2023年2月25日

アメリカ西部開拓を正当化する役割を担ったカウボーイ

Frederic Remington

カウボーイの起源はメキシコだが、アメリカのカウボーイは独自のスタイルを作り上げた。しかし荒く、孤独で、時には過酷な労働は、気の弱い人には向いていなかった。1519年、スペイン人がアメリカ大陸に到着して間もなく、彼らは牛などの家畜を飼育するための牧場を建設し始めた。スペインからは馬が輸入され、牧場で働かされていた。メキシコの先住民のカウボーイは、スペイン語の vaca(牛)に由来する vaquero(ヴァケロ)と呼ばれていた。ヴァケロは牧場主に雇われて家畜の世話をし、優れたロープワーク、乗馬、牧畜の技術で知られていた。1700年代初頭には、牧場は現在のテキサス、ニューメキシコ、アリゾナ、そして遠く南はアルゼンチンまで進出した。1769年にカトリック教会によるカリフォルニアの伝道活動が始まると、西部ではより多くの地域に家畜の飼育が導入されるようになった。1800年代初頭、西部に移住した英語圏の入植者たちは、服装や牛追いなど、ヴァケロ文化の一端を取り入れた。 カウボーイはアフリカ系アメリカ人、アメリカ先住民、メキシコ先住民、アメリカ東部やヨーロッパからの入植者など、さまざまなバックグラウンドを持っていた。

Cattle Drive
Cowboy surrounded by cows during cattle drive

1800年代半ば、アメリカでは鉄道が敷かれ、さらに西へと伸びていった。西方拡大によりフロンティアがどんどん広がっていく中、カウボーイは西部開拓を正当化する標語 Manifest Destiny(明白なる使命)の中心的な役割を担った。カウボーイは家畜を飼い、集めては鉄道で各地に運んで売った。どの牛がどの牧場のものかを区別するために、カウボーイは牛の皮に特別なマークを焼き付けた。キャトルドライブでは3,000頭の牛を移動させるのに、8人から12人のカウボーイが必要だった。1865年に南北戦争が終結する頃には、北軍の牛肉はほぼ使い果たされ、牛肉の需要が高まった。また、食肉加工業の拡大も牛肉の消費を促した。1866年には、何百万頭ものロングホーン・キャトルが集められ、鉄道駅に向かって走らされるようになった。牛は北部の市場に一頭あたり40ドルもの高値で売られた。牧場経営は1800年代後半まで広く行われた。白人入植者は、購入した牛を飼育するために、大平原の公有地を放牧地であると主張することを許可された。しかし1890年代になると、土地の所有権をめぐる確執が解消され、有刺鉄線の普及もあって、ほとんどの土地が民営化されるようになった。

High Noon
Gary Cooper 'High Noon' 1952

1886年から1887年にかけての冬、西部の一部では気温が氷点下まで下がり、何千頭もの牛が死んだ。多くの学者は、この壊滅的な冬がカウボーイ時代の終わりの始まりだったと考えている。牛追いは1900年代半ばまで続けられたが、その規模は小さくなった。ほとんどのカウボーイはオープントレイルでの生活をやめ、西部の個人牧場主に雇われるようにった。1920年代にカウボーイの役割が減少し始めたにもかかわらず、ハリウッドは1920年代から1940年代にかけて、西部劇でカウボーイのライフスタイルを普及させた。これらの映画にはジョン・ウェイン、ゲイリー・クーパー、ジーン・オートリーなどのスターが出演していた。観客は「真昼の決闘」のウィル・ケインの架空の冒険をスクリーンで見るために映画館に押し寄せたのである。カウボーイは時に無法者という悪評が立ち、所によっては出入り禁止になることもあった。日差しを防ぐためにつばの広い大きな帽子をかぶり、馬に乗るためにブーツを履き、砂埃から身を守るためにバンダナを巻いていた。時代は変わっても、アメリカのカウボーイは今でもアメリカ西部の生活の一部であることに変わりはない。

Cowboy Brown American Cowboy | The History of the Vaquero by Phil Livingston | Equine Network

2023年2月19日

女性の乳首に自由を

Civilian Defense
Edward Weston (1886–1958) Civilian Defense, Carmel, 1942

ソーシャルメディア Facebook にヌード写真をポストしたところ即削除されたことがある。ごくありふれた写真だったので驚いたのだが、おそらく閲覧者の報告によりシステムが対処したのだろう。利用規約に反しているという指摘があったように記憶している。以下に Facebook の「ヌードや性的行為: パブリッシャー・クリエイター向けガイドライン」の一部を引用しよう。

Facebook では乳首が見える女性の乳房の画像も制限されますが、医療目的や健康上の目的でシェアされる画像は除きます。授乳をしている女性や乳房切除術後の瘢痕を表す写真も許可されます。また、ヌードを描写する絵画や彫刻などの芸術作品の写真も許可されます。

上掲の写真はエドワード・ウェストン(1886–1958)の「民間防衛」と題した作品だが、おそらくこれをポストすれば削除されるだろう。医療目的や健康上の目的ではないし、授乳をしている女性の写真ではないからだ。写真術は近代に生まれたが、今や絵画や彫刻と相並ぶ芸術様式である。なぜ Facebook、あえて名指せば CEO(最高経営責任者)のマーク・ザッカーバーグが写真芸術を排斥するのか理解できない。乳首が写ったヌード写真は猥褻だと短絡解釈しているのだろう。さらに同上ガイドラインを引用しよう。

性的行為の表示に対する制限は、イラストコンテンツやデジタル処理で作成されたコンテンツにも適用されます。ただし、教育目的、ユーモアや風刺の目的で投稿されたコンテンツの場合は除きます。性行為の露骨な画像は禁止されています。

性行為の画像は禁止という言質は性行為を猥褻であると解釈しているわけだが、性行為すなわちセックスなしには子どもは生まれない。卑近な例、アニマルセックスの写真がおおっぴらに公表されているが、ヒトのセックスの写真はご法度になっている。江戸時代の「枕絵」は親が娘に持たせる嫁入り道具であったが、幕府の取り締まりを受けた。うがった見方をすれば性行為の画像の取締りは昔から為政者の権力の象徴と言えそうである。ポルノ画像が性犯罪の呼び水になっているかは疑問である。

Free The Nipple

女性の乳首に関しては「カイリー・ジェンナーの Free the Nipple に続け! フリー・ザ・ニップルをリードするセレブ11名」という記事を思い出す。Free The Nipple(乳首を自由に。以下 FTN)とは男性のトップレスは許されているのに、女性はそうではないことに対する抗議活動である。もともとは俳優で監督のリナ・エスコが2012年に同名のインディーズ系コメディ映画を作ってこのダブルスタンダードを指摘、ジェンダー差別の撲滅を訴えたことから始まった。彼女の主張を支持したマイリー・サイラスやレナ・ダナムがこのハッシュタグをつけて SNS にトップレスをアップしたが、インスタグラムや Facebook は「女性のトップレスはNG」というルールがあるとして削除。女性セレブたちがこれに抗議し、FTN は一気に拡大した。今もダブルスタンダードはなくならず、バストトップを何らかの形で隠さなくてはインスタグラムにトップレス画像をアップできないことから FTN は根強く続いている。 下記リンク先のガーディアン紙の記事によると Facebook と Instagram の親会社 META は、まもなく女性の胸の写真を解放する可能性があるという。同社の監視委員会は、女性のヌード写真を禁止する規則を見直すよう求めたという。マーク・ザッカーバーグに早急な決断が求められている。

guardian Free the nipple: Facebook and Instagram told to overhaul ban on bare breasts | Guardian

2023年2月16日

ラ・プラタの博物学者ウィリアム・H・ハドソン

ラ・プラタの博物学者

中国ファーウェイの7型タブレット MediaPad T3 7 を持っている。実画面は文庫本よりひと回り小さいが、これまでアイザック・ウォルトン(1593–1683)の『釣魚大全』やの『海上の道』などの電子書籍を読んできた。電子書籍の最大の特長は、文字の大きさや書体を変えることができることである。劣化した視力には有難い。ただ読書専用機ではないので、やはりアマゾンの電子リーダー Kindle Paperwhite が欲しくなる。とてつもなく膨大な、星の数ほどの書籍が電子化されているが、何故か好きな作家ウィリアム・H・ハドソン(1841–1922)の邦訳本がリリースされていない。従って今のところ Kindle の導入に至っておらず、紙の本をバッグに忍ばせて持ち歩いている。おおよそこの10年間、唯一の例外はフィドルの教則本で、文庫本あるいは新書しか購入していない。だから友人が写真集を出したにも関わらず不義理をした。おっと、長い前書きになってしまった。

はるかな国とおい昔

ハドソンといえばまず頭に浮かぶのが『はるかな国とおい昔』で、 生まれ育ったアルゼンチンの幼少時代を書いた自伝文学である。寿岳しづの名訳が岩波文庫から1998年に出版された。

William H. Hudson

どこまでも続く大草原、広い空にひびく羊たちの鳴き声.アルゼンチンのパンパに育った作家ハドソンが、自然とともに生き、その不思議な美に魅せられた幼年時代の思い出を美しく綴った自伝文学の傑作。博物学と文学の美しい交錯とうたわれるこの作品は、現代人の心にも自然への深い愛着を呼びさます。(岩波書店のHPより)

ハドソンの作品で私が特にお気に入りなのは『ラ・プラタの博物学者』で、岩波文庫:改定版(1975/8/18)と講談社学術文庫(1998/12/10)の両方を所持、翻訳の違いなどを読み比べたりしている。

「パンパ」とよばれる大草原が広がる南米のラ・プラタ地域は、ハドソンンが青少年期を過ごした土地である。その地をこよなく愛し、自然や野生生物の観察に明け暮れた彼の熱情は、やがて当地の大自然を美しく歌い上げた本書となって結実し、博物学者としてのハドスンの名声を不動のものとした。原典にちりばめられた博物画家スミットによる味わい深い挿画を完全収録し、待望の新訳で贈る博物誌の名品。(「BOOK」データベースより)

博物学に造詣が深かったハドソンは鳥類学者でもあった。黒田晶子訳『鳥たちをめぐる冒険』(1977/4/24)および小林歳雄訳『鳥と人間』(1978/10/16)を講談社が出版した。いずれもハードカバーだったが、前者は1992年に同社学術文庫に収められた。

鳥たちをめぐる冒険
鳥がいつまでもそこにいたがったのは、手あつい介抱のためではなく、ひとからならぬ恋のためらしかった。当然、彼の相手は彼を助け餌をやった少年だろうと思われるところだが、実はなんと隣家に住む小さな男の子だったのだ! 誤解の余地はなかった。そうしたければいつでも飛び去れるはずのこの鳥は、自分の選んだ、小さな友だちの家の近辺にようになった。いつでも少年のそばにいたがり、学校に行くときもついていって教室に入り、一つ所にとまって授業が終わるのを待った。だが彼の忍耐心にとって、学校の授業の教程は長すぎた。コクマルガラスはしばしば大声で不服を訴え、子供たちはクスクス笑った。結局彼は外へ出され、ぴしゃりとドアをしめられた。すると今度は屋根の上にとまって放課後を待ち、時間になるとおりてきて少年の肩にのり、一緒に家に帰った。(黒田晶子訳)

イングランド南部ウィルトシャー典礼カウンティの小さな村でのエピソードだ。英国に渡り、極貧生活に耐えながら、アルゼンチンや英国の鳥類などに関する優れた著作を残した。幼少時、コウカンチョウを手にするが、それは籠に入れて飼った最初の鳥であり、籠に入れて飼った最後の鳥でもあった。ガラスケースの中の鳥、すなわち剥製による研究を戒めた、鳥類保護の先駆者だった。1894年、RSPB(英国王立鳥類保護協会)の評議会委員長に選ばれている。

britannica  William H. Hudson (1841-1922) | British author, naturalist, and ornithologist | Britannica

2023年2月14日

アメリカ先住民ポーニー族の文化と歴史を探求した女性人類学者

Folkways Records – FE 4334
Gene Weltfish

このLPアルバム「マーク・エヴァーツが歌うポーニー族の音楽」は女性人類学者のジーン・ウェルフィッシュ(1902-1980)が1936年に録音、1965年にフォークウェイズ・レコードからリリースされた。彼女は1928年から1953年までコロンビア大学に勤務したアメリカの人類学者・歴史家である。フランツ・ボワズに学び、中西部平原地帯のポーニー族の文化・歴史を専門とした。1965年に出版された民族誌 "The Lost Universe: Pawnee Life and Culture"(失われた宇宙ポーニーの生活と文化は、今日までポーニー文化に関する権威ある著作とみなされている。ウェルトフィッシュはニューヨークのドイツ系ユダヤ人の家庭に生まれ育った。祖父が雇ったドイツ人の家庭教師に教えられ、ドイツ語を母国語として育った。13歳の時、父親が遺言なしに亡くなったため、その遺産は国が管理し、信託財産として保管した。家計を助けるため、4歳で学校の事務員として働き始め、夜間は高校に通った。1919年にワドレー高等女学校 を卒業し、ハンター・カレッジに入学し、ジャーナリズムを専攻する。コロンビア大学のバーナード・カレッジに編入し、ジョン・デューイ(1859–1952)に師事して哲学を副専攻した。1925年にバーナードを卒業し、コロンビア大学大学院の人類学課程に入学した。4年生のときにフランツ・ボアズ(1858–1942)の講義を受けた彼女は、その後も彼を指導教官として研究を続けた。ニューヨークでアメリカ先住民ポーニー族のヘンリー・モーゼスと出会ったウェルトフィッシュは、彼の部族を学位論文のテーマとして研究することを決意した。オクラホマ州の保留地では、部族のほとんどがポーニー語を話していた。彼女は美学と職人技の研究に重点を置き、ポーニー族の女性だけが行っていたバスケット作りの技術を学んだ。コロンビア大学での博士論文のタイトルは "The Interrelation of Technique and Design in North American Basketry"(北米の籠細工における技法とデザインの相互関係)だった。

The Last Univers

彼女は1929年に論文を完成させたが、正式に博士号を取得したのは1950年になってからである。この間、同じ大学院生だったアレクサンダー・レッサー(1902–1982)と結婚した。彼もボアスに師事し、スー族を研究する人類学者となった。二人は15年間結婚生活を送った。1931年に娘のアンが生まれる。二人はオクラホマでスー族の親族制度について最初のフィールドワークを行う。オクラホマ州の保留地では、部族のほとんどがポーニー語を話していた。それまでその言語を勉強したことはなかったが、何年か勉強しているうちに習得した。彼女は美学と職人技の研究に重点を置き、ポーニー族の女性だけが行っていたバスケット作りの技術を研究した。1935年、ボアズの招きでコロンビア大学で教鞭をとることになった。コロンビア大学では、長年にわたる女性差別の慣習からか、ウェルトフィッシュに終身在職権が与えられることはなかった。博士論文のタイトルは "The Interrelation of Technique and Design in North American Basketry"(北米の籠細工における技法とデザインの相互関係)である。彼女は1929年に論文を完成させたが、正式に博士号を取得したのは1950年になってからである。1961年にニュージャージー州のフェアリー・ディキンソン大学に就職し、定年退職の70歳を迎える1972年まで勤めた。大学を退職した後も、ニューヨーク市のニュースクール社会調査部とマンハッタン音楽院で非常勤講師として、またニュージャージー州ニューブランズウィックのラトガース大学で客員教授として教壇に立った。ラトガース大学では、老年学の新しいプログラムに参加した。1980年8月7日、ニューヨークのルーズヴェルト病院で、78歳の誕生日を5日後に控えて死去した。下記リンク先の YouTube でウェルフィッシュが録音した、マーク・エヴァーツが歌うポーニー族の音楽を聴くことができる。貴重なレア音源である。

Native American Music of the Pawnee sung by Mark Evarts and recorded by Gene Weltfish 1936 | YouTube