2015年1月18日

シャルリー・エブド紙襲撃事件と表現の自由

預言者ムハンマドの出生地マッカ(メッカ)のカーバ神殿 (Islam Explorer)

フランスの風刺新聞シャルリー・エブド紙襲撃テロは、改めて表現の自由について考えさせられた事件であった。ここでイスラームと「教」を付けないのは、教えそのものがイスラームであり、重ねて「教」を付けるのは屋上屋を架す感が強いからである。事件後「私はシャルリー」というスローガンを掲げた大規模なデモがあったが、シャルリー・エブドの論調に反対であっても、シャルリー・エブドの表現の自由がテロに屈してはならないという意志表明であったようだ。これはヴォルテール(1694-1778)の有名な言葉「私はあなたの意見には反対だ、だがあなたがそれを主張する権利は命をかけて守る」を踏襲したものだろう。エリザベート・バダンテール女史はジュルナル・デュ・ディマンシュ紙(JDD)のインタビューに応えて「2007年のムハンマドの諷刺画の裁判のときには、シャルリー・エブドはイスラモフォビアすれすれで、表現の自由を悪用しているというものもいました。でもここで再確認する必要があるのですが、思想に関する限り、表現の自由にはまったく制限がありません」と断言している。ここに私はフランスの啓蒙思想の潮流を垣間見るような気がする。
表現の自由は思想としてその権利があるということなのだろう。しかしイスラームとは元々「帰依する」という意味で、アッラーに絶対帰依し、その教えに従って生きること。すなわちライフスタイルなのだが、表現の自由を基にその点を揶揄していいのかという疑問は残る。襲撃事件で犠牲となった警察官アフメド・メラベさんに関するツイートが興味深い。「私はシャルリーではなくアフメド、死んだ警察官だ。シャルリーは私の信仰と文化を嘲笑、そうする彼の権利を守って死んだ」と。風刺画は英語でCartoonと言うが、要するに漫画である。時に痛烈な風刺はマスメディアに不可欠なもので、その表現の自由は守るべきである。しかし信仰と文化と生活様式を嘲笑することは慎重にすべきである。特に異教徒に対するそれは、新たな紛争の呼び水になるからだ。

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