2023年6月10日

セイラム魔女裁判の謎

Folkways Records – FH 5211
Early New England Ballads Collected and Sung by John Allison

これはフォークウェイズレコードが1962年にリリースした、フォーク歌手ジョン・アリソンの "Witches and War-Whoops"(魔女と鬨の声)のジャケット写真で、アメリカ合衆国マサチューセッツ州セイラム村(現在のダンバース)で、1692年3月1日に始まったセイラム魔女裁判をテーマにした LP アルバムである。いささかショッキングなイラストだが、村人が魔女として告発され、その絞首刑の様子が描かれている。この裁判についてウィキペディア日本語版は「植民地時代アメリカにおける集団パニックの最も深刻な事例の一つである。孤立主義、宗教過激主義、虚偽の告発、正当なプロセスの遂行が孕む危険性について、鮮明な警鐘を呼び掛ける題材として、政治的文脈や大衆文学に用いられている。多くの歴史家はセイラム魔女裁判はその後のアメリカの裁判制度に対して非常に強い影響力を及ぼしたと考えている。

Smiling-Witch

歴史家のジョージ・リンカーン・バーは「セイラムの魔女裁判は、神権政治を崩壊させたと評しており、無実とされる人々が次々と告発されて裁判にかけられたその経緯は、集団心理の暴走の例としても引用されることが多い」と説明している。さらにインターネットを徘徊しているうちに、マサチューセッツ州ウォータータウンの歴史家のマリリン・ローチのことを知った。マサチューセッツ州ウェストボローのフィフティ・プラス・アドヴォケート紙の記事 "A Salem witch trial mystery remains"(セイラムの魔女裁判は謎が残る)によると「マサチューセッツ州の歴史作家マリリン・ローチは、セイラム魔女裁判について誰よりも知っているかもしれない。27年間にわたる綿密な調査、執筆、再執筆を経てこのテーマに関する彼女の最初の著書『セイラム魔女裁判』が2002年に出版された。そして2014年には『セイラムの6人の女たち』を上梓した」という。ローチによれば、魔女と疑われた164人が法廷制度に関与し、52人が裁判を受け、30人が有罪となった。30人中19人ははセイラムの大観衆の前で絞首刑に処された。

Examination of a Witch
Tompkins H. Matteson (1813–1884) The Examination of a Witch, 1852

ローチは30人中19人の告発について「当時、荷車いっぱいの木材がバラバラになるのを誰かが目撃したり、目に見えない存在を感じたりしたかもしれない。告発者(魔法にかかった人、あるいは苦しんでいる人)は、魔女とされる他の人たちを告発した。「告発された人の中には家族のいない年配の女性もいたが、家族を持つ男性や女性もいた」「セイラムの想定される魔女と現代の魔女やウィッカンとの間には何の関係もありません」「彼らは誰も自分を魔女だとは思っていませんでした」云々。ローチは、1697年に裁判に対する謝罪として、マサチューセッツ州の一般大衆の間で一定期間の断食が行われたと指摘した。「その後、人々はパニックを悪魔の妄想だとみなしました。1711年、数回の請願の後、有罪判決を受けた者のうち22人の有罪評決が取り消されたが、有罪判決を受けた全員の名前が請願書に記載されていたわけではない。

Smiling-Witch

そして「1712年に裁判の結果被害を受けた人々に賠償金が支払われた」とローチは語っている。魔女裁判は、アメリカ史の中で奇妙で悲しい足跡を残している。「2001年にジェーン・スウィフト知事は残った名前を復元する法案を可決した。残念ながら、それはハロウィンの日に行われました」とローチ。彼女の研究は続いている。ローチは今、魔女裁判に参加した6人の男についての本を書いている。残念なことに、解明できていない情報がひとつある。絞首刑執行人は誰だったのだろうかという、極めて素朴な疑問である。「絞首刑の前に報酬が支払われたに違いない。請求書が見つからないんです。でも、彼がタバコを吸っていたことは知っています。1692年にサミュエル・ウォードウェルが絞首刑になったとき、彼は最後の言葉を言おうとしたときに、絞首刑の煙で喉を詰まらせた。首吊り師の名前が見つかればいいのですが」と嘆息しているようだ。

university  Solving the Mystery of the Salem Witch Trials Overview | The University of North Carolina

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