アルタミラの洞窟壁画、あるいは高松塚古墳の壁画など、絵画の世界は太古からカラーだ。ふと思うことだが写真や映画、テレビはモノクロから始まっている。もし写真術の発明がカラーだったら、絵画における水墨画のように、果たしてモノクロの写真を人は作っただろうか。気まぐれで色彩情報を廃棄した写真を作ることがあったかもしれない。しかし、今、写真史に残ってるような傑作が生まれたか疑問である。手掛ける人は減ったかもしれないが、モノクロ写真には捨てがたい魅力がある。ところで、カラーの水彩画を描く場合と、水墨画を描く場合、その方法論はまった違う。それでは、写真家はカラーとモノクロをどれだけ意識して使い分けているのだろうか。これは極めて興味ある課題だ。これはカラー向きの被写体だ、といった言い方をときどき耳にする。これは一瞬ナルホドと思うが、冷静に考えてみると、これはちょっとオカシイかもしれない。どんな色をしているかという情報を必要とする被写体にのみの場合であろうけど、不思議なことに、その必要を感じた経験を思い出せない。色彩にはさまざまな情報が含まれている。色彩から人間はさまざまなことを感知する。森羅万象、人間が感じ得るあらゆるものが色彩に込められている可能性がある。時にそれは危険信号となって、生命破たんを回避してくれる。あるいは性的なパッションを含め、人間の生命エネルギーの横溢を感じさせてくれる。食への欲求を促進し、生命維持のエンジンの役割を果たしてくれる。
いわば色彩は、人間の視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚、つまり五感すべてに関与していると言っても過言ではないだろう。にも関わらず、多くの場合、モノクロ写真に大きな情報の欠落を感じないのは何故だろうか。新聞に掲載された小さな顔写真。人はそれを見て、それが誰かを識別する。何故なのだろうか。色彩がない二次元の映像から、人間はそのパターンやその他の情報を汲み取る。単なる影でさえ、人間はたくましく想像を張り巡らすのである。この先は大脳生理学者が解説してくれるだろうけど、おそらく、人間はその経験によって欠落情報を補填する能力を持っていると私は想像している。私が好きな写真家、石内都は著書『モノクローム』(筑摩書房)の中でこんな記述をしている。「色彩は自然の摂理であり、疑う余地のない現実の世界。そのすべての色彩をモノクロームのフィルムは、光と影の明暗だけに置きかえる。(途中略)いかなる色彩もモノクロームにあっては、黒と白に近づく為だけに用意されている」云々。これである。現実を写し取るのが写真の役割のひとつだが、眼前にあるモノを写し変える作為が写真にはある、と彼女は言う。そうなのである。現実を大脳が想起させつつ、さらにモノトーン化した画像から人間は、さらなるもうひとつの世界を嗅ぎ取るのである。なおデジタル時代になって久しいが、未だに、いや今だからこそモノクロに固執する写真家は少なくない。以下はその要望に応えたモノクローム専用最高峰デバイス、ライカ M11 モノクロームの製品仕様である。
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