2014年4月12日

藤村直樹君と上七軒「吉田家」の思い出



古川豪君のファーストアルバム『フルッチンの唄』を自主制作したのが1971年だから、その年だったと記憶している。京都市の北、北山杉で知られる周街道をさかのぼると京北町がある。常照皇寺の九重桜と言えば分かる人が多いかもしれない。その京北町に「山国青年の家」というのがあり、フォークキャンプがあった。私は飛び入りだったが、ヴァイオリンの弾き語りで添田唖蝉坊の歌を歌った。これを縁に、大阪で開催された高田渡さんのコンサートにゲストとして招かれたのである。当時、渡さんは添田唖蝉坊の歌を、アメリカンルーツ音楽に載せて歌っていた。いわばそのオリジナル模した演奏を私がしたので、客席から喝采を受けたことを、恥ずかしながら思い出す。藤村直樹君と出会ったのがそのフォークキャンプだったと記憶している。その後和歌山医大を卒業した彼が医師になったことは知っていたが、親交は途絶えてしまった。

そして再会したのは京都・上七軒のお茶屋「吉田家(よしだや)」だった。祇園町の元芸妓さんに紹介してもらい、通うようになったのだが、座敷ではなく小さなバーが私の定席だった。ある日、そのカウンターで蝶ネクタイをした医師と出会った。藤村直樹君だったのである。当時藤村君は渡さんの主治医で、その様子をよく語ってくれた。ギターの弾き語りで『生活の柄』を二人で歌ったことが懐かしく思い出される。その「吉田家」は当時「おっきいおかあさん」こと大女将の悦子さん、そして「ちっちゃいおかあさん」こと娘の泰子(ひろこ)さんが切り盛りをしていた。上七軒は戦後舞妓が途絶えたが、泰子さんがその復活一番バッターになった。
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舞妓を卒業したあと、彼女は東京新橋の料亭「金田中」に修行に出た。新橋演舞場のすぐ横にあるが、佐藤栄作元首相がここで倒れて有名になった料亭である。大女将の悦子さん自身も昔は舞妓だったが「舞妓極道どす」というくらい舞妓好きであった。そして待望の舞妓を生み出した。それが勝悠喜(かつゆき)さんだった。泰子さんには子どもがなく、この勝悠喜さんを養女にして、将来の女将にするつもりだったようだ。しかしそれは夢のまま終わることになる。そして2001年の春ごろ「吉田家」は店仕舞いをする。泰子さんの健康状態が急に悪化したためだった。その前年、私は「イスタンブル素描」という個展を開いたが、唯ひとりプリントを購入してくれたのが彼女だった。今思えば、彼女は自分の死が近づいてるのを知っていたようだ。

翌秋になって泰子さんは他界した。脳腫瘍だった。数年後、母親の悦子さんもこの世を去った。母娘を看取ったは藤村君だった。共通の遊び場を失った私たちはの付き合いは再び疎遠になってしまったが、一度、市内のホテルのバーに呼ばれたことがある。例によって酩酊気味だった藤村君だったが、「渡さんの死はボクの責任だ」とポツリ。ローラーフレックスで1枚撮影、後で見せたところ、何故か不機嫌だった。すでに彼もまた病魔に犯されていたのだろう。藤村直樹君を偲ぶコンサート『君こそは友』が、4月19日(土)、20日(日)の二日間、京都のライブハウス「拾得」で開催される。

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