2021年7月29日

閲覧者が 5,000 人に達した Facebook ページ

American Riits Music

ソーシャルメディア Facebook で私が管理しているページ「アメリカンルーツ音楽」の閲覧者が5,000人を超えた。なぜ日本人がアメリカ音楽のページを、と不思議に思う人が多いかもしれない。同サイトには外国人が作っている日本の浮世絵やヲタク文化のページもあるし、そういう意味では別に不思議ではないと思っている。ページを「いいね!」した人の性別と年齢の集計データを見てみよう。ユーザーのプロフィールに記載されている情報に基づいて集計された推定値でである。男女とも65歳以上の高齢者が一番多い。ソーシャルメディアは若者というイメージなので意外だ。利用者が Facebook プロフィールに入力した年齢や性別などのさまざまな要素に基づいて集計されたものだそうである。

利用者

管理人が日本人と知った人から「日本語で」というメッセージが届いたこともあるが、外国人のほうが多いので、と返信した。国別閲覧者数のベストテンは次の通りである。( ) 内は人数。

  1. アメリカ (3,337)
  2. 日本 (274)
  3. イギリス (236)
  4. カナダ (120)
  5. オーストラリア (93)
  6. フランス (77)
  7. イタリア (73)
  8. ドイツ (47)
  9. ブラジル (47)
  10. スウェーデン (44)

アメリカからのアクセスが圧倒的に多いが、イギリス、カナダ、オーストラリアの英語圏、そして英語を解する人が多いヨーロッパからと続くのがお分かりいただけると思う。日本が2番目だが、これは私の Facebook フレンドが含まれているからだと思う。閲覧者が1万を超えるページがざらにあるので、5,000人は威張れる数字とは言い難い。しかし現在の Facebook フレンドは1,295人だし、特異なテーマなのでそれなりのファンを得たと言えるかもれない。これまで1,000人単位でマイルストーンと表現してきた。次のマイルストーンは6,000人、日本流にいえば六里塚だが、さて、いつになることやら。

American Roots Music  Visit my American Roots Music page on social media Facebook

2021年7月27日

フォークミュージック225曲を無償ダウンロードする

The Library of Congress - LBC1

1976年から1978年にかけて米国議会図書館がリリースした15枚のLPレコード "Folk Music in America" 全225曲を英国のウェブサイト urban75 のブログから無償ダウンロードした。全米芸術基金の助成を受け、米国議会図書館アメリカン・フォークライフ・センターの1890年から1976年までの期間の音楽を収録している。この魅力的なセレクションには、米国先住民の歌や楽器演奏、ブルース、ジャズ、カントリーミュージック、そして世界各地からの移民が米国に持ち込んだ伝承歌謡などが含まれている。このコレクションは全曲を梱包した 1.1GB の ZIP ファイル "Folk Music in America, complete download" をオンライン入手、あるいはLPレコード1枚ごとに小分けした、以下の ZIP ファイルをダウンロードすることができる。

  1. Religious Music – Congregational and Ceremonial
  2. Songs of Love, Courtship, and Marriage
  3. Dance Music – Breakdowns and Waltzes
  4. Dance Music – Reels, Polkas, Etc.
  5. Dance Music – Ragtime, Jazz, Etc.
  6. Songs of Migration and Immigration
  7. Songs of Complaint and Protest
  8. Songs of Labor and Livelihood
  9. Songs of Death and Tragedy
  10. Songs of War and History
  11. Songs of Humor and Hilarity
  12. Songs of Local History and Events
  13. Songs of Childhood
  14. Solo and Display Music
  15. Religious Music – Solo and Performance

このコレクションは米国議会図書館のアメリカン・フォークライフ・センターにアーカイブされているが、無償配布はしていない。CD-R 購入あるいは有償ダウンロードのみとなっている。

LOC  Folk Recordings Selected from the Archive of Folk Culture | The Library of Congress

2021年7月25日

異才の写真家ダイアン・アーバス

Central Park 1962
Child with Toy Hand Grenade in Central Park ©1962 Diane Arbus

ダイアン・アーバス(1923-1971)は、20世紀を代表する写真家のひとりであり、その誠実な撮影スタイルは、多くの現代の写真家やアーティストの作品に道を開いた影響力のある人物だった。独特のアプローチは、直接的なポートレートと、奇妙なものの中に馴染みのあるものを見つけ、普通のものの中に非凡なものを発見する能力に特徴付けられる。アーバスは、ストリッパー、カーニバルパフォーマー、ヌーディスト、ドワーフ、子ども、母親、カップル、高齢者、中産階級の家族など「すべての人を撮影する」ことに没頭した。撮影されたポートレートは、大胆で率直なものだが、アーバスが被写体との間に築いた信頼関係が反映されており、イメージを支える複雑で協力的な関係を生み出している。1923年にニューヨークで生まれたアーバスは、1940年代から夫のアラン・アーバス(1918–2013)と共同で『グラマー』や『ヴォーグ』『セブンティーン』などのファッション誌で仕事をしていた。1962年、二眼レフカメラのマミヤC33あるいはローライフレックスを使い始め、独特の正面からの四角いフォーマットのポートレートを開発した。フレームの中央に被写体を配置することが多く、被写体との間に相互作用や共同作業の感覚を強めたのである。

During a class at the Rhode Island School of Design ©1970 Stephen A. Frank
©1967 Photo by Dan Budnik

彼女が個人的な関心事に本格的に取り組み始めたのは1950年代に入ってからだった。オーストリア出身の写真家リゼット・モデル(1901–1983)に師事し、この経験が彼女の作品を大きく変えた。 広く知られた作品に『おもちゃの手榴弾を持つ子ども』(1962年)がある。子どもの名はコリン。短パンにサスペンダーといういかにもドイツ的な服装で、嬉々としてポーズをとっている。メトロポリタン美術館はこの日に撮影されたコンタクトシート所有しているが、陽気で堂々とした彼が写っているという。では、なぜアーバスは、口元を引き締めて不機嫌な顔をし、片手で爪を立て、もう片方の手で手榴弾を握っているショットを選んだのか。彼はスポーツをしているのではないか、あるいは、突然の恐怖に襲われた怪獣映画の俳優のように、誰かの真似をしているのではないか。要するに、アーバスは、気分に合わせて証拠を操作し、楽しみから恐怖を作り出した罪を犯しているのかもしれない。1960年代、アーバスはジョン・サイモン・グッゲンハイムフェローシップを2度受賞し「アメリカの儀礼、マナー、習慣」の研究などのプロジェクトを進めることができた。1967年には、ニューヨーク近代美術館で開催された画期的な展覧会「ニュー・ドキュメンツ」の焦点となった3人の写真家のひとりに選ばれている。た。1971年7月26日、心のバランスを崩し、ニューヨークの自宅アパートのバスタブで自ら両手首を切って自殺した。アーバスが亡くなった1971年の翌年には、アメリカ人写真家として初めて、世界最大かつ最も権威のある現代美術の祭典であるヴェネチア・ビエンナーレに作品が選ばれ「アメリカ館の圧倒的なセンセーション」「極めてパワフルで非常に奇妙なもの」と評された。

magazine In the Picture: A new biography of Diane Arbus by Anthony Lane | The NEW YORKER

2021年7月24日

ファンタジーと現実をつないだ写真家アタ・カンドー

Hungarian refugees 1956
オーストリア国境のハンガリー難民(1956年)

アタ・カンドー(1913–2017)にとって、人生と仕事は常に密接に結びついており、その生活は決して楽なものではなかった。ブダペストのボートニク学校で画家としての訓練を受け、そこで最初の夫であるギュラ・カンドー(1908-1968)と出会う。しかしカメラを手に入れてからは、写真に専念するようになった。彼女は最初から愛する人たちのポートレートを撮ることに長けていた。19歳で急逝した妹のイカを撮影したポートレートは、彼女の初期の作品であり、最も大切にしているもののひとつである。1940年代半ば、カンドーは夫と3人の子どもと一緒にハンガリーを脱出し、パリで暮らし始めた。最初は幼い双子を置いていかなければならず、一家が再会したのは数ヵ月後のことだった。この経験は、1956年のハンガリー動乱を描いたシリーズや、南米のインディアン・コミュニティを描いたシリーズなど、彼女が後に頻繁に選んだ「子供を持つ若い母親」という題材に影響を与えているのかもしれない。1947年、夫は単身ハンガリーに帰国した。以来、彼女は3人の子供と暮らすようになった。生活のために、彼女は新しく設立された写真エージェンシーの暗室技術者として働いていた。1950年、彼女はマグナム・フォトで暗室技術者として働くようになった。

Madeleine en Thomas 1955
マドレーヌとトーマス『森の中の夢』シリーズより(1955年)

1950年、彼女は当時25歳だったエド・ヴァン・デル・エルスケン(1925–1990)と知り合った。4年後、ふたりはアムステルダムに移ったが、結婚生活は終焉した。カンドーはすぐにアムステルダムの写真界の一員となり、自分と同じように写真家として成功したエヴァ・ベスニョー(1910–2003)などと仲良くなった。

アタ・カンドー(1953年)エルスケン撮影

60年代に入ると、カンドーは写真教育に積極的に取り組むようになったようだ。また、ブラジルのアマゾンを2度訪れ、南アメリカのインディアンの文化を守ることに尽力する。1979年から1999年までは世界各地で生活していたが、写真家としての評価を受けたのはオランダに戻ってからである。カンドーは、常に自分の直感に従って写真を撮っていた。そのことは、彼女の代表的な写真シリーズである『森の夢』や『カリプソとナウシカ』を見れば一目瞭然だ。これらのシリーズでは、50年代後半にヒッチハイクでヨーロッパの特別な場所に行き、子どもたちが登場している。自然の美しさをとらえるカンドーの才能は、驚くほど魅力的な写真を生み出した。この2つのプロジェクトは本として出版された。1956年のハンガリー動乱の際には、難民のポートレートのような深刻なテーマにした。ちょうど10年前に同じような状況に置かれていたこともあり、彼らに共感したのである写真家ヴィオレット・コーネリアス(1919–1998)とともにハンガリーを訪れ、子どもたちのために、美しいデザインの写真集が出来上がった。103歳という長寿を全うしたカンドーは、オランダのベルゲンにあったケアハウスを終の棲家にしていた。若い世代の写真家たちが頻繁に彼女を訪ねてカメラに収めている。クース・ブローケル(1962-)がそのひとりで、人生と仕事が感情的かつ本能的に絡み合った女性写真家にインスパイアされたようだ。

museum アタ・カンドーの写真作品 | オランダ北ホラント州アムステルダム市立美術館 | 1978年