2026年8月10日

グラフ誌『ライフ』で活躍した六人の先駆的な女性報道写真家たち

マーガレット・バーク=ホワイト(1904-1971)

Women holding rakes
Women holding rakes, Suburb of Moscow, Soviet Union, 1941

コロンビア大学在学中に写真家として活動し、1927年にクリーブランドに自身の写真スタジオを開設した。2年後、ヘンリー・ルースは彼女を『フォーチュン』誌の写真撮影担当として雇い、 1936年には『ライフ』誌 の最初の4人の専属写真家の1人として迎え入れた。 バーク=ホワイトが1936年の同誌創刊号のために最初に手がけた仕事は、モンタナ州フォート・ペックで建設中の世界最大の土堰堤を撮影することだった。建設中のダムを捉えた彼女の形式的に印象的な写真は有名になったが、建設作業員の家族や地元のナイトライフを写した写真は、大規模な公共事業に人間味を与えた。

マリー・ハンセン(1918-1969)

exercises
The exercises are designed to foster flexibility and endurance, 1942

彼女は、『ライフ』誌に研究員として入社、1942年に専属写真家となった。ドワイト・D・アイゼンハワーをはじめとする数多くのハリウッドスターや政治家を撮影し、アイゼンハワーはハンセンが撮影した自身の写真を公式肖像写真に選んだ。本展では、新たに結成された女子陸軍補助部隊(WAAC)と、アイオワ州デモインの訓練センターに集まった新兵たちを描いたハンセンの写真エッセイが展示されている。ハンセンの作品は、アメリカ人が制服を着た女性を見ることに慣れるのに役立った。戦争中、15万人の女性が入隊し、数千人が派遣された。

マーサ・ホームズ (1923-2006)

 Barbara Pettit
The Princeton tiger gets expert instruction from Barbara Pettit, 1949

1944年に『ライフ』誌で写真家としてのキャリアをスタートさせ、ローレン・バコール、ハンフリー・ボガート、ジュディ・ガーランドといったハリウッドスターの親密なポートレートを撮影することに長けていた。展覧会では、ホームズが1950年に撮影した混血歌手ビリー・エクスタインの写真が展示されている。その中には、白人のファンに抱きしめられているエクスタインの写真も含まれている。ホームズはこの挑発的な写真について、「世界がどうあるべきかをまさに物語っている」と感じ、自身の最高傑作の一つだと考えていた。ルースは彼女に「掲載しなさい」と言った。この話は世間から激しい非難の手紙を集め、その余波はエクスタインのキャリアに打撃を与えた。

リサ・ラーセン(1922-1959)

Marcantonio's
Crowd of people gathers for politician Vito Marcantonio's funeral, New York, 1954

水晶の夜事件後の1938年にナチス・ドイツから逃れ、アメリカに移住。そこで 『グラマー』 『ヴォーグ』 『パレード』『 ニューヨーク・タイムズ』などの主要出版物で写真家として活躍した。 『ライフ』誌は1944年から彼女の写真を掲載し始め、1948年までにはほぼ同誌専属となり、ジョン・F・ケネディとジャクリーン・ブーヴィエの結婚式などの撮影も手がけた。冷戦が激化していた1956年、『ライフ』誌 はラーセンを派遣し、ソ連共産党書記長ニキータ・フルシチョフの招待でユーゴスラビア大統領ヨシップ・ブロズ(チトーとして知られる)のクレムリン訪問を取材させた。

ニーナ・リーン (1909-1995)

>Models
Models posed a race track betting window at Roosevelt Raceway., New York

1939年にニューヨークに移住するまでヨーロッパで暮らした。 彼女の作品は1940年に初めて『ライフ』誌に掲載され、1972年に同誌が廃刊になるまで撮影を続けた。ファッションから野生動物まで、あらゆるものを捉えたリーンの写真は 、約30年ていたわたりライフ 誌に数千点掲載された。本展で展示されているリーンの1947年の「アメリカ人女性のジレンマ」の写真は、母親業と家事に関わる女性たちの厳しい選択肢を提示しており、戦後における女性の選択肢を制限しようとする明確な試みであった。

ハンセル・ミース(1909-1998)

nisei
Japanese-Americans participating in a flag saluting ceremony at relocation center

後に夫となるオットー・ハーゲルと共にヨーロッパを旅行する際に、男装するために名前を変えた。ミースは1930年にハーゲルと共にアメリカに渡り、1937年に『ライフ』誌に採用され 、その後7年間、社会派フォトエッセイを制作した。彼女が1938年に制作した国際婦人服労働組合に関するフォトエッセイが展示された。エッセイには夏の合宿の様子などが含まれており、大恐慌時代の労働組合活動に対する共感的な視点を示している。

LIFE

1936年から1972年にかけて、写真家たちはフォトジャーナリズムの変革に貢献し、雑誌を通して「アメリカの世紀」を世界に発信した。『ライフ』誌は、女性写真家たちに安定した収入と第二次世界大戦後のアメリカを記録する仕事を提供することで、自らのキャリアを主体的に築く機会を与えた。これらの女性の中には六人の先駆的な写真家がいた。彼女たちは、1930年代後半から1970年代初頭にかけて『ライフ』誌に専属写真家として雇用された女性たちである。同誌の創刊者であり編集長を務めたヘンリー・R・ルース(1898-1967)は、長年グリニッジに住み、アメリカの政治、経済、文化の力が、彼が「アメリカの世紀」と定義した時代を支配するだろうし、またそうあるべきだと確信していた。写真報道、あるいは彼が「フォトエッセイ」と名付けたこれらの媒体は、国際的な大国としてのアメリカの真のアメリカ的ビジョンを効果的に形作り、ルースの言葉を借りれば、国民に「活力と熱意をもって生き、働き、戦う」よう鼓舞することができる。数十年にわたり、アメリカ人は 『ライフ』誌の写真家たちのレンズを通して世界を見てきた。ライフ誌は、文章ではなく写真で物語を伝えるアメリカ初の雑誌だった。これらの革新的な「フォトエッセイ」は、同誌のトレードマークとなった。

LIFE  LIFE Magazine's visual record of 20th century by exploring the most iconic photographs

2026年8月9日

若くして自死した写真家フランチェスカ・ウッドマンの脆くも美しい作品たち

Second Space
Second Space, Providence, Rhode Island, 1976
 Francesca Woodman

フランチェスカ・ウッドマンは1958年4月3日、コロラド州デンバーで、芸術家のジョージ・ウッドマンとベティ・ウッドマン(旧姓エイブラハムズ)の間に生まれた。母親はユダヤ人で、父親はプロテスタントの出身だった。兄のチャールズは後に電子芸術の准教授になった。ウッドマンは13歳で初めて自画像を撮影し、亡くなるまで自画像を撮り続けた。彼女は1963年から1971年までコロラド州ボルダーの公立学校に通ったが、2年生の時にイタリアに学校に通った。家族が学年の合間にイタリアで多くの夏を過ごしたかあらだ。1972年にマサチューセッツ州の私立寄宿学校であるアボット・アカデミーで高校に入学。そこで写真の技術を磨き始め、写真という芸術形式に興味を持つようになった。アボット・アカデミーは1973年にフィリップス・アカデミーと合併し、ウッドマンは1974年に高校を卒業するためにコロラド州に戻り、1975年にボルダー高校を卒業した。1975年まで、彼女は家族とともにイタリアのフィレンツェ郊外で夏を過ごした。家族は古い農場に住んでいた。1975年から、ウッドマンはロードアイランド州プロビデンスにあるRISD(ロードアイランド・スクール・オブ・デザイン)に通い始めた。1977年から1978年にかけて、RISDの優等生プログラムでローマに留学した。イタリア語が堪能だったため、イタリアの知識人や芸術家と親交を深めることができた。1978年後半にロードアイランドに戻り、RISDを卒業した。

House #3
House #3, Providence, Rhode Island, 1976

彼女は1979年にニューヨーク市に移住した。1979年の夏をワシントン州スタンウッドでピルチャック・グラス・スクールにいるボーイフレンドを訪ねて過ごした後、ニューヨークに戻り「写真家としてキャリアを築くことを決意した。彼女は自分の作品集をファッション写真家に送ったが彼女の働きかけはどこにも繋がらなかった。1980年の夏には、ニューハンプシャー州ピーターバラのマクダウェル・コロニーでアーティスト・イン・レジデンスを務めた。

Self-portrait
Self-portrait with Fireplace Mantle, 1974

1980年後半、ウッドマンは作品が注目を集めなかったことと、破局した人間関係のために鬱状態に陥ってしまう。1980年秋に自殺未遂を起こしたが一命を取り留め、その後マンハッタンの両親と暮らした。1981年1月19日、ウッドマンはニューヨーク市イーストサイドの建物のロフトの窓から飛び降りて死去、22歳だった。知人は「状況は悪く、セラピーを受けて状況は良くなったが、警戒心が緩んでいた」と書いている。彼女の父親は、ウッドマンの自殺は全米芸術基金への助成金申請が不採択になったことに関係していると示唆している。

Being an Angel
Being an Angel #1, Providence, Rhode Island, 1977

彼女の写真に対する反応の鈍さと破綻した恋愛関係が彼女を深い鬱状態に陥らせたのである。彼女の写真の多くは、裸または服を着た女性を写しており、動きや長時間露光のためにぼやけていたり、周囲の景色に溶け込んでいたり、顔が隠されていたりする。ウッドマンはキャリアを通じてさまざまなカメラやフィルムフォーマットを使用していたが、彼女の写真のほとんどは 中判の二眼レフカメラで撮影された。ウッドマンは少なくとも10,000コマのネガを作成し、両親が保管していた。

Rome, Italy,
Untitled, Rome, Italy, 1977-1978

ウッドマンの両親が管理していたウッドマンの遺産は800枚以上のプリントからなり、2006年時点で出版または展示されていたのは約120枚だけだった。ウッドマンのプリントのほとんどは8×10インチ以下で「鑑賞者と写真の間に親密な体験を生み出す」ように作られている。作品の多くはタイトルがなく、場所と日付しか分かっていない。彼女はしばしば屋内で写真を撮り、廃墟や荒れ果てた空間を見つけて写真作品を制作した。亡くなってから何年も経った今でも、彼女の作品は多くの肯定的な批評家の注目を集め続けている。下記リンク先はフランチェスカの作品がアーカイブされているウッドマン・ファミリー財団のウェブサイトです。

女性写真家  Francesca Woodman (1958-1981) | Work | Biography | Exhibitions | Public | Bibliograph

2026年8月8日

写真術における偉大なる達人たち

New Mothers
Sally Mann (born 1951) The New Mothers, Lexington, Virginia, 1989

2021年の秋以来、思いつくまま世界の写真界20~21世紀の達人たちの紹介記事を拙ブログに綴ってきましたが、2026年8月9日現在のリストです。右端の()内はそれぞれ写真家の生年・没年です。左端の年月日をクリックするとそれぞれの掲載ページが開きます。

21/10/06多くの人々に感動を与えたアフリカ系アメリカ人写真家ゴードン・パークスの足跡(1912–2006)
21/10/08グループ f/64 のメンバーだった写真家イモージン・カニンガムは化学を専攻した(1883–1976)
21/10/10圧倒的な才能を持ち現代アメリカの芸術写真を牽引したポール・ストランド(1890–1976)
21/10/11何気ない虚ろなアメリカを旅したスイス生まれの写真家ロバート・フランク(1924–2019)
21/10/13作為を排した新客観主義に触発されたストリート写真の達人ロベール・ドアノー(1912–1994)
21/10/16大恐慌時に農村や小さな町の生活窮状をドキュメントした写真家ラッセル・リー(1903–1986)
21/10/17日記に最後の晩餐という言葉を残して自死した写真家ダイアン・アーバスの黙示録(1923–1971)
21/10/19フォトジャーナリズムの手法を芸術の域に高めた写真家ユージン・スミスの視線(1918–1978)
21/10/24時代の風潮に左右されず独自の芸術観を持ち続けたプラハの詩人ヨゼフ・スデック(1896-1976)
21/10/27西欧美術を米国に紹介した写真家アルフレッド・スティーグリッツの功績(1864–1946)
21/11/01美しいパリを撮影していたウジェーヌ・アジェを「発見」したベレニス・アボット(1898–1991)
21/11/08近代ストレート写真を先導した 20 世紀の写真界の巨匠エドワード・ウェストン(1886–1958)
21/11/10芸術を通じて社会や政治に影響を与えることを目指した写真家アンセル・アダムス(1902–1984)
21/11/13大恐慌を記録したウォーカー・エヴァンスの被写体はその土地固有の様式だった(1903–1975)
21/11/16写真少年ジャック=アンリ・ラルティーグは個展を開いた 69 歳まで無名だった(1894–1986)
21/11/20ハンガリー出身の世界で最も偉大な戦争写真家ロバート・キャパの短い人生(1913–1954)
21/11/25児童労働の惨状を訴えるため現実を正確に捉えた写真家ルイス・ハインの偉業(1874–1940)
21/12/01マグナム・フォトを設立した写真家アンリ・カルティエ=ブレッソンの決定的瞬間(1908–2004)
21/12/06犬を人間のいくつかの性質を持っているとして愛撮したエリオット・アーウィット(1928-2023)
21/12/08リチャード・アヴェドンの洗練され権威ある感覚をもたらしたポートレート写真(1923–2004)
21/12/12デザインと産業の統合に集中したバウハウスの写真家ラースロー・モホリ=ナジ(1923–1928)
21/12/17ダダイズムとシュルレアリスムに跨る写真を制作したマン・レイは革新者だった(1890–1976)
21/12/29フォトジャーナリズムに傾倒したアラ・ギュレルの失われたイスタンブル写真素描(1928–2018)
22/01/10ペルーのスタジオをヒントに自然光に拘ったアーヴィング・ペンの鮮明な写真(1917-2009)
22/02/25非現実的なほど歪曲し抽象的な遠近感を生み出した写真家ビル・ブラントのカメラ(1904–1983)
22/03/09男性ヌードや花を白黒で撮影した異端の写真家ロバート・メイプルソープへの賛歌(1946–1989)
22/03/18ニューヨーク近代美術館で写真展「人間家族」を企画したエドワード・スタイケン(1879–1973)
22/03/24公民権運動の影響を記録したキュメンタリー写真家ブルース・デヴッドソンの慧眼(born 1933)
22/04/21社会的弱者に寄り添いエモーショナルに撮影した写真家メアリー・エレン・マーク(1940-2015)
22/05/20早逝した写真家リンダ・マッカートニーはザ・ビートルズのポールの伴侶だった(1941–1998)
22/06/01大都市に変貌する香港を活写して重要な作品群を作り上げたファン・ホーの視線(1931–2016)
22/06/12肖像写真で社会の断面を浮き彫りにしたドキュメント写真家アウグスト・ザンダー(1876–1964)
22/08/01スペイン内戦取材で26歳という若さに散った女性戦争写真家ゲルダ・タローの生涯 (1910–1937)
22/09/16カラー写真を芸術として追及したジョエル・マイヤーウィッツの手腕(born 1938)
22/09/25死と衰退を意味する作品を手がけた女性写真家サリー・マンの感性(born 1951)
22/10/17北海道の風景に恋したイギリス人写真家マイケル・ケンナのモノクロ写真(born 1951)
22/11/06アメリカ先住民を「失われる前に」記録したエドワード・カーティス(1868–1952)
22/11/16大恐慌の写真 9,000 点以上を制作したマリオン・ポスト・ウォルコット(1910–1990)
22/11/18人間の精神の深さを写真に写しとったアルゼンチン出身のペドロ・ルイス・ラオタ (1934-1986)
22/12/10アメリカの生活と社会的問題を描写した写真家ゲイリー・ウィノグランド(1928–1984)
22/12/16没後に脚光を浴びたヴィヴィアン・マイヤーのストリート写真(1926–2009)
22/12/23写真家集団マグナムに参画した初めての女性報道写真家イヴ・アーノルド(1912-2012)
23/03/25写真家フランク・ラインハートのアメリカ先住民のドラマチックで美しい肖像写真(1861-1928)
23/04/13複雑なタブローを構築するシュールレアリスム写真家サンディ・スコグランド(born 1946)
23/04/21キャラクターから自らを切り離したシンディー・シャーマンの自画像(born 1954)
23/05/01震災前のサンフランシスコを記録した写真家アーノルド・ジェンス(1869–1942)
23/05/03メキシコにおけるフォトジャーナリズムの先駆者マヌエル・ラモス(1874-1945)
23/05/05文学と芸術に没頭し超現実主義絵画に着想を得た台湾を代表する写真家張照堂(1943-2024)
23/05/07家族の緊密なポートレイトで注目を集めた写真家エメット・ゴウィン(born 1941)
23/05/22欲望やジェンダーの境界を無視したクロード・カアンのセルフポートレイト(1894–1954)
23/05/2520世紀初頭のアメリカの都市改革に大きく貢献したジェイコブ・リース(1849-1914)
23/06/05都市の社会風景という視覚的言語を発展させた写真家リー・フリードランダー(born 1934)
23/06/13写真芸術の境界を広げた暗室の錬金術師ジェリー・ユルズマンの神技(1934–2022)
23/06/15強制的に収容所に入れられた日系アメリカ人を撮影したドロシア・ラング(1895–1965)
23/06/20劇的な国際的シンボルとなった「プラハの春」を撮影したヨゼフ・コウデルカ(born 1958)
23/06/24警察無線を傍受できる唯一のニューヨークの写真家だったウィージー(1899–1968)
23/07/03フォトジャーナリズムの父アルフレッド・アイゼンシュタットの視線(1898–1995)
23/07/06ハンガリーの芸術家たちとの交流が反映されたアンドレ・ケルテスの作品(1894-1985)
23/07/08家族が所有する島で野鳥の写真を撮り始めたエリオット・ポーター(1901–1990)
23/07/08戦争と苦しみを衝撃的な力でとらえた報道写真家ドン・マッカラン(born 1935)
23/07/17夜のパリに漂うムードに魅了されていたハンガリー出身の写真家ブラッサイ(1899–1984)
23/07/2020世紀の著名人を撮影した肖像写真家の巨星ユーサフ・カーシュ(1908–2002)
23/07/22メキシコの革命運動に身を捧げた写真家ティナ・モドッティのマルチな才能(1896–1942)
23/07/24ロングアイランド出身のマルクス主義者を自称する写真家ラリー・フィンク(born 1941)
23/08/01アフリカ系アメリカ人の芸術的な肖像写真を制作したコンスエロ・カナガ(1894–1978)
23/08/04ヒトラーの地下壕の写真を世界に初めて公開したウィリアム・ヴァンディバート(1912-1990)
23/08/06タイプライターとカメラを同じように扱った写真家カール・マイダンス(1907–2004)
23/08/08ファッションモデルから戦場フォトャーナリストに転じたリー・ミラーの生涯(1907-1977)
23/08/14ニコンのレンズを世界に知らしめたデイヴィッド・ダグラス・ダンカンの功績(1907-2007)
23/08/18超現実的なインスタレーションアートを創り上げたサンディ・スコグランド(born 1946)
23/08/20シカゴの街角やアメリカ史における重要な瞬間を再現した写真家アート・シェイ(1922–2018)
23/08/22大恐慌時代の FSA プロジェクト 最初の写真家アーサー・ロススタイン(1915-1986)
23/08/25カメラの焦点を自分たちの生活に向けるべきと主張したハリー・キャラハン(1912-1999)
23/09/08イギリスにおけるフォトジャーナリズムの先駆者クルト・ハットン(1893–1960)
23/10/06ロシアにおけるデザインと構成主義創設者だったアレクサンドル・ロトチェンコ(1891–1956)
23/10/18物事の本質に近づくための絶え間ない努力を続けた写真家ウィン・バロック(1902–1975)
23/10/27先見かつ斬新な作品により写真史に大きな影響を与えたウィリアム・クライン(1926–2022)
23/11/09アパートの窓から四季の移り変わりの美しさなどを撮影したルース・オーキン(1921-1985)
23/11/15死や死体の陰翳が纏わりついた写真家ジョエル=ピーター・ウィトキンの作品(born 1939)
23/12/01近代化により消滅する前のパリの建築物や街並みを記録したウジェーヌ・アジェ(1857-1927)
23/12/15同時代で最も有名で最も知られていないストリート写真家のヘレン・レヴィット(1913–2009)
23/12/20哲学者であることも写真家であることも認めなかったジャン・ボードリヤール(1929-2007)
24/01/08音楽や映画など多岐にわたる分野で能力を発揮した写真家ジャック・デラーノ(1914–1997)
24/02/25シチリア出身のイタリア人マグナム写真家フェルディナンド・スキアンナの視座(born 1943)
24/03/21パリで花開いたロシア人ファッション写真家ジョージ・ホイニンゲン=ヒューン(1900–1968)
24/04/04報道写真家として自活することに成功した最初の女性の一人エスター・バブリー(1921-1998)
24/04/20長時間露光により時間の多層性を浮かび上がらせたアレクセイ・ティタレンコ(born 1962)
24/04/2820世紀後半のイタリアで最も重要な写真家ジャンニ・ベレンゴ・ガルディン(born 1930)
24/04/30トルコの古い伝統の記憶を守り続ける女性写真家 F・ディレク・ウヤル(born 1976)
24/05/01ファッション写真に大きな影響を与えたデヴィッド・ザイドナーの短い生涯(1957-1999)
24/05/08社会の鼓動を捉えたいという思いで写真家になったリチャード・サンドラー(born 1946)
24/05/10直接的で妥協がないストリート写真の巨匠レオン・レヴィンシュタイン(1910–1988)
24/05/12自らの作品を視覚的な物語と定義している写真家スティーヴ・マッカリー(born 1950)
24/05/14多様な芸術の影響を受け写真家の視点を形作ったアンドレアス・ファイニンガー(1906-1999)
24/05/16芸術的表現により繊細な目を持つ女性写真家となったマルティーヌ・フランク(1938-2012)
24/05/18ドキュメンタリー写真をモノクロからカラーに舵を切ったマーティン・パー(born 1952)
24/05/21先駆的なグラフ誌『ピクチャー・ポスト』を主導した写真家バート・ハーディ(1913-1995)
24/05/24グラフ誌『ライフ』に30年間投稿し続けたロシア生まれの写真家リナ・リーン(1914-1995)
24/05/27旅する写真家として20世紀後半の歴史に残る象徴的な作品を制作したルネ・ブリ(1933-2014)
24/05/29高速ストロボスコープ写真を開発したハロルド・ユージン・エジャートン(1903-1990)
24/06/03一般市民とそのささやかな瞬間を撮影したオランダの写真家ヘンク・ヨンケル(1912-2002)
24/06/10ラージフォーマット写真のデジタル処理で成功したアンドレアス・グルスキー(born 1955)
24/06/26レンズを通して親密な講釈と被写体の声を伝えてきた韓国出身のユンギ・キム(born 1962)
24/07/05演出されたものではなく現実的なファッション写真を開発したトニ・フリッセル(1907-1988)
24/07/07スウィンギング60年代のイメージ形成に貢献した写真家デイヴィッド・ベイリー(born 1938)
24/07/13著名人からから小さな町の人々まで撮影してきた写真家マイケル・オブライエン(born 1950)
24/07/14人々のドラマが宿る都市のカラー写真を制作したコンスタンティン・マノス(born 1934)
24/08/04写真家集団「マグナム・フォト」所属するただ一人の日本人メンバー久保田博二(born 1939)
24/08/08ロバート・F・ケネディの死を悼む人々を葬儀列車から捉えたポール・フスコ(1930–2020)
24/08/13クリスティーナ・ガルシア・ロデロが話したいのは時間も終わりもない出来事だ(born 1949)
24/08/30ドキュメンタリーと芸術の境界を歩んだカラー写真の先駆者エルンスト・ハース(1921–1986)
24/09/01国際的写真家集団マグナム・フォトの女性写真家スーザン・メイゼラスの視線(born 1948)
24/09/09アパルトヘイトの悪と日常的な社会への影響を記録したアーネスト・コール(1940–1990)
24/09/14宗教的または民俗的な儀式に写真撮影の情熱を注ぎ込んだラモン・マサッツ(1931-2024)
24/09/23アメリカで最も有名な無名の写真家と呼ばれたエヴリン・ホーファー(1922–2009)
24/09/25自身を「大義を求める反逆者」と表現した写真家マージョリー・コリンズ(1912-1985)
24/09/27北海道の小さな町にあった営業写真館を継がず写真芸術の道を歩んだ深瀬昌久(1934-2012)
24/10/01現代アメリカの風変わりで平凡なイメージに焦点を当てた写真家アレック・ソス(born 1969)
24/10/04微妙なテクスチャーの言語を備えた異次元の写真を追及したアーサー・トレス(born 1940)
24/10/06オーストリア系イギリス人のエディス・チューダー=ハートはソ連のスパイだった(1908-1973)
24/10/08映画の撮影監督でもあったドキュメンタリー写真家ヴォルフガング・スシツキー(1912–2016)
24/10/15芸術のレズビアン・サブカルチャーに深く関わった写真家ルース・ベルンハルト(1905–2006)
24/10/19ランド・アートを通じて作品を地球と共同制作するアンディ・ゴールドワージー (born 1956)
24/10/29公民権運動の活動に感銘し刑務所制度の悲惨を描写した写真家ダニー・ライアン (born 1942)
24/11/01人間の状態と現在の出来事を記録するストリート写真家ピータ―・ターンリー (born 1955)
24/11/04写真を通じて現代の社会的状況を改善することに専念したアーロン・シスキンド(1903-1991)
24/11/07自然と植物の成長にインスピレーションを受けた写真家カール・ブロスフェルト(1865-1932)
24/11/09ストリート写真で知られているリゼット・モデルは教える才能を持っていた(1901-1983)
24/11/11カラー写真が芸術として認知されるようになった功労者ウィリアム・エグルストン(born 1939)
24/11/13革命後のメキシコ復興の重要人物だった写真家ローラ・アルバレス・ブラボー(1903-1993)
24/11/15チリの歴史上最も重要な写真家であると考えられているセルヒオ・ララインの視座(1931-2012)
24/11/19イギリスのアンリ・カルティエ=ブレッソンと評されたジェーン・ボウン(1925-2014)
24/11/25カラー写真の先駆者ソール・ライターは戦後写真界の傑出した人物のひとりだった(1923–2013)
24/11/25サム・フォークがニューヨーク・タイムズに寄せた写真は鮮烈な感覚をもたらした(1901-1991)
24/11/29ゲイ解放運動の活動家だったトランスジェンダーの写真家ピーター・ヒュージャー(1934–1987)
24/12/01複数の芸術的才能に恵まれていた華麗なるファッション写真家セシル・ビートン(1904–1980)
24/12/05ライフ誌と空軍で活躍した女性初の戦場写真家マーガレット・バーク=ホワイト(1904–1971)
24/12/07愛と美を鮮明に捉えたロマン派写真家エドゥアール・ブーバの平和への眼差し(1923–1999)
24/12/10保守的な政治体制と対立しながら自由のために写真を手段にしたエヴァ・ペスニョ(1910–2003)
24/12/15自然環境における人間の姿を研究することに関心を寄せた写真家マイケル・ぺト(1908-1970)
24/12/20ベトナム戦争中にナパーム弾攻撃から逃げる子供たちを撮影したニック・ウット(born 1951)
25/01/06記録映画の先駆者であり前衛映画製作者でもあった写真家ラルフ・スタイナー(1899–1986)
25/01/10アメリカ西部を占める文化の多様性を反映した写真家ローラ・ウィルソンの足跡(born 1939)
25/01/15フランスの人文主義写真運動で活躍したスイス系フランス人ザビーネ・ヴァイス(1924–2021)
25/02/03サルバドール・ダリとの共作でシュールな写真を創出したフィリップ・ハルスマン(1906–1979)
25/02/06ベトナム戦争に対する懸念を形にした写真家フィリップ・ジョーンズ・グリフィス(1936-2008)
25/02/18芸術に複数の糸を持っていたシュルレアリスムの写真家エミール・サヴィトリー(1903-1967)
25/03/19シュルレアリスムの先駆的な写真家でピカソのモデルで恋人だったドラ・マール(1907-1997)
25/03/25ホロコースト前の東欧のユダヤ人社会を記録した写真家ローマン・ヴィスニアック(1897-1990)
25/04/01ソーシャルワーカーからライフ誌の専属写真家に転じたウォレス・カークランド(1891–1979)
25/04/04写真家ビル・エプリッジは20世紀で最も優れたフォトジャーナリストの一人だった(1938-2013)
25/04/25ロバート・キャパの弟で総合施設国際写真センターを設立したコーネル・キャパ(1918-2008)
25/05/01激動1960年代の音楽家たちをキャプチャーした写真家エリオット・ランディの慧眼(born 1942)
25/05/23生まれ故郷ブラジルの熱帯雨林アマゾン川流域へのセバスチャン・サルガドの視座(1944-2025)
25/06/22風景への畏敬の念と激動の気象現象への驚異が伝わるミッチ・ドブラウナーの写真(born 1956)
25/07/26ティンタイプ写真でアパラチアの伝承音楽家に焦点を当てたリサ・エルマーレ(born 1984)
25/08/03色彩の卓越した表現を通して写真というジャンルを超越したデビッド・ラシャペル(born 1963)
25/08/20ヨーロッパ解放やコンゴ紛争などでの勇敢な取材で知られるドミトリ・ケッセル(1902–1995)
25/08/25長大吊り橋を撮影したピーター・スタックポールはライフ誌創刊の写真家になった(1913-1997)
25/09/08アパラチアや南東部の農村地帯の人々の肖像写真で知られているドリス・ウルマン(1882-1934)
25/08/25長大吊り橋を撮影したピーター・スタックポールはライフ誌創刊の写真家になった(1913-1997)
25/09/15指導者であり預言者であり歴史家であり学者だった写真家ジョン・ローエンガード(1934-2020)
25/09/17女性を客体ではなく主体として描写した写真家エレン・フォン・アンワースの視線(born 1954)
25/09/22精巧に演出された赤ちゃんたちの愛らしい写真で世界的に評価されるアン・ゲデス(born 1956)
25/09/26エロティックで都会的なスタイルの頂点を極めた写真家ヘルムート・ニュートン(1920-2004)
25/10/06モデルからファッション写真家に転じたスリランカ系英国人ナイジェル・バーカー(born 1972)
25/10/15ヴィクトリア朝イギリスで最も有名な写真家ジュリア・マーガレット・キャメロン(1815-1879)
25/10/17革新的手法を用いたドイツ系ユダヤ人写真家エーリッヒ・ザロモンの悲劇的な運命(1886-1944)
25/10/20地球の環境破壊と気候変動の壊滅的な影響を明瞭に伝える写真家ニック・ブラント(born 1964)
25/10/23政治家や作家など世界の重要人物の精緻な肖像写真を撮影したユーサフ・カーシュ(1908-2002)
25/10/26直面する不正義と対峙するパレスチナ系オランダ人写真家サキル・カデルの眼差し(born 1990)
25/11/12目に見えない鳥の飛行経路を可視化した作品で知られる写真家シャビ・ボウの秘技(born 1979)
25/11/18自身の文化的環境を探求したメキシコを代表する写真家グラシエラ・イトゥルビデ(born 1942)
25/11/25フォトルポルタージュの新たな時代を築いたスペインの写真家ラモン・マサッツ(1931-2024)
25/12/10畏敬の対象となる自然風景および聖なる場所を崇拝した風景写真家リンダ・コナー(born 1944)
25/12/23インド初の女性報道写真家で独立国家への変遷を記録したホマイ・ヴィヤラワラ(1913-2012)
26/01/04モデルから転身した写真家サラ・ムーンの雰囲気により際立った印象派的な作品(born 1941)
26/01/07音楽に合わせた写真「ドリーム・ピクチャーズ」で知られるブランソン・デク―(1892-1941)
26/01/22技術者の客観性と技術的志向を写真撮影に反映させたエミール・ハイルボルン(1900-2003)
26/01/26芸術的側面と社会的な側面の二つの特質を最適に供えた女性写真家アタ・カンドー(1913-2017)
26/03/05戦争や貧困など社会の底辺を記録して世界的な評価を得た写真家ドン・マッカラン(born 1935)
26/03/22カメラで芸術的インスピレーションを追求した写真家リオ・ディジローラモの軌跡(1934–2019)
26/05/05写真界では神童のような存在と見なされた巨匠ハロルド・ファインスタイン (1931-2015)
26/05/22形式と感情の巨匠:ドイツ人写真家トニ・シュナイダース不朽の遺産(1920-2006)
26/06/07スコットランド出身の華麗なるプリントのレジェンド写真家アルバート・ワトソン(born 1942)
26/06/11目撃者であることだけで十分かと自らを問いつめた夭折の報道写真家ジル・カロン(1939-1970)
26/06/23困難な状況下での撮影のための新しいツールを開発した写真家 J・R・アイヤーマン(1906-1985)
26/06/25イメージを通じて抽象的な科学的概念を幅広い層に伝えた写真家フリッツ・ゴロ(1901-1986)
26/07/05フランスにおけるピクトリアリズム運動の主な提唱者だったコンスタン・ピュヨー(born 1979)
26/07/16忘れ去られたものの転生としてのヌード作品を制作する写真家ルスラン・ロバノフ(born 1979)
26/07/21スノードン卿が「イギリスのカルティエ=ブレッソン」称えたジェーン・バウン(1921-2014)
26/07/31ピクトリアリスムからストレート写真に移行する日本の写真界を牽引した野島康三(1889-1964)
26/08/01北海道の小さな町にあった営業写真館を継がず写真芸術の道を歩んだ深瀬昌久(1934-2012)
26/08/04芸術を通して時代の記憶を構築したアルゼンチンを代表する写真家サラ・ファシオ(1932–2024)
26/08/05根源的な問いに向き合う日本を代表するストリート写真のレジェンダリー森山大道(born 1938)
26/08/08時間が日常の物や表面にどのような痕跡を残すのかを探求し続けてきた石内都(born 1947)
26/08/09若くして自死した写真家フランチェスカ・ウッドマンの脆くも美しい作品たち(1958-1981)

子供の頃「明治は遠くなりにけり」という言葉を耳にした記憶がありますが、今まさに「20世紀は遠くなりにけり」の感があります。掲載した作品の大半がモノクロ写真で、カラー写真がわずかのなのは偶然ではないような気がします。20世紀のアートの世界ではモノクロ写真が主流だったからです。しかしデジタルカメラが主流になった21世紀、カラー写真の台頭に目覚ましいものがあります。ジョエル・マイヤーウィッツとサンディ・スコグランド、ジャン・ボードリヤール、 F・ディレク・ウヤル、マーティン・パー、コンスタンティン・マノス、久保田博二、ポール・フスコ、エルンスト・ハース、エヴリン・ホーファー、アレック・ソス、アンディ・ゴールドワージー、ウィリアム・エグルストン、ソール・ライタ、フリッツ・ゴロなどのカラー作品を取り上げました。

photography  Famous Photographers: Great photographs can elicit thoughts, feelings, and emotions.

時間が日常の物や表面にどのような痕跡を残すのかを探求し続けてきた石内都

溺れた者たち
溺れた者たち(2020–22)
石内 都

石内都(いしうちみやこ)は1947年3月27日、群馬県桐生市に生まれた。アメリカ海軍軍基地がある神奈川県横須賀市で育ち、19歳までそこに住んだ。青春時代を横須賀で生活した彼女は「そこで受けた思春期の傷は私に大きな影響を与え、横須賀は私の写真の出発点だったと言えるでしょう」と2021年にアートプラットフォーム 『オキュラ・マガジン』 に語っている。横須賀市立高等学校を卒業後、多摩美術大学デザイン学科に入学し、染織を専攻したが、2年次に退学した。独学で写真技術を習得した石内は、極めて個人的なテーマをカメラを通して表現することが多い。彼女の粒子の粗い作風は、森山大道の作品を彷彿とさせる。森山大道は、東松照明とともに石内を指導し、共同制作も行っていた。1970年代に活躍した数少ない日本人女性写真家の一人である石内は、早くから注目を集め、1979年には権威ある木村伊兵衛記念写真賞を受賞した。1970年代後半に出版された『横須賀物語』は、石内の最初の作品集である。第二次世界大戦後、横須賀はアメリカ海軍の主要基地となった。幼い頃、石内はアメリカ軍の駐留に深く影響を受けた。街は貧しく、特に若い女性にとっては危険な場所だった。基地内の日本人住民とアメリカ人の間には常に緊張関係があった。

横須賀ストーリー
横須賀物語(1976–77)

大人になってから横須賀に戻った石内が撮影したモノクロ写真は、故郷への彼女の暗い感情的な繋がりを反映している。続編となる写真集『再び横須賀』(1980~1990年)では、兵士や売春婦がよく出入りするアメリカ軍支配地域である本町や、ここに掲載されている下士官クラブ(EMクラブ)などの場所に焦点を当てた。横須賀海軍基地のすぐ外にあったこの建物は1990年に取り壊され、彼女の横須賀を撮影するプロジェクトは幕を閉じた。

アパート
アパート(1977–78)

石内は、森山大道や東松照明といった、日本写真界で最も著名な世代の写真家たちと共に写真活動を始めた。彼らは戦後のトラウマと向き合いながら、新たな戦後時代に向けた写真の新たな方向性を模索していた。、横須賀で活動する傍ら、1976年に清水ギャラリーで女性写真家のみによる写真展「百花繚乱」を企画した。1979年には、写真集と写真展『アパート』で木村伊兵衛賞を受賞した。

連夜の街
連夜の街(1978–80)

彼女の作品は、1960年代後半から1970年代にかけて、アレ・ブレ、つまり粒状でぼやけた表現を好んだ多くの写真家の作品に特徴的な、特大の粒状プリントと粗い被写体を好んでいる。彼女は1990年代初頭に、非常に高齢の人々の身体のクローズアップを撮り始めた。最近では、彼女の写真は、肌、衣服、時間といったテーマに取り組んでいる。広島(2008年)では、広島の原爆投下による犠牲者の衣服を撮影した。

手
手 No.1(1994)

フリーダ:愛と痛み(2012年)では、メキシコシティのフリーダ・カーロ美術館から、コルセット、衣服、靴、指輪、櫛、その他のアクセサリー、化粧品、薬など、フリーダ・カーロの私物を撮影するよう依頼された。2014年にはハッセルブラッド賞を受賞、2022年には、スコットランドのエディンバラにあるスティルズ・スタジオで初の個展を開催した。この展覧会では、彼女の以前のシリーズ「母」「広島」「フリーダ」から選りすぐられた写真が展示された。彼女の作品は世界中の主要美術館に収蔵されている。下記リンク先は『アパーチャー』誌デジタル版に掲載された、美術史家で日本の写真家についても詳しいレナ・フリッチュのインタビュー記事「目に見えないものを顕現させる石内都」です。

aperture  Ishiuchi Miyako (1947-) Manifests the Invisible by Lena Fritsch by Lena Fritsch | Aperture

2026年8月7日

長崎に原子爆弾「ファットマン」を投下した爆撃機ボックスカー

Bockscar

広島に原子爆弾を投下した爆撃機「エノラ・ゲイ」は多くの人が知っているが、長崎に投下したボーイングB-29スーパーフォートレス「ボックスカー」の名前を聞いたことがある人は少ないかもしれない。航空ニュースサイトのシンプル・フライングの「日本に原爆を落としたもう1機のアメリカ空軍B-29の物語」を参考に、ボックスカーによる長崎の原爆投下を詳述してみよう。1938年、ドイツの化学者オットー・ハーンとフリッツ・シュトラスマンは、原子核を2つ以上の小さな粒子に分割する方法を発見した。このプロセスは「核融合」と呼ばれている。ナチスが核兵器を開発することを懸念したハンガリーの物理学者レオ・シラードらは、1939年の夏にフランクリン・D・ルーズベルト大統領に手紙を書き、ドイツが原子爆弾の開発を試みている可能性があると警告した。この手紙にはアルベルト・アインシュタインの署名も入っ?ており、警告に重みと緊急性が加った。科学者の手紙を真剣に受け止めたにもかかわらず、原子爆弾の開発作業はゆっくりとしたスタートとなり、1942年まで本格的には開始されなかった。1942年11月25日、ニューメキシコ州アルバカーキ近郊のロス・アラモスの土地が購入され、アメリカの物理学者ロバート・オッペンハイマーが秘密プロジェクトの責任者となった。1943年までにダシール・ハメットの推理小説『薄汚い男』の登場人物「痩せた男」「ファットマン」「リトルボーイ」にちなんで名付けられた3つの爆弾の開発作業が開始された。1945年7月16日の朝、実験は成功し、衝撃波は100マイル以上離れた場所でも感じられた。軍は言い訳として、弾薬庫が爆発したと発表した。

Fat Man Plutonium Bomb Being Readied at Tinian

1945年、連合国の指導者であるウィンストン・チャーチル、ハリー・S・トルーマン、ヨシフ・スターリンはソ連占領地域となったポツダムで会談し、ドイツをはじめとしたヨーロッパおよび中東の戦後処理を協議した。会談中の7月26日に彼らはポツダム宣言を発し、日本の即時降伏を要求した。ロス・アラモスでマンハッタン計画が進行中だったのと同時期に、アメリカ陸軍航空隊はB-29スーパーフォートレス爆撃機を改造して、原子爆弾を配備できるようにしていたのである。1945年7月、爆撃機1機がグアンからマリアナ諸島のテニアン島の飛行場に飛んだ。テニアン島からB-25爆撃機エノラ・ゲイは演習飛行を行い、神戸と名古屋を標的にカボチャ型ファットマンの非原子爆弾レプリカを投下した。1945年8月6日の朝、エノラ・ゲイはテニアン島を離陸し、6時間の飛行の後、広島上空の高度31,060フィートから原子爆弾リトルボーイを投下した。爆発と火災により、推定70,000~80,000 人が死亡した。ボックスカーはマンハッタン計画中に製造された15機のシルバープレートB-29のうちの1機であった。原子爆弾1発を搭載するため、爆弾倉間の胴体部分が取り外され、33フィートの爆弾倉が1つ作られた。機体の性能を向上させるため、銃塔と装甲板が取り外されて重量が軽減され、より強力なライトR-3350デュプレックス・サイクロンエンジンが搭載された。このボックスカーは1945年3月19日にアメリカ陸軍航空隊に引き渡され、ユタ州ウェンドーバー陸軍飛行場の基地まで飛行した。1945年6月11日、ウェンドーバーからマリアナ諸島に向けて出発し、5日後にテニアン島に到着した。

bocks-car-crew

日本に2つ目の原子爆弾を投下する任務には、グレート・アーティスト、ビッグ・スティンク、ボックスカーの3機のB-29が投入された。この任務の主な目標は、兵器工場がある小倉だった。2番目の目標は、三菱重工業の2つの兵器工場がある長崎だった。ファットマンを運ぶために指定された航空機はグレート・アーティストだったが、広島への原爆投下を観測するための計器が装備されていた。2度目の原爆投下任務が突然8月11日から8月9日に変更されたとき、飛行機の準備にかかる時間と悪天候のため、グレート・アーティストの乗組員は、代わりにボックスカーに乗ることになった。1945年8月9日、ボックスカーは現地時間午前3時49分 にテニアン島を離陸し、悪天候のため屋久島上空の新たな集合地点に向かった。3機のB-29が集合する30分前に、パイロットのチャールズ・W・スウィーニー少佐は爆撃高度30,000フィートまで上昇させた。離陸前に、ミッションの指揮官はスウィーニー少佐に集合地点に15分以上滞在しないように指示した。ボックスカーが到着すると、すぐにグレート・アーティストと合流したが、ビッグ・スティンクの姿はなかった。ビッグ・スティンクが現れるのを待ちながら15分以上旋回した後、飛行機の武器担当官と指揮官のフレデリック・アシュワース中佐はスウィーニーに目標に向かう必要があると伝えた。ボックスカーが小倉に到着した時には、前回の焼夷弾攻撃による煙で目標をはっきりと見ることは不可能だった。爆撃演習の後、日本軍の対空砲火が近づいてきたため、第二目標の長崎に方向転換する決定が下された。ボックスカーはファットマンを現地時間午前10時58分に投下し、43秒後に爆発するのを見た。爆弾は目標から1.5マイル外れたが、それでも広い地域を破壊し、推定35,000人が死亡した。

Nuclea Weapon 長崎に原爆投下した爆撃機 B-29 ボックスカーの飛行経路(1945年8月9日)アトミックアーカイブ

2026年8月6日

根源的な問いに向き合う日本を代表するストリート写真のレジェンダリー森山大道

三沢の犬
写真集『狩人』より三沢の犬(青森)1967年
森山 大道

森山大道(もりやまだいどう)は大阪府池田町(現在の池田市)に生まれた。GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)による占領、急速な西洋化、産業化、そして経済成長と、変化を余儀なくされた激動の戦後日本で歳を重ねる。森山は写真を民主的なメディウムとし、日々の現実と日本の伝統と西洋的影響のせめぎ合いをとらえた。ウィリアム・クライン(1926-2022)やアンディ・ウォーホル(1928-1987)といったアメリカのアーティストに触発されながら、森山もまた、活気に満ちた資本主義社会が内包する矛盾を写し出してきた。日本を代表する現代写真の巨匠として数少ない存命の一人である。1960年代の日本の「プロヴォーク」運動の一員として、森山は写真を通して政治的、文化的な対話を生み出そうとした。彼の写真や写真集は、著名なコレクターの間で最も人気がある。大阪では写真家岩宮武二(1920–1989)のスタジオで働いた後、1961年に東京に移り住んだ。 東京では写真家の細江英公(1933-2024)のアシスタントとして働き、故郷の忘れられた地域や暗い側面を描いた自身の写真集を制作した。その後まもなく、日本写真評論家協会から新人賞を受賞た。これは生涯にわたる数々の賞の最初のものである。森山の初期の写真の多くは、ほぼ写真だけで構成された3つの雑誌を発行したグループの「プロヴォーク」の影響を受けている。

アクシデント
写真集『アクシデント』シリーズより(東京)1969年

森山は、政治的な目的に加えて「ざらざらしていて、ぼやけていて、ピントが合っていない」イメージに対する日本的な美学を確立し、実験的なイメージ制作の伝統を受け入れ、当時の文化が推進していた技術的な精密さに反抗するようになった雑誌の第2号からこの運動に参加した。森山の作品は主にモノクロであり、ざらざらした美学は戦後の社会構造の不安定化に対する彼の感情を強く反映している。彼の作品は主に実験としての写真の使用に関するものである。彼の写真は、記録と可能性、事実とフィクションの領域の間を漂っている。

雑誌『プロヴォーク』第3号より
雑誌『プロヴォーク』第3号より(東京)1969年

彼の初期の作品は、第二次世界大戦後の日本のアメリカ占領中とその後の生活を捉えている。特に、工業化の影響と、急速に変化する都市に取り残された地域があるという結果としての都市生活の変化。 森山はさまざまなアーティストから影響を受けたが、アンディ・ウォーホルが最も重要な人物かもしれない。森山は1969年、ニューヨークを訪れた際に初めてウォーホルのシルクスクリーンを目にし、そこに写真に不可欠な複製、反復、大量生産の本質を見出した。

写真集『光と影』
写真集『光と影』より(大阪) 1982年

森山自身もシルクスクリーンを制作するようになったが、複製と複写を作品の主要な焦点とし、しばしば街路標識を撮影したり、類似したイメージを複数制作して一つの作品として見せることもあった。このテーマを反映した森山大道の最も象徴的なモチーフは、タイツと唇を写した作品である。これらのゼラチンシルバープリントは、クローズアップと、森山の複製への嗜好、そして街路標識の撮影を組み合わせたものである。どちらのテーマも、日本文化のアメリカ化と、街頭広告におけるエロティシズムの増大を暗示している。

プリティ・ウーマン
写真集『プリティ・ウーマン』シリーズより(東京)2017年

森山は、現実の客観的な捉え方よりも、メディアそのものの反映、マスメディアの役割、そして現実の記号としてのイメージ消費に関心を寄せる、反体制的で水平的なアプローチ、つまり写真に対する独自の理解を追求していった。森山大道の回顧展が2026年4月18日~5月17日、「KYOTOGRAPHIE(京都市内各所)」で開催された。下記リンク先は森山大道の公式ウェブサイトです。

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世界史遠望(24)三島由紀夫の割腹自殺 と楯の会

三島由紀夫
陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地で演説する三島由紀夫 ©1970 日本経済新聞

1970年(昭和45年)11月25日、市ヶ谷の陸上自衛隊駐屯地で作家の三島由紀夫が割腹自殺を遂げた。益田兼利東部方面総監の身柄を拘束、自衛隊員の集合を求め、その前で演説をした後のことだった。三島は1968年(昭和43年)10月、保守系の学生を集めて、私兵組織ともいわれた「楯の会」を結成した。定員は100名。当時は、多くの人々が革命を呼号し、学生運動が吹き荒れた時代だった。彼らは自衛隊で軍事訓練を行なうなどの活動を積みつつ、左翼運動と対峙していく。そして三島は、この「楯の会」から森田必勝をはじめ。4人のメンバーを選抜し、事件へと向かったのである。正午を告げるサイレンが市ヶ谷駐屯地の上空に鳴り響き、太陽の光を浴びて光る日本刀「関孫六」の抜身を右手に掲げた三島がバルコニーに立った。日本刀が見えたのは一瞬のことだった。

楯の会
三島由紀夫が結成した楯の会 ©1970 柿沼 隆

三島はなぜこの事件を起こしたのか。そして想いはどこにあったのか。様々なことが言われているが、この事件の時、三島は檄文を配布していた。以下に抜粋してみよう。

われわれは戦後の日本が経済的繁栄にうつつを抜かし、国の大本を忘れ、国民精神を失ひ、本を正さずして末に走り、その場しのぎと偽善に陥り、自ら魂の空白状態へ落ち込んでゆくのをみた。われわれは今や自衛隊にのみ、真の日本、真の日本人、真の武士の魂が残されてゐるのを見た。しかも法理論的には、自衛隊は違憲であることは明白であり、国の根本問題である防衛が、御都合主義の法的解釈によつてごまかされ、軍の名前を用ひない軍として、日本人の魂の腐敗、道義の頽廃の根本原因をなして来てゐるのを見た。われわれが夢みてゐたやうに、もし自衛隊に武士の魂が残ってゐるならば、どうしてこの事態を黙視しえよう。自らを否定するものを守るとは、なんたる論理的矛盾であらう。男であれば、男の矜りがどうしてこれを容認しえよう。我慢に我慢を重ねても守るべき最後の一線をこえれば、決然起ち上がるのが男であり武士である。われわれはひたすら耳をすました。しかし自衛隊のどこからも「自らを否定する憲法を守れ」といふ屈辱的命令に対する男子の声はきこえては来なかつた。あと二年のうちに自主性を回復せねば、左派のいふ如く、自衛隊は永遠にアメリカの傭兵として終るであらう。われわれは四年待つた。最後の一年は熱烈に待つた。もう待てぬ。自ら冒涜する者を待つわけには行かぬ。しかしあと三十分、最後の三十分待たう。共に起つて義のために共に死ぬのだ。日本を日本の真姿に戻して、そこで死ぬのだ。生命尊重のみで、魂は死んでもよいのか。生命以上の価値なくして何の軍隊だ。今こそわれわれは生命尊重以上の価値の所在を諸君の目に見せてやる。それは自由でも民主主義でもない。日本だ。われわれの愛する歴史と伝統の国、日本だ。これを骨抜きにしてしまつた憲法に体をぶつけて死ぬ奴はゐないのか。もしゐれば、今からでも共に起ち、共に死なう。われわれは至純の魂を持つ諸君が、一個の男子、真の武士として蘇へることを熱望するあまり、この挙に出たのである。

この日は朝から快晴で正午の気温は11.4度だった。三島の頭には「七生報國」(七たび生まれ変わっても朝敵を滅ぼし国に報いるの意)と書かれた日の丸の鉢巻が巻かれていた。

三島由紀夫の棺
陸上自衛隊の駐屯地から運び出される三島由紀夫の棺 ©1970 時事通信

右背後には同じ鉢巻の森田が仁王立ちし、正面を凝視していた。12時10分頃、森田と共にバルコニーから総監室に戻った三島は、誰に言うともなく「20分くらい話したんだな、あれでは聞こえなかったな」とつぶやいた]。そして益田総監の前に立ち「総監には、恨みはありません。自衛隊を天皇にお返しするためです。こうするより仕方なかったのです」と話しかけ、制服のボタンを外した。三島は、小賀が総監に当てていた短刀を森田の手から受け取り、代わりに抜身の日本刀・関孫六を森田に渡した。そして、総監から約3メートル離れた赤絨毯の上で上半身裸になった三島は、バルコニーに向かうように正座して短刀を両手に持ち、森田に「君はやめろ」と三言ばかり殉死を思いとどまらせようとした。割腹した血で「武」と指で色紙に書くことになっていたため、小賀は色紙を差し出したが、三島は「もう、いいよ」と言って淋しく笑い、右腕につけていた高級腕時計を「小賀、これをお前にやるよ」と渡した。そして「うーん」という気合いを入れ「ヤアッ」と両手で左脇腹に短刀を突き立て、右へ真一文字作法で切腹した。

ペン  井上隆史(白百合女子大学教授)「割腹自殺によって“作品”を完成させた三島由紀夫」nippon.com