2018年11月26日

ロバート・メイプルソープとパティ・スミス

Patti Smith ©1976 Robert Mapplethorpe

Robert Mapplethorpe & Patti Smith 1969
ロバート・メイプルソープの写真展が東京都庭園美術館で開催されたのは1992年だった。翌年春に、滋賀県立近代美術館に巡回されたが、写真に興味を持っていなかった人たち、特に若い女性が押し寄せたことを憶えている。展示枚数が多く、パティ・スミスのこのヌード写真に関しては、朧げにしか記憶にない。というのはスミスについてはよく知らず、後でその音楽を知ったからではないかと思う。彼女の自叙伝『ジャスト・キッズ』を読んだのは2012年の暮れだった。当時、湯山玲子が書いたブックレビューによると、「パティ。僕らみたいに世界を見る奴なんて、誰もいないんだよ」とメイプルソープは幾度となくスミスに語ったという。写真は二人の関係を彷彿とさせる。それは現実を直視する視線があるからだ。思えば1970年代はエキサイティングで面白かった。奇しくもザ・バンドが解散コンサート「ラストワルツ」を開催したのも1976年だった。以来、私はポップ音楽を聴かなくなり、ルーツ音楽、つまり伝承音楽のみになり、今日に至っている。音楽が現実社会と遊離してしまった感があるからだ。写真も同じだった。1970年代にピークを迎え、その後は勢いを失ったと私は思うのである。いつの頃か、ピンホール写真を撮り始めたが、それはディテイルを見ることの拒否作用でもあった。コンテンポラリー絵画主義写真と名付けてもいいが、写真が持つリアリティの放棄であるのはいうまでもない。つまり「芸術」という心地よい形容詞に酔った、現実逃避であったような気もする。ところが最近になってストレート写真へ回帰した。伏線として、現実を直視する写真を撮りたくなったからである。メイプルソープはパティ・スミスの恋人だったが、LGBT でもあった。エイズに感染、死を覚悟した彼は、うつろう自分自身の表情を撮り始めた。まさに現実を直視したのである。

2018年11月24日

ボブ・ディランがオートハープを弾いている

Bob Dylan with Mimi and Dick Fariña, 1964. Photo by ©Barry Feinstein

Poster for Bob Dylan at Gerde's Folk City 1961
1964年。フォーク歌手ジョーン・バエズ(1941-)のコンサートの楽屋でボブ・ディラン(1941-)がハモニカを吹きながら、オートハープを弾いている。真ん中の女性はバエズの妹、ミミ(1945–2001)で、右はその夫のディック・ファリーニャ(1937-1966)である。ファリーニャはキューバ人の父とアイルランド人の母の間に、ニューヨークのブルックリンで生まれた。コーネル大学卒業後、詩人やフォーシンガーたちが集まった、グリニッチ・ヴィレッジの居酒屋「ホワイト・ホース・タバーン」に足繁く通い、そこでキャロライン・へスターと(1937-)と出会い、わずか18日後に結婚した。へスターはフォークリバイバル運動の拠点となった、ニューヨークの「ガーズ・フォーク・シティ」の立ち上げに加わったひとりだった。その当時、ケンタッキー州カンバーランドの大学を卒業して、ニューヨークでソーシャルワーカーの仕事をしていた、ジーン・リッチー(1922-2015)と親交を持つ。都会に生まれ育ったディックにとっては、アパラチアに伝承されたバラッドを歌うリッチーとの付き合いは、非常に有益だったようだ。彼女からダルシマーの手ほどきを受けた可能性もある。
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Dick Fariña & Eric Von Schmidt (1963)
ところがファリーニャは1962年の春、フランスのシャルトル大聖堂で17歳のミミと出会う。そして翌年の春、ふたりはパリで密かに結婚するのである。1963年1月、ファリーニャはエリック・フォン・シュミット(1931–2007)とロンドンのドーベル・レコード店で録音したが、ボブ・ディランがブラインド・ボーイ・グラントの名をかたってバックアップ・ヴォーカルとハモニカで参加している。ジャグバンド、ブルース、そしてアパラチアの伝承音楽などに根ざした選曲の LP アルバムで、その年にリリースされたが、今ではいわば幻の名盤となっている。1966年にファリーニャがオートバイ事故で他界する。残されたミミはサンフランシスコに移り、歌手、ソングライター、モデル、女優、運動家として活躍する。そして1974年に非営利団体「パンと薔薇」を組織、ピート・シーガーやポール・ウィンター、タジ・マハル、ジュディ・コリンズ、オデッタ、リリー・トムリン、カルロス・サンタナなどの協力を得て、500以上のコンサートを開催した。ところでディランのオートハープだが、デビュー当時の音楽活動はフォークリバイバル運動と不可分の関係だったので、ディック・ファリーニャとの友だち付き合いも自然だし、アパラチアの人々が使ってきた楽器に興味を抱いていただろう、ということは容易に理解できる。そして実はマルチプレーヤーでもあることが知られている。ビューグルやコンガ、キーボードなど、18種類の楽器をこなす才人だ。その多才ぶりに関しては下記リンク先に詳しく解説されている。

WWW The Instruments of Bob Dylan (18 Instruments) – A Great Talent (Need Some Fun)

2018年11月23日

2015年「日韓合意」は真の意味での合意だったのだろうか

共同会見に臨んだ岸田文雄元外務大臣と尹炳世元外交部長官(2015年12月28日)

済州島で10月11日、国際観艦式が開催されたが、韓国は各国に「自国と韓国の国旗のみ」を掲揚するよう求めていた。これに対し日本は反発、軋轢が生じたまま折り合いがつかず、艦艇派遣を見送ってしまった。しかしこれは日本の反応を読み越した上の参加拒否だったと言える。そして同月30日、韓国の最高裁にあたる大法院は、徴用工訴訟差し戻し審で新日本製鉄(現新日鉄住金)に対し、韓国人4人へ1人あたり1億ウォン(約1000万円)の損害賠償を命じた。さらに今月21日、日本政府が出資した10億円をもとに、元慰安婦への支援事業を行ってきた「和解・癒やし財団」の解散を発表した。矢継ぎ早の攻勢に、日本政府は強く反発、日韓関係は泥沼状態になっている。2015年末の日韓外相会談で結ばれた「慰安婦問題日韓合意」だが、両国間で公式な文書を交わすことは行われず、共同記者会見を開いて発表するという形式で行った。少女像について韓国の尹炳世元外相は、会見で「韓国政府は、日本政府が在韓国日本大使館前の少女像に対し、公館の安寧・威厳の維持の観点から懸念していることを認知し、韓国政府としても、可能な対応方向について関連団体との協議を行う等を通じて、適切に解決されるよう努力する」と発表したのみで、撤去を約束したわけではない。極めて曖昧で、真の意味での合意と言えるだろうか。問題をこじらせているのは「日韓合意」という呪文ではないだろうか。

WWW 外務省:日韓両外相共同記者発表(日本語・英語・韓国語)2015年12月28日

2018年11月19日

上七軒のお茶屋「吉田家」の切ない思い出

勝恵美(北野天満宮)1995年4月

第67回北野をどり(クリックで拡大)
上七軒の「茶ろん」にふらりと立ち寄った。歌舞練場の中庭に面する一角に喫茶室として佇んでいる。上七軒は北野天満宮の東側に軒を並べる小さな花街だが、懐かしくも切ない思い出がある。京都には祇園甲部、先斗町、上七軒、宮川町、祇園東の五つの花街があるが、このうち歴史的に一番古いのが上七軒である。かれこれ35年も前になるだろうか。こじんまりしたたたずまいに惹かれた私は、大正時代、同じ舞妓同士だった仲の祇園甲部の女将に紹介してもらい、上七軒のお茶屋「吉田家(よしだや)」に通うようになった。その当時は「おっきいおかあさん」こと大女将の吉田悦子さん、そして「ちっちゃいおかあさん」こと娘の泰子(ひろこ)さんが切り盛りをしていた。上七軒は戦後舞妓が途絶えたが、泰子さんがその復活一番バッターになった。舞妓を卒業したあと、東京新橋の「金田中」に修行に出た。新橋演舞場のすぐ横にあるが、佐藤栄作元首相がここで倒れて有名になった料亭である。大女将の悦子さん自身も昔は舞妓だったが「ウチは舞妓極道どす」というくらい舞妓好きであった。

福鶴と勝喜代さん(1997年4月)
そして待望の舞妓を生み出したのである。それが勝悠喜(かつゆき)さんだった。泰子さんには子どもがなく、この勝悠喜さんを養女にして、将来の女将にするつもりだったようだ。しかしそれは夢のまま終わることになる。2001年の春ごろ吉田家は店仕舞いをした。泰子さんの健康状態が悪化したためだった。その前年の12月、私は「イスタンブル素描」という個展を開いたが、唯ひとりプリントを購入してくれたのが彼女だった。翌秋になって泰子さんは他界した。脳腫瘍だった。数年後、母親の悦子さんもこの世を去った。そして祇園、先斗町、上七軒と流転した、私のお茶屋遊びに終止符が打たれたのである。吉田家は医師・藤村直樹さんの斡旋で売却され、現在は豆腐料理店になっているが、お茶屋の趣はそのまま残っている。ふたりを看取っ藤村直樹さんもこの世にいない。亡き人といえば、勝喜代(かつきよ)姐さんも懐かしい。80歳代後半に至るまで踊り続けた、京都では最高齢の現役芸妓だったが、2016年に他界した。来年3月25日から「北野をどり」が始まる。鬼に笑われそうだが、観覧しようかなと思っている。