2019年11月8日

沖縄高等女学校制服変遷悲話

へちま襟の上着にモンペ姿の女学生たち

沖縄県立高等女学校の前身だった、私立沖縄高等女学校が設立されたのは、明治政府が琉球藩を廃し、沖縄県を強制的設置した1879(明治12)年から数えて21年目の1900(明治33)年だった。当初は首里城の軒先で授業をしていたが、1908(明治41)年、真和志村大道に新しい校舎が竣工して移転した。1916(大正5)年に沖縄県女子師範学校が移転して並置された。校長および一部の教師は兼任であった。そのため、校名は異なるものの、実質的には一つの学校に近いものであった。当時の制服は小袖に女袴という大和風だったが、1922(大正11)年に全校生徒自治会で「女学生の制服として和服と洋服と何れが可なりや」との議題が提案された。賛否激しい議論になったが、翌年、制服制定の件で洋服和服自由期間を設けた。

ひめゆり平和祈念資料館(糸満市)
半年でほぼ全員が洋服になり、1926(大正15)年に制服がセーラー服に正式決定されたのである。1928(昭和3)年には、さらに沖縄県立第一高等女学校に改称された。時代が下り、1941(昭和16)年になると、2年生は分け髪、3年生は分けて結ぶ、4年生は三つ編みと決められた。どうして学年ごとにこのような区分けをしたか不明である。迫りくる戦争の黒い影が沖縄の空を覆い、この年からセーラー服がへちま襟の上着に変更され、さらに翌年には、スカートの代わりにモンペ着用になった。糸満市のひめゆり平和祈念資料館によると、米軍の沖縄上陸作戦が始まった1945(昭和20)年3月23日の深夜、沖縄県女子師範学校および沖縄県立第一高等女学校の女学生222人と、引率教師18名の合計240名からなる「ひめゆり学徒隊」が南風原の沖縄陸軍病院に向かった。敗色濃厚となった6月18日に突然解散命令が出され、翌日の6月19日をはじめとする約1週間の間に多数の犠牲を出した。亡くなった女学生は123名、教師は13名だった。陸軍病院以外の犠牲者を加えると、沖縄戦で亡くなった女学生は211名、教師は16名、合わせて227人だった。戦闘機による激しい空爆と、戦艦ミシシッピなどによる艦砲射撃で町が焼かれ、校舎は灰燼に帰し、廃校を与儀なくされる。開校時に教室として軒先を借りた首里城も砲撃を受けて炎上した。1900(明治33)年から数えてわずか45年、沖縄県立高等女学校のすべてが、戦争によって露と消えてしまったのである。

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