2014年8月7日

かき氷とソロー「ウォールデン;森の生活」を繋ぐ糸

氷旗  五条坂(京都市東山区五条通大和大路東入る)

今日から京都市東山区五条坂の「陶器まつり」が始まった。35℃を超える炎天下、たまらず食堂に飛び込んでかき氷を食べた。ニッポンの夏はやはりかき氷なのだ。子どものころ、縁日で食べたかき氷を忘れることができない。赤や黄色いシロップ、今思えば合成着色料を使ったいささか怪しげなものだったかもしれないが、イチゴやレモンの天然シロップと信じて食べたものだ。かき氷を売ってる店では、青い波千鳥をバックに赤い文字で氷と書かれた小型の幟を掲げていることが多い。全国津々浦々で見られる光景だが「氷旗」と呼ぶそうだ。そのデザインの起源を探ってみたところに突き当たった。氷の産地表示あるいはに使われた「官許氷函館」という旗が原型らしいのだが、画像を見つけることができなかった。その代わりに函館市の市史デジタル版には函館氷の広告が載っているが、現在の氷旗は書体とデザインが少し違う。函館氷はブランド名で「函館五稜郭龍紋氷」のことで、昭和10年(1935)北島エハガキ店が発行した採氷風景の絵ハガキが残っている。

函館五稜郭龍紋氷採取の景(昭和10年4月2日発行)
五稜郭は江戸時代末期に函館に作られ、その内部が明治4年(1871)以降建壊された城郭のことである。ここの天然氷を切り出して「函館氷」として京浜市場に送りはじめたのが愛知出身の中川嘉兵衛だった。開港後、アメリカのボストンから天然氷が輸入されるようになった。上記函館市史によると「当初氷は横浜に居留する外国人の飲料品や食肉保存用として利用され、また後には来日した外国人医師が治療用に利用する場合もあった」という。さらに「ボストンから横浜までの長時間の航海輸送のために目減りが激しく氷の価格は非常に高価であった。それを横浜の居留地で氷販売に当たっていた外国居留商人が市場を独占して多額の利益を得ていたという。こうした状況下にあって、国内での採氷業に注目したのが中川嘉兵衛であった」というのだ。ボストン氷が多大な利益を得てることを知り、日本各地で採氷して横浜へ運送したが、いずれも品質の面ボストンとは比べ物にならず失敗に帰した。紆余曲折を経て亀田川を水源とする好水質を持つ函館五稜郭に出会い、ボストン氷を上回る品質の氷を世に出すことができたという。出荷された商品には、龍が舞う図柄がデザインされていたといわれ、今に伝わる氷字の下に水流模様の原型になったとみられている。

ウォールデン;森の生活
舞台をそのボストンに移すことにしよう。ヘンリー・D・ソローの『ウォールデン;森の生活』は、安政元年(1854)に刊行された。アメリカのペリーが浦賀に再び来航、横浜村で日米和親条約が調印され、日本が開国した年である。マサチューセッツ州コンコード近くのウォールデン湖畔に自ら建てた小屋に、2年余り暮らした経験を元に書かれたものである。この中に次のような記述がある。「ヤンキーの監督者たちに連れられた百人のアイルランド人たちが、ケンブリッジから毎日氷を切り出しにやって来たのだった」云々。つまりソローは凍結した湖面の氷の切り出し作業を目撃した。天然氷を冬場に採取し保冷しておき、夏場に南方の都市部で販売するという事業だったが、これを仕切る豪農の名をソローは知る。フレデリック・テューダー(1783-1864)だった。

テューダーの名からターシャ・テューダーを連想する人は少なからずいると思う。日本でも人気が高い、絵本作家、園芸家である。なんとフレデリックはターシャの曽祖父にあたる人物であり、彼こそ明治初期に日本に天然氷を輸出したボストンの事業家だったのである。ターシャが俗界から逃れたのは、ソローの強い影響によるものと想像できる。中川嘉兵衛が函館で切り出した氷は、当然のことながら飲用にも使われたが、その典型がかき氷だった。文献歴史学は面白い。そして昨今は図書館に行かずとも、ウェブ上で様々歴史資料に出会える。かき氷のルーツである函館氷が、ソローやターシャ・テューダーと一本の糸に繋がってることは興味深い。

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