2017年7月9日

祇園祭長刀鉾天王人形の謎

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左の絵は竹原春朝斎『都名所図会』安栄9(1780)年、右は二代歌川広重『諸国名所百景』安政6(1859)年に描かれた祇園祭長刀鉾である。竹原春朝斎の絵は比較のため右ページを省いたが、左上に「鉾に乗る人の競(きほ)ひも都哉」という榎本其角の句が見える。二代歌川広重の絵はおよそ80年後に描かれたのだが、大胆な構図になっている。仔細に観察すると、両者には共通点がたくさんある。町家一階の格子、提灯、二階から鉾をを見守る人々、いずれも非常によく似ている。記録によれば、巡行は四条通から寺町通を南下している。鴨川らしき光景が描かれているが、このアングルで本当に見えたか怪しい。漠然と疑いを持つようになったのはこの点からだった。私は浮世絵の研究家でないし、この二つの絵を比較検討した文献が存在するのか不明だが、二代歌川広重は、竹原春朝斎の絵を模倣した可能性があると想像している。つまりそれほどに都名所図会は、当時、ポピュラーだったと言えるのではないかと思う。

長刀鉾天王人形の部分拡大図
さらに注目すべきは、鉾頭の下にある天王台の人形である。これは鉾の守護神、和泉小次郎親衡(ちかひら)像である。小舟を操り、三条小鍛冶宗近作の大長刀を振るい、山河を縦横無尽に駆け巡ったといわれる、強力無双の源氏の武将である。小屋根の下に結いつけられているが、舟も真木に括られている。現在この人形は僅か23センチの木彫り、路上からは双眼鏡あるいは野鳥観察用望遠鏡などを使わないと観察できない。竹原春朝斎は鉾建て前にスケッチしたのだろうか。二代歌川広重の絵は若干描き込んでるものの、これまた両者は酷似している。ただ小屋根や台座はそっくりだが、長刀の刃の向きの上下が逆なのが気になる。武道に関しては不案内だが、太刀や長刀は突くか、振り下ろす武器だから、後者の構え方のほうが自然ではないだろうか。とすれば、気になる部分を修正したのではないか、というのが私の推論である。明日から山鉾建てが始まるのだが、何年か前に見物したけど、天王人形を撮ることができなかった。人形は最後に取り付けるのだが、作業の邪魔になるので近づけなかったのである。今年は時間を割いて見物したいと思っている。

松本元『祇園祭細見』より
天王人形は昭和61(1986)年に作り直された。京都新聞2009年7月12日の記事によると、人形を制作した有職御人形司十二世の伊東久重氏は、その祖父が新調した人形を参考に復原制作したという。祖先である桝屋庄五郎が享保11(1726)年に作ったものが元になっているという。侍烏帽子(えぼし)に直垂姿で、右手に大長刀を持ち、左肩に小舟を担いだ勇壮な姿をしてると語っているが、伊東久重氏の長男、建一氏が写真をウェブサイト「伊東建一御所人形の世界」に掲載している。これを見ると昭和52(1977)年に発刊された松本元『祇園祭細見』のさし絵の通りである。確かに肩に小舟を担いでいるが、都名所図会とは大きく異なる。実際に古い人形を手にし、復原した伊東氏の証言が間違いとは言い難い。桝屋庄五郎作の人形が意匠変更されず、そっくり継承されたのなら、竹原春朝斎や二代歌川広重が描いた絵が間違いとなってしまう。新聞を読んだ当時、この点が気になって、天王人形を制作した伊東久重氏に直接電話でお訊ねしたことがある。「享保11(1726)年に作られた人形の傷みが酷く、昭和29(1954)年に祖父が制作し直した。昭和60(1985)年の鉾建ての際に損傷、翌年に作り直すことになった。人形の目や口の筆跡がはっきり残り、装束も崩れてなかったので、これを参考に復原した」そうである。するとやはり竹原春朝斎や二代歌川広重が描写した天王人形の絵は正確なものではないということになるのだろうか。いや、違う。実際に見た竹原春朝斎がわざと違う像を捏造したとは考え難い。遥かなる時間の波に漂い、歴史が混沌と化してしまったようだ。

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