が増えるが、デブリの取り出しも建屋の止水も実現できる具体策はなく、放出完了は見通せない状態である。福島の漁業にとって、海洋放出は水揚げ増や販路回復のマイナス材料にしかなりえず、復興の途上で次の打撃を食らうことになる。政府は海洋放出の安全性のアピールに注力しているが「なぜ今放出するのか」の説明も足りない。さかのぼれば事故直後、東電は地元漁業者らに事前連絡せず低濃度の汚染水を放出し、国内外からの信頼を失った。2013年、ALPSよる処理を始めた際も、東電の担当者が放出を前提にしたような発言を国の検討会で口走り、再び地元の漁業者らの反感を買った。

保管タンク
福島第1原発敷地内に立ち並ぶ保管タンク ©朝日新聞社

政府や東電との「関係者の理解なしにいかなる処分も行わない」という約束は、2015年に前者の海洋放出に同意した際に交わされたものだが、それが反故になってしまった。岸田文雄は「数十年の長期にわたろうとも、処理水の処分が完了するまで政府として責任を持って取り組む」と発言した。しかしながらこの先、岸田政権が数十年の長期にわたり存在するとは考え難い。なお中国、ロシア両政府が大気への水蒸気放出を検討するように政府に直接求めたが、大気中の放射性物質のモニタリングが海洋よりも難しいなどとして見送られた。両国は質問リストで、大気中の放射性物質のモニタリング手法は技術的に確立されていると指摘、日本政府の見方を否定している。海洋放出の必要経費は約34億円で、水蒸気放出の10分の1にとどまるとする日本側の試算を引用して「日本の選択が経済的コストの考慮に基づくのは明らかだ」と主張した。下記リンク先のナショナルジオグラフィック誌の記事によると、現在、アメリカの科学者たちは、海洋生物や海流が有害な放射性同位体を太平洋全体に運ぶ可能性があると表明しているという。ハワイ大学ケワロ海洋研究所の所長であり、太平洋諸島フォーラムの海洋放出計画に関するアドバイザーを務めるロバート・リッチモンド博士は「福島沖の海に放出されたものは一か所に留まることはない」と断言している。これらの同位体は「 摂取されると、様々な無脊椎動物、魚類、海洋哺乳類、そして人間に蓄積される」可能性があるというのだ。有害な放射性同位元素が太平洋全体に運ばれる可能性があるという懸念である。太平洋に面しているのは日本だけではない。

National Geographic  Japan releases nuclear wastewater into the Pacific. How worried should we be? | NGS

2023年8月26日

さようならディアドルフ

Deardorff 8x10
Deardorff 8x10 Large Format Film Camera with Nikkor 240mm F5.6

大判蛇腹式木製暗箱ディアドルフ8x10を手放した。ディアドルフビューカメラはニューヨーク州ロチェスターのロチェスター・カメラ社に勤めていたラバーン・F・ディアドルフ(1863-1952)が製造した木製構造の大判蛇腹式ビューカメラである。ラバン・F・ディアドルフは、最初の8x10ディアドルフを製造する前に30年近くカメラのデザインと修理を行っていた。シカゴに移り、1923年から手作りで木製暗箱型カメラの製造を始めた。抜群の堅ろう性を有し、精巧かつ優美に作られており、木製大判カメラの最高峰として現在もプロアマ問わず写真家達に絶賛されている。またこのカメラをコレクションする人もおり、中古相場が下がらない理由の一つになっているそうである。1988年にシカゴでの生産を終了した。日本の写真機材店銀一と駒村商会の支援を受け、1992年にテネシー州アセンズで生産を開始したが、1996年に再び製造中止になってしまった。2011年に再度製造が再開され、4x5と8x10の各15台が限定生産された。

Icon
The Holy Annunciation Cathedral in Kyōto
Deardorff 8x10 with Nikkor 240mm F5.6 and Neopan100 Acros

私が所有していた8x10は、1970年代にシカゴから個人輸入したものだった。写真を生業にしてきた私にとって、カメラを手放すことは寂しものがある。ただこのカメラを有効に使ってきたとは言い難い。自動車の運転免許証を持たない私は、これをスーツケースに入れ、バスや電車で運んだものである。京都から琵琶湖まで撮影にいったことがあるが、せいぜい浜大津までで、琵琶湖一周は叶わぬ夢に終わってしまった。いささか言い訳になるが、やはり出動回数が少なかったことは否めない。新たな持ち主に活用して貰いたいという願望もある。

Large format camera  Deardorff large format cameras by Q.-Tuan Luong and Ken Hough for the Large Format

2023年8月25日

カメラの焦点を自分たちの生活に向けるべきと主張したハリー・キャラハン

Grasses
Grasses, Horseneck Beach, Massachusetts, 1965
Harry Callahan

ハリー・キャラハンは1912年10月22日、ミシガン州デトロイトで生まれた。若い頃クライスラーで働いたが、ミシガン州立大学で工学を学ぶために退社した。1938年に独学で写真を始める。1941年、アンセル・アダムスの作品がキャラハンに写真を真剣に取り組むきっかけを与えた。5年後、シカゴデザイン研究所のアーサー・シーゲルとラスロー・モホリ=ナジはキャラハンを写真学科の教師の一人として招待した。1949年から1961年まで、彼はその部門の責任者を務めた。1961年にロードアイランド・スクール・オブ・デザインに移る。そこで写真のコースを始め、1977年まで教えた。彼の写真撮影の方法は、毎朝住んでいた街の通りを歩き、価値があると感じたものをフィルムに収めることだった。その後、彼は午後の時間もを費やしてその中から最高のものを選んだ。キャラハンがプリントに最終的に仕上げたのは、1年間でほんの数枚だけだった。彼は家族の写真、そして街路や建物などの街の風景の写真を撮った。イメージは、光と闇、形と線に対する強い理解を示していた。また、妻の妊娠期間を写真に記録した。妊娠モードとは別に、彼は15年間妻エレノアの写真を撮り続けたが、彼女は彼の主要な写真の主題だったのである。エレノアの写真は街中でも、家でも、子供と一緒だったり、そして彼女なしだったりだった。

Detroit
Detroit, Michigan, 1941

カラーと白黒、着衣とヌード、そしてクローズアップとロングショットの両方を撮った。大小のフィルムフォーマット、ぼかし、三重露光、二重露光を実験した。写真家は1933年にブラインドデートで出会い、3年後に結婚した。彼女はデトロイトのクライスラーモーターズの秘書で、彼は事務員だった。1950年までに、彼らの娘バーバラがこの世に生まれた。ハリー・キャラハンは多重露光を作成することに熟練していたし、その作品は彼の人生を反映していた。 カメラの焦点を自分たちの個人的な生活に向けるべきだと生徒たちにアドバイスした。

Eleanor and Barbara
Eleanor and Barbara, Chicago, 1953

キャラハンは、文字通りの描写ではなく、概念的なアイデアを使用して抽象的な作品を制作した。1970年代の後半、キャラハンはカラー写真の制作に熱中し、そのカラー画像が彼の名声の理由となりました。彼は美学の可能性を探求したいと考え、それを続けた。1978年に、彼はカラー写真をプリントした。同年、ヴェネツィア・ビエンナーレで、キャラハンは写真分野で初めてアメリカの代表となった。ハリー・キャラハンによる 100,000枚の写真ネガと10,000 枚以上の写真プリントが残されており、これらによって次世代が彼とその作品について知ることができる。

Atlanta
Atlanta, Georgia, 1984

彼の写真アーカイブはアリゾナ大学のクリエイティブ写真センターにある。彼のニューヨークの不動産の代表者はペース/マッギル ギャラリーである。2012年に彼の妻が95歳で亡くなった。彼の作品は、スペインのラ・カイシャ(2000年)アリゾナのクリエイティブ・センター・オブ・フォトグラフィー(2006年)パリのアンリ・カルティエ=ブレッソン財団などで個展やグループ展で展示された。

ICP  Harry Callahan (1912–1999) | Biography | Artworks | International Center of Photography

2023年8月22日

大恐慌時代の FSA プロジェクト 最初の写真家アーサー・ロススタイン

Cider and Apple Stand
Cider and Apple Stand on the Lee Highway, Shenandoah National Park, Virginia, 1935
 Arthur Rothstein

アーサー・ロススタインはアメリカ屈指のフォトジャーナリストとして知られる。50年にわたるキャリアの中で、彼はアメリカ国民を挑発し、楽しませ、情報を与えた。ユダヤ系移民の息子として1915年7月17日、ニューヨークのマンハッタンで生まれ、ブロンクスで育つ。コロンビア大学に進学、ロイ・ストライカーに師事、同大学カメラ・クラブの創設者であり、学部年鑑『コロンビアン』の写真編集者でもあった。1935年、大学4年生だったロススタインは、ストライカーともう一人の教授レックスフォード・タグウェルが編集していたアメリカ農業の写真資料集のために、一組の写真のコピーを用意した。しかしそれは出版されることはなかった。フランクリン・ルーズベルトのニューディール政策のブレーンとしてコロンビア大学を去ったタッグウェルは、その年の暮れ前にストライカーを雇った。そしてそのストライカーはロススタインを雇い FSA(農業安定局)の歴史課に配属、写真プロジェクトの最初の写真家となった。スタッフの中で最も若いロススタインの最初の仕事は、エージェンシーの暗室を立ち上げることだった。プロの写真家としての経験はなかったが、すぐにウォーカー・エヴァンスやドロシア・ラングの写真に触発され自信と技術的な専門知識を身につけた。それから5年間、彼はアメリカの農村の写真を撮り続けた。

Dust Storm
Dust Storm, Cimarron County, Oklahoma, 1936

彼をはじめ、エスター・ブブリー、マージョリー・コリンズ、ウォーカー・エヴァンス、ラッセル・リー、マリオン・ポスト・ウォルコット、ゴードン・パークス、ジャック・デラノ、ジョン・ヴァション、カール・マイダンス、ドロシア・ラング、ベン・シャーンといった FSA の写真家たちが、アメリカの農村部の貧困層の生活状況を広報するために起用された。1935年10月、ロススタインはヴァージニアのブルーリッジ・マウンテン地域で農村の農民を撮影した。彼の最も有名な2つのシリーズは、翌年の春に撮影された。1936年4月、オクラホマ州シマロン郡で、彼は "Fleeing a Dust Storm"(砂嵐を逃れる)を撮影した。これは、殺風景な風景の中で、農夫と2人の息子が身を隠そうと慌てふためく、ダストボウルを象徴する写真である。

Oregon or bust
Oregon or bust. Leaving South Dakota for a new start, Missoula, Montana, 1936

物議を醸したのは、5月にサウスダコタ州ペニントン郡のバッドランズで行った作品で、干上がった川原で見つけた日に焼けた牛の頭蓋骨を可動式の小道具として何枚かの写真に使用した。彼の目的は、見る者に干ばつの深刻さをグラフィカルに伝えるイメージを作り出すことだった。しかし反ニューディール派の批評家たちは、ルーズベルトが客観的なドキュメンタリー写真家としての立場を損なって、政治的目的のために実際の状況を歪曲したと考えた。 ルーズベルトの計画に反対する人々は、写真の捏造を告発し、ルーズベルト諜報機関と政権に対する批判の嵐を巻き起こした。

Artelia Bendolph in Log Cabin,
Artelia Bendolph in Log Cabin, Gee's Bend, Alabama, 1937

実際、金融庁を代表する写真家たちの多くは、被写体にポーズをつけたり、物を動かしたり取り除いたり、人工的な光源を使った。パレ・ローレンツの映画 "Plow that Broke the Plains"(平原を耕した鋤)(1936年)の場合は、俳優を雇ってシーンを操作していた。熟練した映画作家であり監督であったローレンツは、ロススタインに強い影響を与えた。芸術家であるふたりは、作品について入念に考え、見かけの自然さは演出されたものだった。とはいえ、ロススタインは自分の映像を芸術作品というよりも、社会変革の道具とみなしていた。ロススタインは FSA のために広範囲を旅し、ほぼすべての州を通過し、9,000枚以上の画像を制作した。

>Shadows on tent
Shadows on tent, Big Horn County, Montana, 1939

これらは米国議会図書館の FSA/OWI コレクションに残っている。フォトジャーナリストとしてのキャリアはスラジオワークを含め、50年に及んだ、コロンビア大学ジャーナリズム講座で教鞭をとり(1961~1971年)フォトジャーナリズムとドキュメンタリー写真に関する一連の書籍を出版した。フォトジャーナリズム分野で 35 を超える賞を受賞し、ピューリッツァー賞の元審査員でもあるロススタインは ASMP(米国雑誌写真家協会)の創設者であり役員でもあった。1985年11 月11日にニューヨーク州ニューロシェルで死去、70歳だった。

The Library of Congress  Arthur Rothstein(1915-1986) Farm Security Administration Black-and-White Negatives