2024年8月9日

長崎に原子爆弾「ファットマン」を投下した爆撃機ボックスカー

Bockscar
原子爆弾を投下した爆撃機ボックスカー(国立アメリカ空軍博物館

広島に原子爆弾を投下した爆撃機「エノラ・ゲイ」は多くの人が知っているが、長崎に投下したボーイングB-29スーパーフォートレス「ボックスカー」の名前を聞いたことがある人は少ないかもしれない。航空ニュースサイトのシンプル・フライングの「日本に原爆を落としたもう1機のアメリカ空軍B-29の物語」を参考に、ボックスカーによる長崎の原爆投下を詳述してみよう。1938年、ドイツの化学者オットー・ハーンとフリッツ・シュトラスマンは、原子核を2つ以上の小さな粒子に分割する方法を発見した。このプロセスは「核融合」と呼ばれている。ナチスが核兵器を開発することを懸念したハンガリーの物理学者レオ・シラードらは、1939年の夏にフランクリン・D・ルーズベルト大統領に手紙を書き、ドイツが原子爆弾の開発を試みている可能性があると警告した。この手紙にはアルベルト・アインシュタインの署名も入っ​ており、警告に重みと緊急性が加った。科学者の手紙を真剣に受け止めたにもかかわらず、原子爆弾の開発作業はゆっくりとしたスタートとなり、1942年まで本格的には開始されなかった。1942年11月25日、ニューメキシコ州アルバカーキ近郊のロス・アラモスの土地が購入され、アメリカの物理学者ロバート・オッペンハイマーが秘密プロジェクトの責任者となった。1943年までにダシール・ハメットの推理小説『薄汚い男』の登場人物「痩せた男」「ファットマン」「リトルボーイ」にちなんで名付けられた3つの爆弾の開発作業が開始された。1945年7月16日の朝、実験は成功し、衝撃波は100マイル以上離れた場所でも感じられた。軍は言い訳として、弾薬庫が爆発したと発表した。

Fat Man Plutonium Bomb Being Readied at Tinian

1945年、連合国の指導者であるウィンストン・チャーチル、ハリー・S・トルーマン、ヨシフ・スターリンはソ連占領地域となったポツダムで会談し、ドイツをはじめとしたヨーロッパおよび中東の戦後処理を協議した。会談中の7月26日に彼らはポツダム宣言を発し、日本の即時降伏を要求した。ロス・アラモスでマンハッタン計画が進行中だったのと同時期に、アメリカ陸軍航空隊はB-29スーパーフォートレス爆撃機を改造して、原子爆弾を配備できるようにしていたのである。1945年7月、爆撃機1機がグアンからマリアナ諸島のテニアン島の飛行場に飛んだ。テニアン島からB-25爆撃機エノラ・ゲイは演習飛行を行い、神戸と名古屋を標的にカボチャ型ファットマンの非原子爆弾レプリカを投下した。1945年8月6日の朝、エノラ・ゲイはテニアン島を離陸し、6時間の飛行の後、広島上空の高度31,060フィートから原子爆弾リトルボーイを投下した。爆発と火災により、推定70,000~80,000 人が死亡した。ボックスカーはマンハッタン計画中に製造された15機のシルバープレートB-29のうちの1機であった。原子爆弾1発を搭載するため、爆弾倉間の胴体部分が取り外され、33フィートの爆弾倉が1つ作られた。機体の性能を向上させるため、銃塔と装甲板が取り外されて重量が軽減され、より強力なライトR-3350デュプレックス・サイクロンエンジンが搭載された。このボックスカーは1945年3月19日にアメリカ陸軍航空隊に引き渡され、ユタ州ウェンドーバー陸軍飛行場の基地まで飛行した。1945年6月11日、ウェンドーバーからマリアナ諸島に向けて出発し、5日後にテニアン島に到着した。

Bock's Car Crew

日本に2つ目の原子爆弾を投下する任務には、グレート・アーティスト、ビッグ・スティンク、ボックスカーの3機のB-29が投入された。この任務の主な目標は、兵器工場がある小倉だった。2番目の目標は、三菱重工業の2つの兵器工場がある長崎だった。ファットマンを運ぶために指定された航空機はグレート・アーティストだったが、広島への原爆投下を観測するための計器が装備されていた。2度目の原爆投下任務が突然8月11日から8月9日に変更されたとき、飛行機の準備にかかる時間と悪天候のため、グレート・アーティストの乗組員は、代わりにボックスカーに乗ることになった。1945年8月9日、ボックスカーは現地時間午前3時49分 にテニアン島を離陸し、悪天候のため屋久島上空の新たな集合地点に向かった。3機のB-29が集合する30分前に、パイロットのチャールズ・W・スウィーニー少佐は爆撃高度30,000フィートまで上昇させた。離陸前に、ミッションの指揮官はスウィーニー少佐に集合地点に15分以上滞在しないように指示した。ボックスカーが到着すると、すぐにグレート・アーティストと合流したが、ビッグ・スティンクの姿はなかった。ビッグ・スティンクが現れるのを待ちながら15分以上旋回した後、飛行機の武器担当官と指揮官のフレデリック・アシュワース中佐はスウィーニーに目標に向かう必要があると伝えた。ボックスカーが小倉に到着した時には、前回の焼夷弾攻撃による煙で目標をはっきりと見ることは不可能だった。爆撃演習の後、日本軍の対空砲火が近づいてきたため、第二目標の長崎に方向転換する決定が下された。ボックスカーはファットマンを現地時間午前10時58分に投下し、43秒後に爆発するのを見た。爆弾は目標から1.5マイル外れたが、それでも広い地域を破壊し、推定35,000人が死亡した。

Nuclea Weapon 長崎に原爆投下した爆撃機 B-29 ボックスカーの飛行経路(1945年8月9日)アトミックアーカイブ

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