2020年4月29日

閲覧者が 3,000 人を超えた Facebook ページ


ソーシャルメディア Facebook で私が管理しているページ「アメリカンルーツ音楽」の閲覧者が今日3,000人を超えた。なぜ日本人がアメリカ音楽のページを、と不思議に思う人が多いかもしれない。同サイトには外国人が作っている日本の浮世絵やヲタク文化のページもあるし、そういう意味では別に不思議ではないと思っている。ページを「いいね!」した人の性別と年齢の集計データを見てみよう。ユーザーのプロフィールに記載されている情報に基づいて集計された推定値でである。男女とも65歳以上の高齢者が一番多い。ソーシャルメディアは若者というイメージなので意外だ。利用者が Facebook プロフィールに入力した年齢や性別などのさまざまな要素に基づいて集計されたものだそうである。


管理人が日本人と知った人から「日本語で」というメッセージが届いたが、外国人のほうが多いので、と返信したこともある。国別アクセスのベストテンは次の通りである。( ) 内は人数。
  1. アメリカ合衆国(1,999)
  2. 日本(145)
  3. イギリス(122)
  4. カナダ(79)
  5. オーストラリア(59)
  6. イタリア(46)
  7. フランス(44)
  8. ドイツ(31)
  9. スウェーデン(28)
  10. スペイン(27)
アメリカからのアクセスが圧倒的に多いが、イギリス、カナダの英語圏、そして英語を解する人が多いヨーロッパからと続くのがお分かりいただけると思う。日本が2番目だが、これは私の Facebook フレンドが含まれているからだと思う。閲覧者が1万を超えるページがざらにあるが、3,000人は3番目のマイルストーン、日本流にいえば距離は違うが三里塚だと思う。それにしても創設が昨年1月31日だから、ここまで達するまで意外と時間がかかったと思う。次のマイルストーンは4,000人だが、さて、いつ達成するだろうか?

2020年4月28日

もっと語学の勉強をしておけば良かった

ジェイムズ・ジョイス著『ユリシーズ』全三巻

バスのつり革に掴まっている、私の前に立った若い女性を見上げたら、どうやら読んでいるのは洋書らしい。目を凝らすと、それがジェイムズ・ジョイスの『ダブリン市民』ということが分かった。ふーん、凄い、と感心する。私は邦訳の文庫本を10年以上前に購入したが、未だに読み終えていない。短編集だが、少し読んでは置いてしまう、そんな本である。ピンホール写真仲間の女性は「原書で読んだほうがいいわよ」と私に勧める。彼女は英語教師だからスラスラ読めるだろうが、私にはトンでもない話である。なにしろ日本語でも読破していないのだから。そのジョイスといえば、分厚いハードカバー3分冊(文庫版は4分冊)の高松雄一・丸谷才一 ・永川玲二(共訳)『ユリシーズ』(集英社1997年)も持っている。

ニック・アダムズ物語
マルセル・プルーストの『失われた時を求めて』と並んで、20世紀における2大小説と呼ばれているものだが、まだ1ページも読んでいない。なぜ購入したか記憶が曖昧である。アイルランド旅行をし、ダブリン訪問の余韻が残っていたときに衝動買いしたものかもしれない。くだんの英語教師の彼女は「これも原書がいいわよ」という。『ダブリン市民』も読みかけなのに、無理、無理である。そういえば昔、学生時代に米文学を専攻していた女性に「アーネスト・ヘミングウェイは原文で読むべきね、彼はジャーナリストだから簡潔で分かりやすい英語だし…」といわれたことがある。その気になった私は "The Nick Adams Stories"(ニック・アダムズ物語) という短編集を入手したものである。主人公ニックはヘミングウェイの分身で、スペイン戦争から帰還した青年、ロストジェネレーションの物語である。晩年の彼はその代表作『老人と海』が暗示しているように、大魚を狙った海釣りをする。しかしここには川釣りで鱒を追って戦争の傷を癒す若きヘミングウェイの姿が投射されている。と、もっともらしい解説をしかけたが、これは後に読んだ邦訳版『ヘミングウェイ釣文学全集(上巻)鱒』(朔風社)で仕入れたものだ。オンライン版の原書を翻訳ソフトを使いながら、何とか拾い読みすることができた。翻訳本でも十分楽しめる、と強がりを言ってみるものの、どこかに引け目を感じてしまう。やはり原書を読めるに越したことはないのだ。手元にノーベル文学賞作家、トルコのオルハン・パムクの『イスタンブール』がある。嗚呼、原書を読めたらいいのに。嗚呼、もっと語学の勉強しておけば良かった。

2020年4月25日

ピクトリアリスムとピンホール写真の接点

Dancing Girls at Okazaki Park Kyoto with Harman TiTAN 4x5 Pinhole Camera and Fujifilm 160NS

Alfred Stieglitz: Hand of Man (1902)
香港のゼロイメージ社と英国ハーマン・テクノロジー社の4x5インチピンホールカメラを持っているが、鮮明ですね、とよく言われた。その理由のひとつとして、フィルムの面積が関係していると思う。ピンホール写真は光の直進性を利用するので、針孔の口径とフィルムのフォーマットが画素数に影響する。針孔の口径が小さければ画素数は増える理屈になるが、余り小さくすると光の回折現象によって画質が劣化する。適正針孔口径の計算式があるのだが、その通りに正確に作るにはレーザードリルが力を発揮する。だからホルガやゼロイメージなどの既製カメラの画像は鮮明なんだと推測している。私はレンズなしのカメラでどこまで写るかという興味を持ち、8x10インチのボディを特注したり、超精巧針孔基板を取り寄せてテストしてみた。ピンホール写真は鮮明さを追求するものではないが、まあ、好奇心である。しかし周囲の人たちの多くの作品の鮮明度が上がるにつれ、なんだかオカシイな、と感ずるようになったのである。だから三脚を使わず、わざとブラした不鮮明な写真を作るようになった。写真術の出現は長い人類の歴史から俯瞰すれば、つい昨日のことと言える。その黎明以降、人々は精巧なレンズを開発、より鮮明な映像を定着しようと努力してきたと信じてる人が多いかもしれない。ダゲレオタイプは1839年にフランス学士院で発表されたが、驚くほど短期間の間に肖像画に取って替わってしまった。写真が持つ明解性が絵画を凌駕したからだ。ところ19世紀末になると、カーボンやゴム、オイル、ブロモイルを使った印画法が流行る。絵画における印象派の影響を受け、ソフトフォーカスによって芸術性を高めようという動きが起こるのである。いわゆるピクトリアリスム、絵画主義写真だが、皮肉なことに写真が持つ明解性を写真家自ら排除してしまったと言える。

George Davison: Onion Field (1890)
その背景にはディテールへの嫌悪感だったと言えそうだ。つまり見えなくとも良いものまで見えてしまうことへの恐れだった。ピクトリアリスムの旗手はアメリカではアルフレッド・スティーグリッツ(1864-1946)、日本では野島康三(1889-1964)らであった。ところが1910年代半ば、忽然としてピクトリアリスムは頓挫、この二人も含め写真界はストレート写真へ回帰してしまう。精密な描写力こそ写真の特質であるというのが主張だった。以上は余りにも駆け足過ぎる歴史記述だが、ピクトリアリスムとピンホール写真の間に何らかの関係はないだろうか、ということを調べたことがある。1890年にジョージ・デイヴィソン(1854-1930)が撮ったネギ畑のピンホール作品が、ロンドン写真協会の年度最高賞を受賞し話題になった。そして2年後には Photonimbuses(フォトニムバス)というピンホールカメラがロンドンで4000台も売れたそうだ。ソフトフォーカスの流行がピンホール写真を受け入れたと解釈できないことはない。しかし調べた限りでは、その後のピクトリアリスムの歴史にはどうもピンホール写真は登場しないようだ。つまり両者には大きな接点を見つけることはできない。別の方向で歩んで来たと言えそうだ。不鮮明な画像を得ようとするなら、ソフトフォーカス効果が得られるフィルターやレンズを使えば良い。わざわざピンホールカメラを使う必要はない。また逆に、冒頭に触れたように、ピンホール写真は鮮明さを得ることが目的ではない。不鮮明でも構わないのではないかと居直ったとき、その先に展開するものは何だろうか。困るのは、コンテンポラリー・ピクトリアリスムを目指していると勘違いされることである。

2020年4月24日

続:オンライン翻訳ツールの実力(英訳編)


引き続き今度はオンライン翻訳ツールで日本語を英訳してみた。日本文学の研究者としては、コロンビア大学名誉教授だったドナルド・キーン(1922–2019)が名高く、近松門左衛門、松尾芭蕉、三島由紀夫など古典から現代文学まで研究対象にした。ここで取り上げる夏目漱石(1867–1916)の『草枕』について、高く評価するものの「表現の美しさや後味の良さ」であり「物語の面白さは谷崎や芥川等に及ばない。世界の古典になかなかなれないと思う」と評論しているのが興味深い。以下、冒頭の書き出しと、そのオンライン翻訳。
山路を登りながら、こう考えた。智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。住みにくさが高じると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生れて、画が出来る。
Google翻訳
I thought about this while climbing the mountain path. If you work for Satoshi It will be washed away if you feel it. It's cramped if you get it right. Anyway, people's world is hard to live in. The more difficult it is to live, the more you want to move to a cheap place. When you realize that it is difficult to live wherever you go, poetry is born and you can draw.

DeepL翻訳
I thought as I climbed the mountain road. If you work with wisdom, you will have horns. If you let your feelings get the better of you, you will be swept away. It's cramped if you get your way. Anyway, the human world is hard to live in. When it becomes difficult to live, you want to move to a cheaper place. When you realize that no matter where you move to, it's hard to live, poems are born and paintings are made.

Weblio翻訳
I thought in this way while climbing the paths of mountain. It creates hard feelings if it acts on intellect. It is strolled if I point to the pole in feeling. It is tight if I maintain guts. The secular society is hard to live if I rake this. When I live, and hate grows on, it goes down and wants to move to the cheap place. When I realized that it is hard to live even if I move to where, poetry is born, and there is an image.

Excite翻訳
I thought of Yamaji so while climbing. When operating on cleverness, I give offense. When sticking a pole into affection, it's let run. When having the own way, it's tight. It's difficult to live in an edge for the world. When difficulty in living there is aggravated, I feel like pulling it to an inexpensive place and coming. When perceiving to be difficult to live there wherever you came, poetry can be born and do ga.

書籍翻訳(Alan Turney)
Going up a mountain track, I fell to thinking. Approach everything rationally, and you become harsh. Pole along in the stream of emotions, and you will be swept away by the current. Give free rein to your desires, and you become uncomfortably confined. It is not a very agreeable place to live, this world of ours.

漱石の『坊っちゃん」などの作品の英訳を手掛けた英国のアラン・ターニー(1938-2006)は『草枕』を直訳せず "Three Cornered World" 題して訳しているが「文字通りの意味は The Grass Pillow であり、日本の詩歌で旅を表す一般的な表現である。この表題を文字通りに訳しても、英語圏の読者には含意が伝わらないであろうから、私がこの作品の核心を表していると思うフレーズを本文から抜粋した方がよいと思った」と書いている。流れるような素晴らしい英訳で、流石、オンライン翻訳は遠く及ばない。